――ロビーで待ってる―― そんなメールを送ってから早一時間。 アキラは棋院のロビーでじっとエレベーターを睨んでいた。 当然、待っているのはライバルであり恋人である進藤ヒカル。こんなふうに、半ば強引に約束を取り付けなければ、ヒカルと顔を合わせることができなくなっていた。 全く連絡がとれないわけではない。すぐにではないが、メールの返事は返ってくる。電話も、一度では繋がらなくても後からかけ直してくれる。しかし、逢う約束をしようとすると言葉を濁される。 これまでは、暇さえあれば一緒にいた自分たちだ。いくら忙しくても、お互い何も言わず時間を作る努力をしてきた。 それがここまで逢うことができないなんて、ヒカルが意図的に避けているとしか判断できない。 ヒカルは、アキラがヒカルの変化を良く思わないことに気付いているのだろう。 帰国してから目を通したヒカルの棋譜を見れば、その変遷は明らかだった。 どんどん、ヒカルの一手が変わっていく。 レベルが下の相手との対局なら、saiの碁に比べて遜色がないほどになった。 それはとても美しく、絵画のような棋譜ができあがるのだけれど――ヒカルが好んで打った、時に冒険的で実験的な打ちまわしは影を潜めていた。 何も知らない人間が見たら、ヒカルの打ち筋が完成されたのだと思うかもしれない。現にヒカルは負け無しで、王座戦本戦トーナメントも来月には緒方相手に四回戦を迎えることになる。 しかしアキラには分かっていた。あれは完成ではない。ヒカルの碁を高めるのではなく、ヒカルはかつてのヒカルと違うものに変わろうとしている――そしてそれは着々と進んでいるように見えた。 ――焦るな。進藤は大丈夫だ。お前が思うようなことにはならないさ…… (緒方さんはああ言ったが) そんな保証がどこにあるというのだろう? いつもいい加減なことを言って、自分の反応を見て楽しんでいる。今回も、適当にあしらわれただけかもしれない。 (それに、もうこれ以上待っていられない) 緒方に任せておくなんて冗談じゃない。 何も出来ずに見ているだけだなんて、自分の性にあまりに合わない。 モタモタしていたら、本当にヒカルがsaiそのものに変わってしまうかもしれない。急がなければ間に合わないのではないか――アキラは焦りを感じ始めていた。 ヒカルは今の時間は出版部で取材を受けているはずだった。 三段で初参加でありながら、王座戦のトーナメントを勝ち抜いているため、俄然注目は集まる。 少し前の週間碁に掲載されたヒカルのインタビュー記事は、どれも当たり障りのない内容になっていた。 ――倉田八段との対局については。 ――公式戦では初手合いだったので少し緊張しました。何とか勝ちを拾えてよかったです。 ――以前と碁のスタイルが少し変わったように感じますが? ――一手一手を意識して打つようにしています。なかなか思うような碁を打つのは難しいですが、これからも頑張ります。 恐らく今日もそんなやりとりを交わしているのだろう。 ヒカルがどんな顔をしてインタビューに答えているのか、想像すると胸を掻き毟りたくなる。 あんなに窶れて、あんな目をして。そして自分を避けてまで、何故saiを目指さなければならないのか? あの夜聞かずに終わったことを、アキラは今日こそ聞くつもりだった。 (ボクが、連れ戻す) 今までのように、純粋に碁を楽しんでいたヒカルに。 (今のキミは、saiばかりにこだわりすぎてろくな検討もできていないじゃないか) 「ヒカル」なら、もっと碁を面白くさせる要素を持っているはずなのに。 アキラが奥歯を噛み締めた時、開いたエレベーターの扉の向こうからヒカルが現れた。 アキラは僅かに眉を動かし、目で合図をする。 ヒカルもまた、アキラからのメールを確認していたのだろう。アキラと目が合うと、ほんの少しだけ笑った。 「どうしたんだ? 今日、仕事は?」 「今日は父の後援会の関係で、午前中だけ」 「そっか。……先生、どう?」 「ああ、家で寝てばかりで退屈しているようだ。目を離してフラフラされたら困るって、母が見張っている」 ヒカルが小さく笑った口唇の間から、白い歯がちらりと覗いた。 どこか寂し気な笑顔だと、アキラは目を細める。 「進藤、この後時間は?」 「え……、いや……」 ヒカルが口ごもる。 アキラはそれに気づかないフリをして、ヒカルの腕を掴んだ。ヒカルがびくりと身を竦ませたが、それにも気づかないフリをする。 「予定がないなら、久しぶりに打たないか」 「あ……、……でも」 「いいだろう? しばらく一緒に打っていない。ボクはキミと打ちたい」 「……」 アキラに腕を掴まれたまま、ヒカルは地を睨んでしまう。しかしアキラは一歩も引かなかった。 引き締まった口唇には迷いが浮き出ていた。アキラは辛抱強く待った。ヒカルが何か口を開くのを。そうして長い間、お互い無言でその場に立ち尽くし、ようやくヒカルの口からふうっと小さな息が漏れた。 「……分かった。いいよ」 やや固い笑顔でそう告げたヒカルにアキラはほっと胸を撫で下ろし、掴んでいた手をそろりと離す。 「……でも、ちょっとだけな。俺、少し疲れてんだ……」 「分かってる。少しだけだよ。うちの碁会所へ行こう」 アキラは自宅ではなく、碁会所へヒカルを誘った。 自宅には両親が揃っている。ヒカルが妙な気を使うかもしれない。 それに、自分の部屋で二人きりで向かいあったら、万が一ヒカルにこの前のような表情をされた時に理性が働く自信がない。碁会所ならば、頭のどこかが冷静でいられるだろう……アキラはそんなことを考えていた。 こんな状態のヒカルを人前に出すのは少し気が引けたが、碁会所には応接室もある。客が多いようなら、そこで話をすればいい。 ヒカルはまた少し迷っていたようだが、やがて静かに頷いた。拒否されなかったことにアキラは安堵した。 並んで棋院を後にして、アキラは周りに誰もいないことを確認してから囁く。 「進藤」 「……何?」 「キミが好きだよ」 「……なんだよ、急に」 アキラを見て、ヒカルがはにかんだように微笑んだ。 思いがけなく柔らかさの戻った表情に、アキラはその場でヒカルを抱き締めたい気持ちをぐっと堪えた。 |
ここに至るまで、本当はこの倍くらい時間をかけて
話を繋げたかったんですけど……
アキラと私が我慢しきれなかった……
(たぶんヒカルは耐えた)