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「まあまあ、いらっしゃい。暑かったでしょう? さあ、あがってくださいな」
 やけに愛想のいい声でぱたぱたと玄関に現れた母親は、いつもよりしっかりめの化粧を施して上機嫌だ。
「こんにちは、はじめまして。塔矢アキラです。今日はお招き有難うございました」
 そして玄関でかっちりと頭を下げたアキラもまた、いつもより硬めにグレイストライプのシャツを着こなして、よそいきの顔で微笑んでいた。
 その間で、いつも通りのジャージ姿で、軽く後ろ髪に寝癖なんかつけてぼーっと立っているヒカルは、自宅だというのに場違いな気分になってしまった。
「ほらヒカルも挨拶くらいしなさい! もうこの子ったらホントぼーっとしてるんだから、やあねえホホホ」
 ――普段口に手を当てて笑ったりしないくせに。
 ヒカルは母親の変貌ぶりにすっかり肩を竦めてしまった。
「これ、母からの勧めなんですが。よかったら皆さんで」
「あらまあ、立派なケーキ! よかったわねえ、ヒカル、あんたもお礼くらい言いなさい!」
 ばしんと背中を叩かれて、礼言う暇与えろよと毒づく。くすくす苦笑しているアキラにも思わず仏頂面を向けてしまった。
「さあ、玄関口でなんですから、あがってください。狭い家なんですけど、汚くてすいませんねぇ」
「いいえ、お気遣い有難うございます。お邪魔します」
 一礼したアキラは靴を脱ぎ、ごく自然な動作で靴を揃える。佇まいから仕草から、何から何までヒカルの母にとっては息子と違う生き物を見るような、そんなうっとりした目で囲碁界のプリンスを眺めていた。
 そんな空気が酷く居心地悪く、ヒカルはアキラの背中を押して二階へと促す。
「もー、いいから早く俺の部屋行こうぜ。お母さん、飲み物持ってきて」
「ヒカル、あんたって子はどうしてそう落ち着きがないの!」
 それはお母さんの息子だからだろ。――そこまで憎まれ口を叩いたら、後で何を言われるか分からない。
 半ば無理やりアキラを二階に引き連れて、部屋に入るとふーっと肩の力を抜いた。
 アキラはまだ苦笑している。
「お母さん、お若いんだね。キミと目が少し似てる」
「今日はすげー若作りしてんだよ、朝から張り切って化粧しちゃってさあ。お前が来るって言ったら、もう大騒ぎでスミからスミまで掃除して。大変だったんだぜ」
「歓迎されてるならうれしいな」
 歓迎も何も、大歓迎だよ。ヒカルは目の前で微笑む男が、ようやくよそいきの顔を捨ててヒカルだけに見せる優しい目に変わったのを見て、ほっとすると共に切なくなった。
 そんなヒカルに、そっと顔を近づけたアキラが触れるだけのキスを落とす。ヒカルは瞬間で真っ赤に顔を染め、至近距離でアキラの長い睫毛が揺れる様に息を呑んだ。
「……誕生日おめでとう、進藤」
「……あ、アリガト」
 低い囁きにぞくりと震えた身体が制御を失いかけるが、背後に聞こえてきた階段を上る足音にはっとしてアキラから離れる。
「今日はわざわざ起こしいただいてすいませんねぇ。ヒカル、あんたちゃんとお礼言いなさいよ」
 現れた母親は、相変わらずの様子でお盆に乗せたアイスコーヒーを置いていく。
 ヒカルはそんな母親を早々に追い出し、口唇を尖らせてアイスコーヒーを睨んだ。
「なんだよ、普段麦茶しか出さねーくせに」
「進藤、あんまりそんなふうに言うものじゃないよ」
 アキラは訪れるのが二度目のヒカルの部屋を見渡し、ドアの傍に新しく置かれたパソコンラックに乗る黒いボディを見て目を細めた。
「これか。少しは触ってみた?」
「ぜーんぜん。お前来るの待ってた」
 キミらしいな、とアキラは笑って、真新しいパソコンのハード部分を撫でた。
「よし、じゃあ接続してみようか。」
「お願いしまっす」


 今日、進藤ヒカルは十七歳の誕生日を迎えた。
 去年、碁会所で打ちまくった一日をアキラはしっかり覚えていたらしい。
 今年こそはキミの誕生日をきちんと祝う! と意気込んでいたようだが、主役であるヒカルにとっては、誕生日なんて「いつもよりちょっと特別な日」程度の認識でしかなかった。
 だから、アキラに欲しいものをリサーチされた時も、別に何もいらない、と去年のアキラ同様の台詞を言ってしまったのである。
(そうか、これは惚れてるからこそ出てくる言葉だったんだ)
 アキラがいてくればそれでいいと、心底思っている自分が照れ臭くて、少し不思議だった。
 特別な日に誰かと一緒に過ごすだなんて、今までそれほど意識したことがなかったのに。
 いつものようにアキラと碁を打てればいい。当たり前の日常に満足している自分がいる。
 そんな訳で、ヒカルはようやく去年のアキラの誕生日にアキラが「キミがいてくれれば」と言った言葉を理解しつつ、自分も同じように告げたのだ。
 しかし、何故かアキラはそれで納得してくれなかった。
『去年、ふいうちで誕生日を告げられてボクがどれほど驚いたか分かるか? 今年はきっちり祝わせてもらう!』
 なんだか言っていることが分かるような分からないような、妙な理屈を押し付けてきたのだ。
 かといって、欲しいものもないし、アキラが言うような「きっちり祝う」がどこかのディナーとかだったら堅苦しくて嫌だなあとか思ってしまうし、本気で悩んでしまっていた。
 すると、アキラもアキラなりに考えたのか、こんなプレゼントはどうだろうと提案を寄越した。
 それが、パソコン。
 ネット碁もできるし、棋譜整理にも便利だから面倒臭がりのヒカルには丁度いいと、アキラは笑顔でそう言うのだが、如何せんそれなりに稼ぐようになってもヒカルの金銭感覚は庶民のものである。
 そんな高価なもの受け取れないと押し問答が続いた。
 結局、パソコンはヒカルが自費(プラス両親からのお小遣い)で購入し、アキラがそのセッティングを行うついでに誕生日にお呼ばれするということで決着がついたのだ。
 パソコンを接続してもらって、一緒に夕食を食べて、一局打って。
 それはそれは素敵な誕生日になりそうだと、ヒカルは早速アキラに勧められたパソコンを購入した。
 当日の計画を母親に伝えると、品行方正・容姿端麗といった四文字熟語が踊る、息子と正反対の優等生がやってくると彼女はすっかり舞い上がってしまった。
 数日前から夕食に腕を振るうべく、いつもは行かない遠くの高級スーパーで良い食材を買い集める始末だ。
 ヒカルの話と、たまに見せる週間碁の記事でしかアキラを知らなかった母親にとって、塔矢アキラ像は非の打ち所のない好青年として確立されていたらしい。
 もっとも、実際会ったところでそのイメージが覆るはずもないのだろうけど。
 まさか、その素晴らしい青年と息子が恋人同士だなんて夢にも思っていないだろう。
 ヒカルは親に黙ってイケナイことをしているという、僅かな罪悪感とスリルに胸を疼かせていた。
 本当は、アキラがこの部屋にやってくるのは二度目。一度目は、初めてハダカになって肌を重ねたあの日だ。……あまりうまくいかなかったけれど。
 それから何度かアキラと裸で抱き合ったけれど、やはりこの部屋で向き合うとどこか特別な気持ちになるのは何故だろう。
 おまけに今日のアキラは、いつもより大人びた様子で腕まくりなんかして、買ったばかりのパソコンを前に真剣な目をしているのがまたカッコよくて……
「よし、できた」
 アキラの声にはっとヒカルの意識が覚醒する。
 ベッドに腰掛けてぼーっとアキラを見ていたヒカルは、慌ててベッドから飛び降りた。
「もうできたのか?」
「ああ、言っただろう、難しいものじゃないって。もう繋がってるよ、ホラ」
 アキラがカチカチとマウスをいじり、何か画面を出したと思ったら、そこに「日本棋院」の文字が表示された。
「おおー」
「棋院のホームページだよ。ここと、あとネット碁が打てるところと、それからいくつか検索サイトをお気に入りに登録しておいたから」
「すげえ、ね、ちょっと俺にも触らせて」
「いいよ」
 アキラは丁寧に、ブラウザの立ち上げ方やお気に入りの登録の仕方、検索の仕方やパソコンを終了させる方法まで、手取り足取りヒカルに説明した。
 ヒカルは小難しいことはあまり話を聞かず、面白そうな画面ばかり弄ろうとするので説明はなかなか進まなかったが、それでもアキラの根気よさのおかげで一通りの作業はできるようになった。と思われる。
「こんな感じかな。もし、何かおかしくなったり、画面が固まったりしたら――」
「そしたらお前に電話するよ」
 それが一番手っ取り早い。そう言ったヒカルに、アキラは呆れてため息をつく。
「キミは、覚える気がないのか?」
「そんなことねーって。でも一度にたくさんは無理無理。ちょっとずつ覚えるから」
「棋譜なら一度見ただけで暗譜するくせに」
「俺の脳って超偏ってんだもん」
 ヒカルは笑って、パソコンを終了させた。
「でも、棋譜整理に便利ってのはそうかも。手で書くよりすげー楽」
「そうだろう? キミのその優秀な頭の中にしか入っていない棋譜を形に残すのもいいんじゃないか」
 ぴく、とヒカルの肩が揺れたのを、アキラは気づかなかっただろうか。
 何の気なしに言った言葉だというのは分かった。証拠にアキラは顔色ひとつ変えず、ごく普段どおりの目で微笑んでいる。
 だからこそ、ヒカルも一瞬反応しかかった自分を全力で押し殺したのだ。
「ヒカルー、ごはんよ〜」
 階下で自分と、そしてアキラを呼ぶ声に、ヒカルは幾分安堵して返事を返す。
「行こうぜ。お母さん、すげー気合入れて飯作ってたから」
「それはキミの誕生日だからだろう?」
「いーや、絶対お前がいるからだよ」
 顔を見合わせて笑い、下に下りる前にと軽いキスを交わす。
 キレイな顔で笑うアキラが大好きだと、ヒカルは今更ながらに実感する。
 好きだから、何もかも預けてしまいたい気持ちと、それとは裏腹に言えないこともあるのだと、今まで知らなかった矛盾にヒカルの胸が微かに痛む。

『いつか、話すかもしれない』

 あの時はこんな気持ちで言った訳ではなかったけれど。
 いつか、話したい。
 いつかは、いつやってくるのだろう。
 自分は、何に迷っているというのだろう。




 ***




「ごちそうさまでした。本当に美味しかったです」
「まあ、塔矢くんにそう言ってもらえると嬉しいわあ。お母様にもよろしくお伝えしてくださいね。是非また遊びにきてちょうだい」
 出迎えた時と同じように仰々しいやりとりで、玄関口での面倒な見送りが始まってしまった。
 ヒカルは長々とアキラに話しかける母親に苛々しながら、駅まで送ってくるとアキラを引っ張って外に出る。
 後から母親に苦情を言われるかもしれない。それならそれでもいいやとヒカルは舌を出した。
「なんだかすっかりおもてなしされてしまって、よかったのかな」
「いいんだよ、今日は俺の誕生日のほうがオマケだから」
「何言ってるんだ、キミは」
 日の暮れた暗い夜道は、まだ真夜中には早いものの、平日のせいか人通りが少ない。二人は示し合わせた訳ではなかったが、どちらともなくそっと手を伸ばして指を握り合った。
「今日、パソコンサンキュ。後でまた触ってみる」
「ああ、これから一緒にネット碁もできるよ。メールだってやりとりできる」
「それは携帯があるからいいよ」
 ふふ、とアキラは楽しそうに笑った。きゅっと力のこもった指に、ヒカルは軽く瞼を伏せて頬の熱さを隠そうとする。
「あ、あのさ、ケーキまじでうまかった。おばさんにもよろしく言っといて」
「ああ、キミの誕生日だって言ったら母が絶対ここのケーキにしなさいってうるさくてさ。気に入ってもらえたならよかったよ」
「めちゃめちゃうまかったよ。お母さんも喜んでたし」
「キミのお母さんも料理上手だね。後でもう一度お礼を言っておいて」
 なんか、お礼言い合ってばっかだな。ヒカルの呟きにアキラが吹き出した。
 静かな夜。誰も居ない道。指を繋いで歩く二人を切れ掛かった街灯がぼんやり照らす。
 幸せな誕生日を噛み締めて、ヒカルはオレンジ色の月を見上げる。
 大きな月は、暖かい気持ちごとヒカルを優しく包み、指を絡めて歩く二人を静かに覗き込んでいた。
 ひっそりとしていながら、大きな存在。
 ヒカルはかつて傍にいた人の面影をオレンジ色の光に写し、祈るように語りかけた。

 ――俺、コイツが大好きなんです。
 コイツに逢えてよかったと心から思います。
 誰に感謝したらいいのか分からないから、いろんなものに感謝してます。
 神様に、仏様に、お月様に。
 それから、碁無くして俺とコイツの出逢いはありえなかったから、碁の神様に。
 ……佐為に。
 佐為、ありがとう。
 俺に碁を授けてくれてありがとう。
 俺を塔矢に出逢わせてくれてありがとう。
 いつか、俺が俺の中のお前を越えられることができたら。
 その時が、俺の望む「いつか」なのかもしれない。
 そんな日が、やってくるのかも分からないけど。


 駅前で名残惜しげに別れる時、アキラがそっと囁いた。
「来年も、一緒に誕生日を祝おう」
 お前、本当メモリアルものに弱いよな。
 思わず茶化してしまったけれど、本当は泣きたくなるほど嬉しかったのだ。
 ずっと一緒。いつまでも一緒。
 その約束に保証がないことは、身を持って体験済みであるのにも拘らず、アキラの真っ直ぐな瞳には未来を信じさせる力がある。
 そうか、叶わないかもしれないから、約束をするんだ。
 ヒカルは恋人の消えた駅の前で、じっと夜の闇に抱かれて佇んだ。
 叶わないかもしれない、叶うかもしれない。だからこそ口に出して囁きかける。そこに働く不思議な力。言葉にすることで形を作る、人の心を優しく沈める魔法がある。
 それが約束。
 ずっと一緒。いつまでも一緒。
 約束しよう、大切な人と。
 たとえ想いが叶わなくとも、約束に込められた人の心はいつまでもいつまでも残るものだから。

(佐為、見つけたぞ)

 俺が共に歩む相手を。
 俺がもう一度、過去の怖れを振り切って約束を交わす相手を。
 俺は全力でお前を追う。そうして「いつか」を自分の手で引き寄せる。
 約束しよう、塔矢。
 俺はいつか、俺の中の秘密を全て話すだろう。
 いつか。必ず。
 約束する。……約束するよ。




 帰宅して、宴の後をせっせと片付けている母親の背中をちらりと見てから、ヒカルは一人部屋に戻った。
 しんとした部屋で、新しいパソコンにそっと触れてみる。
 電源をつけると、部屋の中にもう一つ新しい空間が生まれたような気がした。
『頭の中にしか入っていない棋譜を形に残すのもいいんじゃないか』
 脳裏をよぎるアキラの言葉に導かれるように、ヒカルはアキラがダウンロードしてくれた棋譜作成のソフトを立ち上げた。
 ――棋譜を残そう。
 彼が残してくれた棋譜を。覚えている限り全ての、頭に溢れるこの数々の棋譜を。
 佐為が自分に残してくれた、何にも代え難い彼の生きた証。
 彼を目指し、彼を越えるために。
 いつかなんて待っていられない。

 ヒカルは記念すべき一枚目の棋譜作成に取り掛かった。
 碁盤に向かう時と同じ、青い炎をその瞳に宿らせて。
 キーボードに不慣れな指が、カタカタと文字を打ち込んでいく。

 黒石先番、藤原佐為。

 白石、――塔矢アキラ。







未来に向かって一歩踏み出すヒカル。
一度どん底見た人間は強い。
前だけ見つめて躓いても、ヒカルには
起きあがれる強さがあると思っています。