昼の休憩時間を苦痛だと感じたことは、未だかつてなかった。 できれば午前中にケリをつけたかった対局は、予想に反して相手に粘られて昼の打ちかけを挟むことになってしまった。 誰もいなくなった対局室で、ヒカルは碁盤を睨んだまま動かない。 今のヒカルには、何故アキラが対局中の昼食をとらないのか理解できる気がしていた。 口から食べ物を摂取すると、一緒に雑念まで飲み込んでしまいそうな不安を感じる。ギリギリの精神にほんの少しでも余計なものを植えつけたくなかった。 幸い、今日の手合いに親しい人間はほとんどいなかった。和谷や伊角がいたら、恐らく今のヒカルを咎めるだろう。 中には、これまで顔を合わせれば会話を交わしていた棋士たちがいるにはいるが、誰もヒカルに目を合わせない。それは至極当たり前のことだろう。これだけ神経質なオーラを纏うヒカルに、好んで声をかけたがる物好きはそうそういない。 ヒカルは微苦笑を浮かべた。アキラの「周りは何も言わないのか」との問いに、和谷だけだと答えたことを思い出したのだ。 それは嘘ではない。しかしニュアンスを考えると嘘が含まれている。 和谷だけがヒカルの変調に気づいているのではなく、和谷以外はヒカルに声をかけられなかったというのが本当のところだ。 自分の神経が常に張り詰めていることはヒカルも自覚していた。以前のような柔らかい表情を作ることができない。気を抜くと、あっという間に「自分」に戻ってしまう。 まだ、対局のない日はよかった。ただの取材やイベントの手伝い程度なら、そこまで気持ちを追い詰めなくとも仕事をこなすことはできる。 しかし、碁盤に向かわなければならない時間は朝から相当な集中力を要する。誰も声がかけられないほどに、まるで殺気にも似た余裕のない空気を迸らせながら碁石を掴まなくてはならない。 正直なところ、何故こんなに心も身体も疲れるのかその理由が分からなかった。 佐為の思うように、佐為として碁を打てば良いのだと思っていた。かつて自分を導いてくれたあの扇子の先が蘇ったように、佐為の意識を感じて、佐為が考えるがままに石を打つ。佐為の棋譜を全て頭に入れ、そして二年半という歳月を共に暮らした自分ならそれができると思っていた。 なのに、思うようにいかない。佐為らしさだけではなく、棋譜の美しさにまで気を使うと、更に精神は消耗する。 相手が格下ならまだ良かった。しかしこの前の対倉田戦のような、トップレベルの棋士を相手にしていつまでも通用するものではない。 倉田の手は鋭かった。恐らく、それまでのヒカルの碁をよく知っていた倉田は、佐為の手に面食らったに違いない。序盤にペースを狂わせられたことはヒカルに有利をもたらしたが、すぐに倉田は立て直してきた。凌ぎ切れたのは運が良かったとしか思えない。 さすが、思う通りには打たせてくれなかった。嫌なところを的確に突いてくる。翻弄されたヒカルは、まさしく緒方の指摘したとおりの「佐為のモノマネ」碁を打つハメになった。 自分の根に佐為がついていない。それを思い知らされ、悔しくて、辛かった。 人はあの勝利を賞賛してくれたが、たまたま勝ちを拾ったにすぎないのだ。今、再び倉田と対局すれば、勝つのは倉田だろう。 佐為になりきれない――これでは何の意味もない。ここまで自分を追い込んで、それでも辿り着けないあの場所があまりに高く遠い。 だから、頼んだのだ。アキラに、行洋と打たせてくれるようにと。 もっと自分を追い込みたかった。恐らく、どんなに早くても対局が叶うのは三月を過ぎるだろう。そうして自分に期限をつけて、もっとギリギリまで追い詰められてみたかった。 そうでもしないと、いつまで経っても中途半端な状態から抜け出せない。そんな気がした。 ――何故、急に父と? アキラの声はヒカルの弱い部分を揺さぶる。 離れていたのはたった十七日間だったというのに、何年も一人ぼっちでいたような気分だった。 久しぶりに顔を見て、心が解れていったのをまざまざと感じた。 ……アキラは自分を見て驚いていた……。 (……そりゃ、そうだよな) ごまかしきれるはずがない。この顔色の悪さ。母親が毎日泣きそうな顔で自分を見ている。体重が極端に落ちたわけではないが、こけた頬には自分でも気づいていた。 何かあったと、すぐに感づかれただろう。だからアキラは、唐突に倉田との一局を再現するよう言ってきたのだ。 棋譜を見れば、相手の調子は手に取るように分かる。アキラはきっとそう考えた。 しかし、アキラの前であの一局を打つのは躊躇われた。……アキラには見られたくなかった。中途半端の出来損ないの、そのくせ佐為を意識したあの一局を。 もう、アキラは倉田戦の棋譜を見たはずだ。ならば、ヒカルがしようとしていることにも気づいたかもしれない。 荒々しくヒカルを抱いたあの腕の力強さ、あれがアキラの答えなのだろう。 乱暴とも言える愛撫を全身に受けて、深く身体を貫かれた時、佐為に潜りかけていた意識が完全にアキラのものになっていた。 熱い胸に抱き竦められると、強張っていた心がゆるゆると開いていく。 気づけば自分からアキラの熱を求めていた。全て忘れて抱き合うことだけに没頭した。 あの夜、何も考えることなくヒカルは「ヒカル」でいられた。 アキラがヒカルを引き戻した。 久方ぶりに、アキラに抱かれて深い眠りに落ちることが出来た。 ……それを嬉しいと感じている自分がいた……。 (……無理なんだろうか) 佐為になるのは。佐為に変わるのは。 身体も心もこんなに疲れている。アキラに強く抱かれてほっとした、それは今のヒカルが無茶なことをしている証拠ではないだろうか? ……本当は自分は、佐為になりたくないのでは? (――駄目だ) ヒカルはきつく目を瞑り、浮かんだばかりの戯言を掻き消そうと口唇を噛み締めた。 今更後戻りできない。時間がないのはあれだけ思い知らされたはずだ。 最早自分の意志など関係ないのだ。――必要とされているのは佐為なのだから。 やり遂げたい。佐為を待つ人たちのために。 やり遂げなくてはならない。まだ佐為の素晴らしい碁に触れていない人たちのためにも。 佐為の未来を引き継いで、あの美しい碁を完成させる。それが今の自分への使命…… (……でも、もし……佐為の碁が完成したら) この心が、完全に佐為の碁を理解できたら。 俺は「俺」じゃなくなるんだろうか……? アキラはその時何と言うのだろう。 佐為を追って、ヒカルを捕まえたアキラは。 佐為の碁が戻ってきたことを喜ぶだろうか。 ヒカルの碁が消えたことを悲しむだろうか…… |
独白に近くなりました……
視点の使い分けが昔っから下手くそなんだなあ……