「気をつけて」 「おう、お前らも大阪来るときは声かけてや」 「うん、必ず!」 塔矢邸の前で、アキラとヒカルは並んでタクシーを見送った。 後部座席の窓を全開にして、社はその大きな上半身を無理やり外に出し、見送る二人に手を振っている。 「仲良うせえよ〜」 遠くから聞こえる大きな関西弁に、アキラもヒカルも苦笑する。 「あいつ、超近所迷惑だな」 ヒカルは夜も更けた閑静な住宅街を見渡し、小さくなったタクシーの後姿にため息をついた。 「まあ、まだ人が起きてる時間だから。少し冷えてきたね、入ろう」 アキラが門前から踵を返して玄関へと向かうのに、ヒカルはついて行くのを一瞬躊躇った。 昼間からひたすら三人で打ち続けた北斗杯のいわゆる後合宿は、社の帰宅時間と共にお開きとなった。それでも社が新幹線に間に合うギリギリまで粘ったため、時刻はもうすぐ午後の八時になろうとしている。その間三人はほとんど飲まず食わずで碁盤に向かい続けた訳だが。 北斗杯会場となったホテルからアキラの家に直行してしまったヒカルは、実家になんの連絡もしていなかったことを思い出したのだ。 そろそろ帰らなくては。言い出そうとした口は酷く重い。 社も含めて三人で碁を打ちまくっていた間は、何も考えずにひたすら碁に没頭できた。それはそれで楽しい時間だったのだが、おかげでアキラと二人だけの話は何一つできていない。アキラは理由なんか言わなくていい、と言ってくれたが、果たして本当にそれでよいものか。ヒカルは躊躇う。 それだけではない。こうしてアキラと自然に一緒にいられるのは五ヶ月ぶりだ。自分の気持ちを認めた今、もう少し一緒にいたいと思っても変ではないだろう。ただ、それをどう伝えるかでヒカルの心は照れ臭く戸惑っていたのだ。 ところが、ヒカルに背を向けたまま玄関の引き戸に手をかけたアキラが、振り向かずに「進藤」と呼びかけた。 「……泊まっていかないか」 「え……」 アキラは玄関を向いたままで、どんな表情をしているか分からない。ヒカルはすぐに返答できずにもじもじと指先をいじくる。 「今日はもう遅いし。キミも疲れてるだろう。電車にしろタクシーにしろ、今から帰るともっと疲れるかもしれない。それに」 早口でいくつか言い訳を前置きして、アキラはちらりとヒカルを振り返る。 「……ボクはもう少し一緒にいたい」 玄関先を照らす薄明かりの下でさえ、恐らく赤い顔をしているだろうことが分かるアキラの気恥ずかしそうな表情を見て、ヒカルは思わず頬を緩めた。 「……うん」 アキラが黙ったまま手を伸ばす。ヒカルも黙ってその手をとった。 手をつないで、二人で玄関を潜る。暖かくて、穏やかな時間の流れをはっきりと感じるのに、胸だけはドキドキと落ち着きなく脈打っていた。触れたアキラの手は軽く汗ばんでいた。 「……うん、分かった。じゃあ、おやすみなさい」 ヒカルは通話を終え、携帯を耳から離す。その様子を少し離れたところで見守っていたアキラは、「お母さん、何か言っていた?」と首を傾げた。 「うん、塔矢によろしくって。迷惑かけんなって言われた」 「迷惑なんて、そんな」 アキラは困ったように眉を寄せて笑う。ヒカルはその仕草にドキリとした。 「進藤、お腹すいただろ。今何か店屋物でも注文するから。何が食べたい?」 「え、えーと、……ラーメン」 「キミはそればっかりだな」 呆れたように微笑んだアキラは、それでもヒカルの望むものを注文するべく電話をかけに廊下へ出て行った。 アキラの姿が消え、なんとなくほっとしたヒカルは、自分の胸にそっと手を当てる。 時々妙に大人っぽい表情をする、と思う。 元々顔立ちがキレイだから、ちょっとした仕草が様になる。些細な表情の変化でも、今のヒカルをこれだけ乱してしまう。 (俺って物凄く単純だったんだ) 好きだと自覚した途端にいちいちドキドキするなんて。 (でも、俺が悪いんじゃねーもん) アイツがたまにカッコいいから悪いんだ。 的外れな言いがかりをつけ、ヒカルがぶつぶつ文句を言っていると、注文を終えたアキラがにこやかに戻ってきた。 「30分くらいで来るって。……ん? どうかした」 「べ、別に」 ヒカルは口唇を心なしか尖らせ、そっぽを向く。不思議そうな顔をしていたアキラだったが、特に気に留めずにヒカルの隣に腰を下ろした。 テレビも何もない客間では、沈黙をつなぐ逃げ道が作れない。ヒカルがどうしたものかと話題を考えていると、 「そういえば」 アキラがふいに口を開いたので、ヒカルの身体は不自然に跳ねた。 アキラが驚いてヒカルを見ている。いや、その、とヒカルは口ごもり、真っ赤な顔をしてなんでもない、とごまかした。 アキラは少しの間そんなヒカルの様子を伺っていたようだが、やがて続きを話し始める。 「昨日の試合の後。秀英がキミと再戦したいと言っていた」 「秀英が?」 途端に棋士の表情になったヒカルに、アキラは少しだけ目を細めたようだった。 「ああ。……キミはすぐに部屋に戻ってしまったから、伝えるのが遅くなったが」 「そ、それは……」 「そのことはもういいよ。……秀英は明日帰国するそうだ。明日の昼までいつもの碁会所でキミを待つと言っていたよ。場所に心当たりは?」 北斗杯以外で秀英と打った碁会所といえば、彼の叔父が経営するあの碁会所しかないだろう。ヒカルはアキラに頷いてみせた。 「分かった、朝一番で行って来る。塔矢は?」 アキラは申し訳なさそうに首を振った。 「ボクは明日、手合いがあるから。残念だけど」 「そうか……仕方ないよな」 「秀英としてもあの一局は不本意だったんだろう。ボクも見たかったよ。恐らく高永夏も来るだろうから」 「高永夏も?」 思わず声を高めたヒカルに、アキラは僅かに表情を厳しくさせる。 「彼はキミと対局したがっていた」 「でも……、俺、あんな碁打ってたのに」 「だからこそ、確かめに来ると思うよ、彼は。キミの本当の力を」 ヒカルは拳を握り締める。今回の北斗杯では、とにかく自分が嫌になって、秀英や永夏の顔もろくに見ないで逃げるように会場を出てきたことを思い出した。 これ以上彼らをがっかりさせるわけにはいかない。 「永夏が居たら、打つよ、俺。全力で」 ヒカルの言葉を聞いて、アキラの表情が少しだけ和らぐ。 「彼は手強いぞ。ボクも、次も必ず勝てと言われて簡単には頷けない」 「ああ、分かってる。今度お前との大将戦、並べて見せてくれよ。俺、どんなだか全然見てなかったから……」 そうしてヒカルは口を噤んでしまった。 しまった、とヒカルはアキラに分からないよう舌打ちする。 自分から話題を言い辛い方向へ引き寄せてしまった。何故ヒカルがあそこまでアキラを避け、あれほどまで自分の碁を見失ったか、ヒカルは何一つアキラに説明してはいないのだ。 アキラからは恐らく何も聞いてこないのだろう。彼はそういうところは潔い。 ならば自分から話すしかない。ヒカルは昨夜一度は決意したことを、今まさに奮い立たせようと自分自身を叱咤した。 「塔矢、俺、」 言いかけたその瞬間、玄関のチャイムが高らかにヒカルの決心の邪魔をした。 「出前が来たのかな」 アキラは立ち上がり、小走りに客間を出て行った。ヒカルは脱力し、ほっとしたような残念だったようななんともいえない気持ちでため息をついた。 説明しないと、という気持ちは強い。この五ヶ月、自分を待ってくれていた人に対して、何事もなかったかのように振舞うなんてあまりに自分勝手だ。 アキラもまた苦しんでいた。社は彼の碁の変化をヒカルに伝えた。自分のためにアキラもまた迷っていたというのに、彼の言葉に甘えてぬくぬくとしていてはきっと後から悔いることになるだろう。 それでも、佐為のことはうまくぼかしたいと思っていた。 今もまだ自分の中で特別な位置を占めている彼の存在を、上手にアキラに伝えられるとは到底思えない。それだけではない、アキラとの出会いの時から説明しなくてはならなくなってしまう。 できればそれはまだ避けたかった。 思えばたくさんのウソをついてきたものだ。想いが通じた直後に全て打ち明ける勇気は今のヒカルにはまだない。 こうして話すタイミングを先延ばしにしてしまえば、今以上に切り出しにくくなることを分かっていて、ヒカルはあえてそれを選択した。社会に出た身とはいえ、本来なら高校生レベルの青い恋だ。甘い欲を優先してしまう弱い心を自分自身で責められない。 やがて、アキラがお盆にラーメンを二人分乗せて戻ってきた。焦げた醤油の匂いにヒカルのお腹がぐうと反応する。思った以上に空腹だったようだ。 そんなヒカルの様子を察したのか、アキラは笑顔で食べよう、とヒカルを誘った。ヒカルも素直に従うことしにた。 「……ひとつだけ聞きたいことがあるんだけど」 折りたたみ式の小さな丸テーブルを囲み、向かい合ってラーメンを口にしていたアキラが突然そんなことを言い出したので、ヒカルは逆流しかけた麺を必死で喉の奥に戻さなければならなかった。 いくらなんでも、恋人(と呼んで良いものだろうか?)になったばかりの相手の前で鼻から麺は避けたいところだ。 極端に咽せているヒカルにアキラは唖然としていたが、すぐに彼なりの気遣いでコップに一杯水を汲んできてくれた。ヒカルは複雑な気持ちでそれを受け取る。 「大丈夫?」 「う、うん、大丈夫。……で、聞きたいことって……?」 もしや、なかなかヒカルが言えずに居る一連の説明についてだろうか。アキラもやはりこの空白の五ヶ月を気にしていて、問い正す気になってしまったんだろうか。 だとしたら困る、まだ覚悟がいまいちできていない。ヒカルは水を飲み込みながら、何から説明したものか、頭を整理しようと目をきつく瞑る。 ところがアキラの口が接いだ言葉は、いささか拍子抜けするものだった。 「社なんだが」 「え?」 かなり間の抜けた声だっただろう、それでもアキラは特に気にしなかった様子で続ける。 「社は、その……ボクらのことに何の疑問も持たずに接していたようだが、あれは……」 少し言いにくそうに、軽く視線を上辺に彷徨わせて、ほんのり赤らんだアキラの顔を見て、ヒカルは彼の言わんとすることを理解した。 社は塔矢邸にやってきてからひたすらに碁を打ち続けつつも、時折二人をからかうような言葉を、しかし真顔で何度も零していたのだ。 『塔矢、進藤のことそんなに見つめてたら穴開くで』 『進藤、塔矢に見惚れとらんではよ打たんかい!』 最初こそアキラもぎょっとしたような顔をしていたが、徐々に社がふざけ半分でそんなことを言っているのではなく、目の前の二人をごく普通の恋人同士として扱っていることが分かったらしい。最後のほうは、社の言葉にのろけのようなものさえ返すようになっていた。 恐らくあれは社なりの気遣いなのだろう、ヒカルは当てずっぽうではあったがそう考えていた。 あからさまに二人の関係を知っているような素振りを見せることで、自分は味方だと主張してくれていたのだろう。 ヒカルは、アキラが手洗いに立った隙に社がこっそり囁いた言葉を思い出す。 『お前、バンジージャンプ飛ぶ前みたいな顔して会場出てったから心配しとったんや。携帯全然繋がらんし』 『あ……電源切ってた』 『まさかうまくいかんかったんかと思ってパーティー終わってソッコー抜け出してきたんやけど、まあよかったわ。邪魔して悪かったな』 最後の一言は、とても悪かったなんて思ってもいないような意地の悪い笑顔で。 ひょっとして、昨日散々迷惑をかけたことに対する社なりの仕返しだったのだろうか。そう考えると可笑しくなって、ヒカルは思わず苦笑した。アキラが訝しげに眉を寄せる。 せめてこの件だけはアキラに心配かけまいと、ヒカルは正直に話すことにした。 「実はゆうべ、社にちょっと相談にのってもらって」 「ゆうべ?」 アキラの顔色が変わる。しまったとヒカルもまた顔色を変えた。ゆうべといえば、まさにアキラがヒカルを探して走り回っていた頃だ。 「……社はキミが外に出て行った、と……」 背中に黒い影を背負い始めたアキラに、ヒカルは慌てて両手を振る。 「いや、それはその、……だってお前のことだったから!」 「ボクのこと?」 アキラの片眉が上がる。ヒカルはバツの悪そうな上目遣いで頷き、ぽつぽつ言いにくそうに言い訳を始める。 「あいつ、俺らの様子がおかしいの分かってて、心配しててくれたんだよ。で、俺の話聞いてくれて。ちゃんと塔矢に話せって怒られた」 「俺らの様子って……ボクも?」 「社と北斗杯前に打ったんだろ? その時から分かってたみたいだぜ」 アキラは即座に記憶の引き出しを確認したらしく、はっと目を見開き、それから渋い表情に変わる。 「……あれか。確かに少し取り乱した」 「アイツすげぇカンいいんだよ。それで、その時のお前の様子でその……お前が俺のこと……」 もごもごと続きを濁すヒカルに変わって、アキラはきっぱりと 「ボクがキミを好きだと?」 ヒカルの心臓を縮めるようなことを口にする。 ヒカルは熱くなった頬を見られないように顔を背けながら、二、三度頷いてみせた。やはりそう簡単に慣れるものではない。 「……まいったな。ボクはそんなに顔に出やすいんだろうか」 アキラがため息をついて肩を落とすのを見て、ヒカルはどっちつかずの曖昧な表情で首を傾げる。 「……時々ね」 碁会所での騒ぎっぷりはやはり無自覚だったようだ――ヒカルはかつて何度もアキラと打った、あの碁会所での懐かしい日々を思い出す。 ああ、あそこにもしばらく行っていない。多面打ち、やりたいな。指も心も疼いている。 「それで、キミを探し回っているボクからキミを匿って、キミから話を聞いたわけか。道理でボクらが初めから「そう」だと分かってるような口ぶりだったんだ」 「うん……。社、背中押してくれた」 ――お前はまず素直な気持ちで塔矢と一局打て。 とんでもない相談だったにも関わらず、嫌な顔ひとつしないで真剣に話を聞いてくれた社。 「とにかくお前と一局打ってこいって言われた」 「……そうか」 アキラはほんの少し苦味の覗く微笑を浮かべ、キミがボク以外の人を頼ったのは悔しいけど、と前置きして、 「でも、今度会ったら社に礼を言わないと」 「礼?」 「おかげでキミがボクのところに帰ってきた」 蕾が花開くような色づいた笑顔を向けられ、ヒカルは思わず息を呑む。首から顔を昇っていく熱を隠す間もなく、テーブルに身を乗り出したアキラの顔が近づいて、目を閉じる隙さえほんの一瞬の口付けに奪われてしまった。 真っ赤な顔のまま呆然と固まっているヒカルに、アキラは優しく微笑みかけ、早く食べないとのびるよ、なんてからかい口調を投げて寄越す。 慌ててかきこんだラーメンの味が分からなくなった。心臓がうるさくて、胸のあたりの服が揺れているのがアキラにばれてしまうのではないかと気が気じゃない。 そうだ、昼間もし社が来なかったら。自分たちは、あのまま…… 「お風呂、沸かしてくるよ」 立ち上がるアキラの気配にビクっと身が竦む。 恐る恐る見上げたアキラの目は、しっとり濡れてヒカルを見下ろしていた。 「……入るだろう?」 射抜かれて動けない。渇いた喉はぺったり張り付いて声が出ず、代わりに小さく頷くのが精一杯だった。 |
いきなり毛色が変わった曲を持ってきましたが……
とにかく恥ずかしいくらい「大好き!」な曲と言ったらこの曲か、
「うれしい!楽しい!大好き!(だっけ?)」しか浮かばなかったのです。
雰囲気的になんとなくバンザイをお借りしました。
正直この話はあってもなくてもいいくらいなんですけど、
とにかくラブラブになりたての二人を書きたくて
無理矢理付け足してしまいました。