BELIEVE






 静かな室内では、カチ、カチ、と小さなクリック音だけが響いている。
 パソコンのモニタを睨み、無言でマウスを動かしていたアキラは、画面に表示された「投了」を示すサインにふっと肩の力を抜いた。
「粘られたな、今回は」
 独り言を呟き、アキラは改めて画面を見つめた。
 黒と白の碁石が正方形の升目に並ぶ様子は、日頃正座して見下ろしている碁盤と何ら変わりない。
 違うのは、それが画面の中だけの無機質な画であり、普段指に触れるひんやりした感触も何もない、マウスで示した場所に黒丸と白丸の碁石が現れるだけというネット碁であること。
 自らの手で一手を打たない分、碁石から伝わる余韻などは身体に残らないが、パソコンさえあれば離れた相手といつでも対局できるという点は魅力だった。
 ふと、傍らに置いていたアキラの黒い携帯電話が震える。
 アキラは驚きもせず、手に取った携帯の画面を開いた。届いたメールを確認する。
『途中の切断がきつかった! すげー悔しい』
 アキラはふっと微笑んだ。
 互いの目の前にある世界と繋がった箱は、当然ネット碁だけではなくメールやチャットなどいくらでもやりとりする方法がある。にも拘らず、アキラの対局相手はいつもこうして携帯電話でメールを寄越すのだ。
 理由はキーボードがうまく操作できないから。そんなことを言っていたらいつまでたっても上達しないと諭すのだが、彼はなかなか聞き入れてくれない。
『無闇に中に入ってきたのが敗因だったな。これでボクの9勝2敗だね』
『すぐに追い抜いてやる』
『できるものならどうぞ』
 無意味とも感じられる携帯メールでのやりとりを経て、翌朝に備えて眠ろうとメールでおやすみの挨拶を交わす。パソコンも落として、これでようやく長い一局が終局したことになる。
 アキラは真っ黒になったモニタを少しの間見つめ、夢でも見ているような声で囁いた。
「おやすみ、進藤」



 ヒカルがパソコンを入手してから早二週間。
 会えない時間を縫うように、ネットの世界でアキラとの逢瀬を重ねるヒカルは、ネット碁だけなら操作にまごつくことはなくなっていた。
 それ以外の操作はからっきし素人のため、アキラは何度か電話でヒカルのややこしい説明を受けてその対処法を説明しなければならないこともあったが、ネット碁に関してはそういった問題はほとんど発生しない。
 ヒカルは何も言わないが、ヒカルにネット碁の経験があるのは間違いないのだろう。アキラはネット碁特有の画面にも一切戸惑わないヒカルの様子に、そう確信を深めていた。
 見えない相手から繰り出される一手。
 ネットだからこそ、その不確かな存在は不気味さを増す。
 思い出さざるを得ない、かつてネット内の囲碁界を震撼させた脅威の打ち手のことを。
 今も尚、あの時感じた絶対的な敗北を思い出すと身が震える。
 アキラは細く長く息を吐いた。口唇でsai、と呟くと、自然と眉根が寄せられる。

 ――進藤とsaiは違う。
 これもまた、アキラの中での強い確信だった。
 こうしてヒカルとネットで碁を打つようになってから、幾度となく目に見えない大きな存在を感じさせられることがあった。実際に向き合って打つよりも、姿がない分感覚はより強い。そのことは、ヒカルには告げていない。

 ――進藤とsaiは違う。
 それでも尚、アキラはそう確信していた。
 ヒカルの打つ一手一手に見え隠れする確かな息吹。それは時に胸を躍らせ、アキラを黙らせる脅威の一手と化す。
 何気ない一手に見せかけた読みの深さに、戦慄すら覚えることもある。しかし、ヒカルとsaiは違うのだと、半ば本能のようなものでアキラは嗅ぎ取っていた。
『俺はsaiじゃねえぜ』
 ひょっとしたら、あの些細な一言に捕らわれているだけなのかもしれない。
『いつか、お前には話すかもしれない』
 そしてまた、短く重いあの一言にも。

 あんなやりとりをまだ覚えていたのかと、ヒカルには笑われてしまうかもしれない。ヒカル自身、自分で言った言葉を覚えているのかどうか。
 それでもあの時、彼が何気なしに言ったかもしれない言葉が、アキラをヒカルに繋ぎとめる大きな鎖となったのだ。
『いつか、お前には』
 ――お前には。
 自分だけがヒカルの特別であるという優越感と。
 見えない人との繋がりを示唆するヒカルの言葉への嫉妬と。
『俺はsaiじゃない』
 では、誰がsaiなのだ――

 アキラは目を閉じ、ヒカルとの出逢いを思い起こした。思えば不思議な出逢いだった。
 ひょっとしたら、最初から運命に仕組まれていたのではないかと勘ぐる。プロを本格的に目指そうと意気込んでいたまさにその日、アキラの自信は呆気なく崩された。
 同時に、胸の高揚をも抑え切れなかった。感じたことのない敗北感が、いつしか未知の相手への期待と憧れに変わっていた。水を得た魚のように、全力で彼を追った。初めて出来た明確な目標は、アキラの棋力を格段に向上させた。
 そうして、自分の中だけで膨らませすぎた期待を裏切られて……それなのに、心は何かに捕らわれていた。
 今度は彼が追ってきた。かつての自分のように、じりじりと、着々と、背後から確実にその距離を縮めて、近づく影にアキラは知らず怯え、そして向き合った時に認めざるを得なくなった。
 彼こそが、自分の生涯のライバルであると。
 進藤ヒカルこそが、自分が無意識に追い求めていた対の相手だと。
(では、かつて碁会所で二度打った彼は)
 彼もまた、進藤ヒカルであると断言するには、アキラには僅かの躊躇いがある。
 あの、神がかった強さと古い定石。今のヒカルにその片鱗は見られても、明らかな違いがある。
 それが意志であると、アキラは薄々感づいていた。

 あの日のヒカルは、何かに操られるように、何の感情もなく碁石を落としていたに過ぎなかったと、今ならそう振り返ることができる。
 今のヒカルは、こうしてネット越しでの対局でさえ、ヒカル自身がこう打ちたいという強い意志が伝わってくる、この差は想像以上に大きい。
 ヒカルの碁は、saiの強さが片隅に控えながらも、繰り出されるのは進藤ヒカルの一手だと、今のアキラなら胸を張って伝えることができる。勿論誰に言うつもりもない。それが理解できるのはこの世に自分しかいないことも過信ではないと思っている。
 こんな、全てが憶測の上に成り立っていて、いつしかそんなヒカルを丸ごと愛しいという恋の気持ちが芽生えてからは、また少しアキラの心は変化していった。
 何かに操られたようなヒカル。
 では、誰がヒカルを操っていたというのか。
 疑問を言葉にすればキリがない。
 ――そして、そんなことは今の自分にとっては重要ではない。
 ヒカルの何もかもを知る前に、何もかもを受け止めたい。
 ヒカルが何者でも、saiが何者でも構わない。ただ、自分が進藤ヒカルという一人の人間を愛していることに代わりはない。
 アキラが求めているのは、saiではなく進藤ヒカルなのだ。

 思えば、ヒカルのことを何も知らないのだ――アキラは苦笑した。
 ヒカルが「いつか」と告げた大きな謎を含めて、しばらく手合いを休んでいたことや、時折見せた湖のような瞳の意味や、今年初めに酷く荒れた碁の訳も、アキラを好きになってくれた理由も何も。
 それに不安がないと言えば嘘になる。
 無性に怖くなる夜もある。
 ふいに自分から離れていってしまうのではないかと。
 あの、揺れる水面のような底の見えない瞳で見つめ返してくるのではないかと。
 それでも、向かい合った時にヒカルが見せる酷く安心した表情を見ていると、アキラの心もまたやんわりと解されていくのだ。
 ――ヒカルは、自分を選んだのだ、と……。
(そうだ、そしてボクもキミを選んだ)
 生涯打ち続ける相手として。それ以上に、愛し合う一人の人間として。
 受け止めてあげたい、受け入れて欲しい、何も知らなくていいから。たとえヒカルが口を噤んだままでも、アキラはヒカルを愛し、そして無条件で待ち続ける。
 「いつか」がいつなんて分からない。
 でも、それでいい。
 確約のない関係の中、確かと言えるものがひとつだけある。
 それが、ヒカルを愛しているということ。
 いつかがやってきても、やってこなかったとしても。
 何年でも、何十年経とうとも、変わらない愛情がこの胸にある。
 人の気持ちほど不確かなものはないことは、よく分かっているにも拘らず。
(不思議なくらい、自信に満ち溢れている)
 碁打ちとして導かれた運命のせいだろうか?
 いや、すでにこれは運命なんてものではない。
(――宿命なんだ)
 自分が彼を愛することは。
 そこに何の理由も必要ないのなら、ヒカルが全てを話す必要もないだろう。
 それでももし、彼が「いつか」を果たしてくれるというのなら。
「全てひっくるめて、キミを愛すよ」
 甘やかな自分の声に、アキラはそっと目を伏せた。



 キミはボクを選んだ。
 ボクも、キミ以外の人間は選べない。
 キミでなくては、行けない。碁打ちとしての高みにも、人としても深みにも、夢も掲げられず、希望も持てず、人生の意味も見出せず。
 キミがボクの全てだ、進藤。
 ボクはこの手を離さない。
 ボクらの間に「いつか」が遂にやって来なくたって。
 最期の瞬間まで、ボクはキミを愛し、待ち続ける。




 ……でも、願わくば。
 キミの中のsaiが、ボクの存在に変わるといい。
 「sai」が何者かなんて知らない。不気味な打ち手。圧倒的な強さ。姿のない碁の化身。
 ヒカルの中に見え隠れする、saiの痕跡。
 ……今はまだ、適わない。
 せめて碁打ちとして、saiに恥じない力が欲しい。
 saiであれば打つのかもしれない、神の一手を。
(saiが神だとでも?)
 ならばボクは、神すら越えていかなくてはならない。
 神をも捻じ伏せる強さで、ボクはキミを愛しているのだから。








アキラも非常に前向きなんですけど、
この人は前を向き過ぎてるというか……
走り抜ける途中の景色にも素敵なものがあったりすると思うのです。
若、頑張って早く大人になれ。
(BGM:BELIEVE/LUNA SEA)