BABY DON'T CRY






 碁会所の自動ドアを潜ると、条件反射のように受付の市河が笑顔で振り返り、そしてすぐにその笑顔を凍らせた。
 恐らくアキラの後ろについて来たヒカルを見たためだろう。何人かいる常連客も、ヒカルを見てぎょっとしている。
 アキラは素早く視線を碁会所の左右に走らせた。ヒカルといつもやりあっていた北島の姿は見えない。アキラは少しほっとした。
「市河さん、奥借りるね」
「あ……え、ええ……」
 アキラとヒカルはいつものように市河に鞄と上着を預け、定位置である奥の席へと向かう。
 碁会所の空気が静かになったのは気のせいではないだろう。
 ヒカルの快進撃は、この碁会所においても時折話題になっていたようだった。
 アキラが帰国後の挨拶に寄った時も、ヒカルはどうしているかと聞かれた。順調にトーナメントを勝ち進んでいるヒカルに、激励の言葉を言付けされるほど、ここの常連客もまたヒカルのことを気にしてくれていた。
 しかし久しぶりに現れたヒカルがここまでげっそりと窶れていては、何事かあったのかと勘ぐりたくもなるだろう。
 アキラはちらちらとこちらを見ている数人に、諌めるような目を向けた。途端、大人たちは見てはいけないものを見たというように顔を逸らし、自分の前にある碁盤に向き直る。
 いつもの席で、アキラはヒカルを促した。ヒカルは何も言わずに椅子を引いて静かに座る。アキラもその向かいに座り、そして正面からヒカルを見つめた。
 疲れ切ったヒカルの削げた頬が痛々しい。
 以前ヒカルがアキラをごまかすために「寝不足」なんて言葉を使ったが、もしそれが本当ならヒカルは全く眠っていないのではないかと思う程に顔色が悪かった。
 あまり長く拘束しないほうがいいかもしれない。しかし早めに家に帰したところで果たしてヒカルは眠るのか――そんなことを考えながら、アキラは碁笥を手にとった。
「……久しぶりだね。打つの」
「ああ……」
「一月以上打たなかったのは最近では初めてかもね」
「そう、だったっけ」
 ヒカルの目が落ち着かなく、碁盤と碁笥を行ったり来たりしている。アキラはその瞳の中にまたあの嫌な水面が見えないかと、内心ハラハラしながら白石を掴む。
「進藤……この一局が終わったら話がある」
「……」
 ヒカルの眉が弱々しく揺れた。
「時間は取らせないから」
「……、……ああ……」
 アキラのニギリに対してヒカルは黒石をひとつ、碁盤の上にぽとりと落とした。
 先番はアキラだった。


 ――碁会所に連れてきたのは、話すだけでは足りないと思ったからだ。
 棋譜だけではなく、今のヒカルの碁をこの目で見てみたかった。碁を生業とする自分たちにとって、碁石を打つことはどんな話し合いよりも雄弁になれる。
 去年もそうだった。何故かアキラと打つことを頑なに拒んだヒカルと、分かりあうために一局打った。
 それで充分だった。ヒカルの気持ちも、アキラの気持ちも碁盤の上であんなに光り輝いて、そうしてヒカルはアキラを唯一の相手として選んでくれたのだ。
 きっと、難しい言葉での話し合いなんかより、打ち合うほうが自分たちにはしっくりくる。
 アキラは願っていた。自分と打つことで、ヒカルの変化をとめられないだろうかと……


 アキラの黒石が碁盤に打たれてから、ヒカルの白石は数分の間を要して打たれる。
 そんなやりとりが続き、いつになくゆっくりとしたペースで碁盤に石が並んで行く。
 ちょっとだけ、と言っていたヒカルは、一手一手にやけに時間をかけていた。ひとつ置くのに難しい顔で考え込む。これまでアキラとヒカルが対局する時は、早碁のような展開が多かったため、二人にとって今までにない奇妙な時間となったことは間違いないだろう。
 アキラは時折目を細めながら、ヒカルの打つ手をじっと見守っていた。
 ――随分無理をして碁石を打っているように見える。
 ヒカルなら、とアキラは思う。「ヒカル」なら、本当はこんなふうには打たないはずだ。
 もっと自由に、碁石で作る宇宙を楽しむはずだ。
 何故、saiのように、いやsaiとして打とうとするのだろう。
 何故saiになろうとしている?
 アキラは碁石で問いかける。ゆっくりとした碁、綺麗な黒と白の二色模様。じわじわと碁盤に広がっていく、穏やかな、それでいて儚気な強さ。
 いつものヒカルなら、この黒石をキリにくるはず。アキラは見越して次の手を打つ。
 しかしヒカルは「ヒカル」のようには打たない。アキラはそれも見越して次の手を打つ。
 この数年間、誰よりもヒカルとたくさん打って来た自信がアキラにはあった。
 ヒカルが打ちたくなるような、そんな心躍る碁を。
 思わずやり返したくなってしまうような、そんな心憎い手を。
 少しずつ、少しずつ、アキラは碁石で問いかける。




 『何故、打たない? 「ヒカル」は打ちたくないのか?』




 ふと、これまで一手に長く時間をかけていたヒカルが、アキラの黒石に釣られるように即座に白石を打った。
 僅か数秒で放たれたその手に、アキラははっと顔を上げる。
 ヒカルもその石と自分の指を凝視していた。
 白石を置いたそのままの格好で、薄く開いた口唇もそのままに、動かずにじっと指先だけを見つめている――
「……あ……」
 やがてその口から吐息のような声が漏れた瞬間、ヒカルが突然立ち上がった。
「進藤」
 アキラが呼ぶ声も聞かずに背を向け、ヒカルはそのまま走り出す。
「進藤!」
 いつもの癖でカウンターにヒカルのリュックとジャケットを用意していた市河から、ヒカルは奪い取るようにそれらを掴むと、振り返らずに碁会所を飛び出していった。
 アキラは追おうとして――しかし留まり、打ち掛けになった碁盤を見下ろした。
「……これは」
 アキラはごくりと唾を飲み込む。
 今のは……ヒカルの碁だ。
 さりげなく割り込んで、後からこの石を中心に黒の地を荒らしにくるつもりだったのだろう。相手を油断させて、気付いた時には手遅れにさせるような企みのある打ち回しは、ヒカルが好んで打っていた手だ。
 アキラは胸を押さえた。そして服を握り込むように拳を作る。
「進藤……」
 まだ、「ヒカル」は消えていない。
 まだ呼び戻せる。そう、自分と打てばヒカルは戻って来る。
 大丈夫、大丈夫だ。ヒカルがどんなにsaiになろうとしても、ヒカルの碁は消えずにじいっと眠っている。
 待っているのだ。解き放たれるのを――


 アキラは一人、碁石を片付け始めた。
 今からヒカルを追いかけても間に合わないだろう。
 無理矢理「ヒカル」を引き出したせいで、怒っているかもしれない。
 しかし、アキラの言わんとしたことは伝わったはずだ。
(……後で電話をしてみよう)
 そして、改めて話し合おう。――もう、戻っておいでと。
 saiになろうとしたのには、何か理由があるはずだ。緒方の言葉に挑発されただけならまだしも、アキラの知らない何かがまだあるのかもしれない。
 それならそれで、理由なんか聞かなくてもいい。何も尋ねるまい。いつかのように、黙ってヒカルを受け止めてあげればいい。
(だって……ボクらは約束した)

 ――理由なんか言わなくていいから、最後はボクのところに来て……

「……アキラくん」
 ふと、市河がテーブルの脇に立ち、心配そうにアキラを見下ろしていた。
「進藤くん……大丈夫? なんか……すっかり痩せちゃって……様子、おかしかったみたいだけど……」
 顔を曇らせて躊躇いがちに尋ねる市河に、アキラは軽く眉を垂らして微笑んでみせた。
「……大丈夫ですよ」
 ――そう、大丈夫だ。
 ヒカルは戻って来る。戻りたがっている。さっきの一手で確信した。
 一人で戻って来れないのなら、迎えに行こう。
 何かに捕われて道を見失った、可哀想な恋人を迎えに行こう……





 ***





 何かに追われているように、乱暴に開いたドアの向こうへ身体を滑り込ませた。
 ヒカルは荒い息のまま玄関のドアに一瞬背中を凭れさせ、急いで靴を脱ぐ。いつものように、居間のリビングテーブルに携帯電話を放り投げるように置くと、そのまま母親と顔を合わせないように二階へ駆け上がった。
 階下で声がする。ヒカルは答えずに自分の部屋へ逃げ込んで、ドアを激しく閉めた。
 散らばっていた棋譜に足を取られてよろめく。そのまま転がるように床に手をつき、俯せになった身体をのろのろと持ち上げると、視界には棋譜に埋もれた碁盤が映った。
 ヒカルは目と口唇を震わせ、拳を作って床に叩き付ける。
「――……!」
 佐為を意識してから、アキラと打ったのは初めてだった。
 アキラの前で、佐為として碁を打つのは本当は嫌だった。何故と問われるとうまく答えは出て来なかったが、どうしても自分が打った佐為の碁を見られたくなくて、アキラが帰国したあの日も途中で打つのをやめてしまったのだ。
 だけど、いつかは打たなければならないから。
 ずるずると先延ばしにするよりは、とアキラとの対局を受けた。
 佐為として打つつもりだった。これは佐為の碁だと、アキラにも分かるように最後まで打つつもりだった。それなのに……
 ――アキラの打つ手は、巧みに佐為の意図を躱しながら、「ヒカル」を誘っていて。
 むずむずと、胸の奥で忘れようとしていた感覚が頭を擡げるのを堪えていた。
 その一手に、こんなふうに返してみたい。佐為ならうまく凌ぐだろうけれど、ここで割り込んだら後からもっと面白くなるのでは……?

 佐為なら、きっとここに打つ。今の俺は佐為だから。
 ここに打てばもう潰しはきかない。だからここに打つしかないんだ。
 でも、でも、でも。
 こっちに打ったら、きっと塔矢は応えてくれるだろう……

 佐為、佐為、なあ、佐為……




 俺が……打ちた――……




「……!!」
 ヒカルは髪を掻きむしり、首を何度も横に振った。
「今更……今更何言ってんだ!」
 そのまま顔を覆い、床に額を擦り付けて背中を丸める。
「アイツが何度も打ちたいって言ってた時、好き勝手に打ってたのは俺だろうっ!!」
 あんなに打ちたがっていたのに。
 佐為が、佐為の碁を打ちたがっていたのに、ヒカルはヒカルの碁を打った。

 ――では、一体いつになったら私に打たせてくれるのか!?

(ああそうだ、お前はずっと我慢していた!)
 あんなに打ちたがっていたのに――!
 じわりと滲んだ何かで視界がぶれる。ヒカルは顔を上げ、棋譜だらけの部屋を睨み付けた。
 身体ひとつ、心はふたつ。自由にならない身に魂を移した哀れな幽霊は、素晴らしい才能を持ちながらも思うような碁を打たせてはもらえなかった。
 目の前に碁盤があっても、碁石があっても、触れることができない。それどころか、宿ったその身体の本当の持ち主が、彼を置いて自由奔放に好きな碁を打っていく。
 それが、どれだけもどかしかったか。それがどれだけ悔しかったか。
 そうして志半ばで消えてしまった、可哀想な幽霊。今なら分かる。打ちたい碁を打てない辛さが、身を切り裂かれるような痛みが。
「……泣かねえぞ」
 腕で乱暴に両目を擦る。それでもなお滲む世界に歯軋りして、ヒカルは何度も何度も目を擦った。
「畜生、泣かねえぞ、俺は! 泣かねえ!」



 今度は俺が、佐為に打たせてやるんだ。
 アイツの碁を、俺の手で残してやるんだ。
 だから……俺が、打ちたいなんて……
 思っちゃ、いけない……


「……佐為……!」

 震える声を絞り出しても、応える影は何処にも無い。
 ヒカルは棋譜の海に蹲ったまま、ずっと、ずっとそうして口唇を噛み締めていた。




 やがて、ヒカルが居間に置き去りにした携帯電話が震え始める。
 バイブレーションは、長い間、根気強く、その場にいない主を呼び続けた。
 サブウィンドウには「塔矢アキラ」の文字が表示されていた。






さあ一気に畳み掛けていきましょう。
(BGM:BABY DON'T CRY/山下久美子)