バンザイ







 檜木の匂いのする木肌の優しい浴槽で、ヒカルはぼんやり縁に凭れていた。
「スゲー風呂」
 呟いた声が反響して湯気に溶けていく。
 何年か前、ちょっと贅沢しようと、家族で泊まった温泉宿の個室露天風呂がこんな感じだった。趣のある、純和風の贅沢な風呂。
 今更ながらに思い知らされるが、本来アキラと自分は住む世界が違う人間同士である。育った環境も考え方もまるで違う。それを引け目に思うことはないにしろ、何故自分を好きになってくれたかを考えると一抹の不安が残る。
 そういえば、アキラからそれらしい言葉を聞いた記憶はなかった。彼の形の良い口唇が必死で自分を好きだと告げるのは何度も聞いたけれど、自分のどこが好きなのか、どうして好きなのか、尋ねたら彼は答えてくれるのだろうか。
 もし自分が碁打ちではなかったら好かれてはいなかったのかもしれないと思うと少し胸が痛むが、そもそも碁がなければ出会いもしなかったはずだ。碁馬鹿のアキラが他のことに興味を持つはずがないのだから。
 では自分は、と矛先を自ら変えてみる。
 自分はアキラのどこが好きなのだろう。
(……)
 一生懸命なところ、と優しいところ。あと怒りっぽいところと、結構単純なところ。それから、実は顔もかなり好きだ。暖かい胸や、ヒカルを落ち着かせるそのニオイも。自分で自分が恥ずかしくなる。――なんだ、いくつでも出てくるじゃないか。ヒカルは浴槽の縁にこつんとこめかみを乗せ、切な気に眉を寄せた。
 しかしそれら全て、塔矢アキラのものでなければ意味がない。他の人が一生懸命で優しくて、怒りっぽくてもダメなのだ。同じ顔の人がいても、その人の胸が暖かくて良いニオイがしたって、その人が塔矢アキラでなければ何一つヒカルの心を騒がせることができない。
 心臓がトクトクと活動を活発化させ、湯船の水面が胸を中心にして波紋を広げる。
 こんなふうに誰かを好きになった経験はない。少なくとも、肌を触れ合わせても構わないと思うほどには。
 恐らくアキラはそのつもりで、今ヒカルが風呂から上がってくるのを待っているはずだ。
 初めてのキスから、散々待たせた。怖くないと言えば嘘になる。だが、押し寄せる津波のようなアキラの強い想いに応えたいという気持ちも嘘ではない。
 なるようになる――ヒカルは昼に、掻き抱かれて意識を手放しかけた自分の本能を信じ、えいっと湯船から立ち上がった。
 覚悟を決めて浴室を出て、アキラが用意してくれた着替えを身に着ける。一回りとはいかないが、僅かに自分より大きめのパジャマは明らかにアキラのものなのだろう。
 清潔な洗い立てのパジャマのはずなのに、仄かにアキラのニオイを感じて自然と顔が赤くなる。
(えいこら、しっかりしろ、俺)
 パン、と両手で顔を挟むように叩き、ヒカルは自分に気合いを入れる。
 自慢じゃないが身体は丈夫にできている。ここは覚悟を決めて堂々と、男らしく出て行こう。
 その決意の割にぎこちない足取りで脱衣所を後にし、居間で詰碁集を読んでいたアキラと目が合うと、ヒカルの胸を打つ心臓は更に速度を増した。
 アキラは自分のパジャマを着たヒカルを見て、遠くを見るように目を細める。
「……お湯、熱くなかった?」
 蕩けそうな声で尋ねられて、答えるヒカルの声も上擦る。
「あ、えっと、その、いい湯、でした」
 ヒカルの余裕のなさにアキラは苦笑し、本を閉じて立ち上がる。パタン、と優しい音が室内に響いただけで、ヒカルの身体は怯えたようにビクついてしまう。
「冷蔵庫にお水の入ったペットボトルがあるから。勝手に開けて飲んでいいよ」
「あ、う、うん」
「ボクも入ってくる」
 囁くような声がヒカルの横をすり抜けた。
 振り返ったヒカルの目に、滑らかな黒髪を揺らしたアキラの、浴室へ向かう背中が映る。
 ああ、いよいよだ。ヒカルは気持ちを落ち着かせようと、アキラに言われた通りに水を飲み、照れ臭い待ち時間を持て余してごろごろと床に転がった。
 ヒカルにも人並みの性知識はあったが、男同士となると未知のことが多い。アキラは知っているのだろうか。――そういえばアイツは妙にキスがうまい。ひょっとしてとっくに経験済みだったりして。
(まさかなあ)
 囲碁命で今まで過ごしてきた男が、自分なんかに引っかかってしまった。見ていてこちらが辛くなるくらい必死な時もあるけれど、それだけヒカルのことを強烈なまでに強く想ってくれているからこそ。碁の天才と言われた彼も、ヒカルの前ではただの不器用な男に成り下がる。
 彼が男の本能に任せてスイッチを入れてしまえば、今夜はきっと止まってはくれないだろう。そして不器用なりにヒカルを愛してくれるだろう。そのことについて抵抗も嫌悪感もない。ただ、知らない世界が少し怖いだけ。
(……ま、なんとかなんだろ)
 とてもじゃないが、自分にはスイッチが入った後のアキラをどうこうしようなんて勇気は持ち合わせていない。今まで何度も見てきた、あの猪を宥めるなんて力技に頼るしかない。大人しく引っくり返っているのが身のためだろう。
 まあ、下でもいいか。とんでもない決断をヒカルは割とあっさり下した。これも惚れた弱みと言えるのだろうか。
 ともかく、自分の中でそれなりに腹を決めると、気持ちも少しずつ落ち着いてきた。床に疲れた身体を横たえたまま、ヒカルはアキラが風呂から出てくるのを待つ。
 さっぱりした自分の身体からはほんのり石鹸の良い匂いが薫る。アキラのニオイのするパジャマと合わせて、優しい香りに包まれたヒカルはなんだか嬉しくなった。
 気持ちいいなあ……
 洗い立ての身体はぽかぽかと温かい。ひんやりとした畳に頬を寄せ、その優しい肌触りにうっとりと目を閉じる。
 和室っていいなあ。ヒカルは四肢の力を抜いて、畳の感触を確かめた。
 暖かくて優しい。まるでアキラみたいだ。ヒカルはそんなことを考えながら、だんだん目を開くのが億劫になってきた。
 微かなアキラのニオイに包まれて、何の不安もないこの場所で、一人きりの時間がこんなに安らかだなんて。
 気づいてよかったと心から思う。何より大切な存在に。一生懸命で優しい彼を、これ以上傷つけずに済んでよかった。嬉しい。嬉しくて切ない。胸の痛みが甘く疼く。
 しんどう、と、遠い空の上から戸惑うような優しい声が聞こえてきた。
 ヒカルは手を伸ばす。とうや。呼びかけに応えると、しっとり暖かい手がヒカルの手を優しく包んでくれた。
 ヒカルは笑った。大丈夫だ。何の不安もない。この手に全て任せてしまえばいい。
 暖かな腕はぎこちなくヒカルの身体を静かに起こし、折れた両膝の間にもう片腕を差し入れ、少し重そうに抱え上げた。とてもしっかりとは言えない足取りに揺られながら、ヒカルはぼんやりと意識を空に漂わせる。
 ああ、俺このままエッチしちゃうんだ。目を開けなくてはと思うのに、瞼に重りでもつけられたみたいに瞬きひとつ自由にならない。
 アキラの顔が見たい、と瞼に力を込めてみるが、ヒカルの目は隙間すら覗かせることを拒否した。やがて揺られていた身体はふんわり柔らかいものに横たえられ、それはそれでとても気持ちよかったのだけれど、それまでヒカルを包んでいた熱を逃がしたくなくてヒカルは腕を伸ばした。
 伸ばした腕ごと、優しい熱に包まれる。
 ぎゅうっと抱き締められて、ヒカルは安堵に微笑んだ。
 もう怖くない。アキラなら、知らない世界に行ってもきっとこんなふうに抱き締めてくれる。
 優しい胸で心地よくたゆたいながら、伝わってくるアキラの心臓のリズムに耳を寄せ、ヒカルはとうや、と呼びかけた。
 ちゃんと伝えないと。また社に怒られる。
 瞼に引かれた接着剤を振り切るように、重い視界をじりじりと開いて、ヒカルはようやくアキラの顔を見ることができた。
 アキラの表情は少し戸惑っていた。ひょっとしたら、アキラも初めての夜に緊張しているのかもしれない。自分は大丈夫だと伝えたくて、ヒカルはもう一度とうや、と彼の名を呼んだ。
 何? というようにアキラは首を傾げる。この仕草が凄く好きだ。彼の髪が少し揺れて、頬にかかる様が好きだ。
「とうや」
 嬉しくて嬉しくて、今ヒカルの胸を満たしている気持ちを少しでも伝えたくて、ヒカルはアキラに微笑みかけた。
「大好き」
 細い視界に映るアキラの顔が、一瞬驚いたように目を大きくした。それからすぐに、その目を困ったように歪めて、徐々に細くなった目が長い睫毛の間で美しい曲線を描き、アキラは実に嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
 ヒカルはその笑顔に心底見惚れ、そうして満足げに瞼を閉じた。
 よかった。アキラが笑ってくれた。アキラに逢えてよかった。アキラが見つけてくれてよかった。
 ちゃんと言えたよ、佐為。
 優しすぎる温もりに全身すっぽり包まれて、ヒカルはどろどろと意識を覆う闇に諍うことをやめた。
 何もかも委ねてしまおう。
 何より愛しいこの胸に。









 腕の中ですやすやと心地良さそうな寝息を立てるヒカルに、アキラは苦笑いした。
 こうなる前に、布団を用意しておいて良かった。自分の周到さが別な方向に役立ったのは少し悲しいが、こんなにぐっすり寝入っている相手をどうこうしようなんて気はさすがに起こらない。
 ヒカルの目の下にはクマができていた。恐らく昨夜はろくに眠っていないのだろう。こんなに無防備に身体を預けて、気持ち良さそうに胸を上下させている。
 風呂から上がったばかりの、妙に緊張した様子のヒカルを思い出して可笑しくなった。
 それなりに覚悟してくれていたのだろうに、疲れには勝てなかったか。アキラはヒカルを起こさないよう、静かに声を殺して笑った。
 それでも充分だと、アキラは柔らかいヒカルの前髪を掻き分け、その額にキスを落とす。
「ボクも大好きだよ」
 囁きは届いていまい。
 目が覚めたら、何度でも彼に伝えよう。
 ――ボクがキミを好きで好きでどうしようもないことを。
「……キミに逢えてよかった」
 温かい身体を抱き締めて、アキラもまたヒカルの髪に顔を埋めて目を閉じる。
 おかえり、そしておやすみ。
 ――キミが、大好きだよ。














自分では精一杯ベタベタ目指したんですけど……
ぬるいのかなあ……
若のやる気は常に空回りするので
今後がとても心配です。
(BGM:バンザイ〜好きでよかった〜/ウルフルズ)