CHANGE YOURSELF !






 そろそろ寝る支度をしようかとアキラが洗面所へ向かいかけた時、テーブルに置いていたヒカルの携帯電話がけたたましい音を立てた。
 慌てて手に取ると、画面には「伊角慎一郎」の文字。アキラは記憶を辿り、ヒカルや和谷と親しい物腰柔らかい青年の姿を思い浮かべ、数秒迷ったが電話を受けることにした。
「……もしもし?」
『もしもし? 悪いな、こんな遅くに』
「いえ、まだ起きていまし……起きてたから」
 しばらく一人きりで部屋にいたものだから、うっかり素に戻ってしまいそうなところを寸でで押さえる。
 幸いそれほど音のクリアではない携帯での通話で、伊角は妙だとは思わなかったようだ。
『それならよかった。早く教えてやろうと思ってさ。お前に頼まれてた棋譜、今日手に入ったよ』
「え……棋譜?」
『ああ、今日は指導碁が長引いたんで連絡するのがこんな時間になって。でもお前、あの棋譜凄く欲しがっていたから、これ以上待たせるのも悪いなって』
 アキラは何と答えたものか、弱ってすぐに返事ができなかった。
 どうやらヒカルは伊角に何かの棋譜を頼んでいたらしい。その事情を知らないため、どう会話を続けるべきか迷っていると、伊角はそんなアキラを放って話し続けた。
『それにしてもお前も健気だな。塔矢には内緒なんだろ? ライバルの誕生日プレゼントに中国天元戦の棋譜だなんてさ。ホントに一緒に強くなりたいんだな、お前たちは』
「え……」
『今度和谷のとこの研究会の時に持っていくよ。周りには目立たないようにするから、見つかるなよ。とっておきの棋譜なんだからな』
「あ、……い、伊角さん……」
『塔矢もきっと喜んでくれるよ。じゃあ、遅くに悪かったな、おやすみ!』
 ろくに相槌すら打てないまま、通話は一方的に途切れた。
 アキラは切れた電話を呆然と見つめ、伊角の告げた言葉を頭の中で繰り返す。
 ――進藤……ボクの誕生日、覚えててくれたのか……
 去年も一昨年も、ろくに何の準備もしてくれていなかったから、今年も全く期待していなかった。
 それなのに、隠れてこっそり珍しい棋譜を用意してくれていたなんて……
 一緒に強くなりたいんだな、お前たちは――
 アキラは微笑み、今の通話の内容は聞かなかったことにしようと瞼を伏せた。
 当日の予定は空けておかねば。ヒカルが切り出しやすいように、二人だけの時間を作れるように……
 アキラは今にも鼻歌を歌い出しそうな雰囲気で洗面所に向かう。にこにこと不気味なほど機嫌良く歯を磨いていると、再び居間でヒカルの携帯が鳴り響いた。
 先ほどと違う音、これはメールの着信だと気付いたアキラは、少々行儀が悪いと思いながらも歯ブラシを持ったまま居間へ向かう。
 携帯を開くと、メールはヒカルからだった。
『これから寝る。先生もおばさんも、すげえよくしてくれたよ。今度、お前と一緒にまた遊びに来たい』
 簡潔ながら、何事も問題が起こらなかったことがよく分かる文章に、アキラは顔を綻ばせる。
 昨夜はあれだけ苛立ちを感じながらメールを送ったというのに、今日はこんなにも気持ちが穏やかだ。
『それならよかった。ボクも、問題なく一日を終えたよ。明日気をつけて帰って来て』
『ああ、おやすみ』
『おやすみ』
 アキラはメールを終え、歯磨きも終了させると、少し迷ってヒカルの部屋のベッドで眠ることにした。
 どうせ今はヒカルの身体なのだから、そのほうが自然だろう――
 横たわると、ヒカルの匂いに包まれて、穏やかな眠気はあっという間にアキラの瞼を下ろしてしまった。




 ***




 翌日、明子の声で優しく起こされたヒカルは、未だ寝惚けた様子で行洋と朝の一局を嗜み、それから質素ながら手のこんだ朝食を楽しんだ後、マンションに戻る支度を始めた。
 支度、といってもヒカル本人はそれほどすることはなかったはずなのだ。
 しかし、次から次へと差し出される土産ものの量の多さにヒカルはすっかり辟易していた。
「このおかず、進藤くん好きだって言ってたでしょう。もう少し多めに持って行った方がいいかしら?」
「こっちも進藤くんが前に喜んでくれたのよね。これは新しいものだけど気に入ってくれるかしら?」
 ――全部俺用かよ……。
 息子を差し置いてヒカルのために様々な食べ物を用意してくれる明子の笑顔が眩しい。
 ――道理でアイツ、帰省するたびにやたら食いもん持ってくると思ったら……
 一体アキラは実家でヒカルのことをどんなふうに話しているのだろう。これでは自分はただの食い道楽ではないか……
 恥ずかしさでヒカルが小さくなっていると、ふいに現れた行洋までもが菓子折りをヒカルにそっと差し出した。
「アキラ、これ……進藤くんが好きだったろう。持って帰りなさい」
 ――なんで先生まで俺の好きな茶菓子を知ってんだよ!
 穴があったら入りたい気分でいっぱいになりながら、ヒカルは大量の食べ物を抱えて塔矢邸を後にした。



 マンションに戻ると、アキラが居間で穏やかに詰め碁集を片手に碁石を並べていた。
 その落ち着いた雰囲気はまさにアキラものであるのに、姿形が自分だという違和感にヒカルは苦笑する。
「おかえり。……凄い荷物だね」
「ああ、お前のとーさんとかーさんに持たされた。俺って、お前の家ぐるみで餌付けされてんのな」
 ヒカルの言葉にアキラが笑う。
「両親は、キミの話をすると凄く喜ぶんだ」
「あんまり変な話はするなよ? それよりも、お前もっとおばさんの料理美味しそうに食ってやれよ」
 今日は一日オフだった二人は、入れ替わったままでソファに並んでくつろぎながら、この二日ばかりの出来事を報告しあう。
 もちろんお互いにとってマズイ内容は伏せながらなので、何だかちょっとした化かしあいのような会話になってしまったことは否めないが。
 それから二人は碁盤を挟んで、一切手を抜かない真剣勝負を始めた。
 目の前に自分の姿がありながら、繰り出される一手はお互いのそれ。容赦のない攻防が続き、二人は時間を忘れて対局に打ち込んだ。
 やがて半目差でヒカルがアキラに頭を下げ、気付いた時は辺りがすっかり薄暗くなっていた。
「……ここでツケてくるとは思わなかった。序盤の差がなかったらやられていたな」
「俺も、お前がいきなり仕掛けてくるから焦っちまった。なあ、でも今の対局……すげえよかったよな」
「ああ、とても」
 顔を上げ、微笑み合う。
 それから少しの間二人は無言で見つめあい、ふいにヒカルの姿をしたアキラがそっと口を開いた。
「もし……一生このままだったらどうする?」
「入れ替わったままだったら?」
「ああ」
「……それでも、俺は俺の碁を打つよ」
 ヒカルの言葉に、アキラは優しい笑みを返す。
「……ボクもだ」
 ヒカルも笑った。
 何だかこの入れ替わった二日間、それぞれの知らない一面を見ることができてむず痒い気持ちもありながら、心はやけに落ち着いていた。
 夢みたいな出来事だけど、起こってしまったものは仕方がない。
 なるようになれと、どこか吹っ切れた二人の笑顔に曇りはなかった。
「でも、視覚的に……夜が問題だな。さすがに自分を抱くのはちょっと……」
「お、俺だって俺に抱かれるのなんて嫌だっつーの。大体今は俺がお前なんだから、お前が下になってもいんじゃねえ?」
「な!? き、キミは自分を抱きたいのか!?」
「そ、そんなこと言ってねえ!」
 会話は極めて不毛な中身であったけれど。





 そうして二人で同じベッドに横になり、抱き合うのもおかしな状態なので、ただ手を繋いで眠った翌朝。
 ……身体は元に戻っていた。
 すぐに状況を飲み込めなかった二人は、寝惚けた顔を突き合わせてしばし現状把握に頭を働かせる。
「……ひょ……ひょっとして……」
「元に戻った……?」
 恐る恐るお互いの頬に触れ、それから自分の顔や身体や髪を引っ張ったりして、紛れもない自分自身であることを確認した二人は飛び上がるように喜んだ。
「やったあ! これで変なネクタイ締めなくて済むっ!」
「う、うるさいぞ進藤! でも本当に良かった……これでへらへら締まりない顔を続けなくても良くなったのか……」
「な、なんだと!? 誰がへらへらしてるっつーんだ!」
「へらへらしてるじゃないか! 誰にでも愛想振りまくからボクがどれだけ苦労したか……!」
「何抜かす、俺だってお前がじじくさい料理頼んだりするから腹も財布もからっぽなんだよ! 利子つけてラーメン奢りやがれ!」
「意味の分からないことを言うなっ!」
 朝っぱらから大声で怒鳴り、自分の身体から発せられる自分の声に密かに安堵しながら、気持ち良く喧嘩した二人は改めて元に戻った喜びを分かち合う。
 通り雨のような出来事だった。ひょっとしたら、二人で同時に見た夢ではないかと疑ってみたりもしたが、その後にぽつぽつと現れたお互いが残した痕跡に、間違いなく現実に起こったことであると思い知らされることになる。





「塔矢ーっ!! なんだよこの取材の記事、『塔矢アキラにはいつも世話になりっぱなしで感謝している、彼には頭が上がらない』だあ!? 俺がいつお前に世話になったっつーんだ!! おまけに『塔矢と打ってるほうが楽しいから彼女はいらない』って、これじゃ俺全国紙にホモ発言してるみてーじゃねえか!! おまけにこの写真! お前自分の服着て行ったな!? サイアクじゃねえか、なんでこんな悪趣味な服選びやがった!」
「キミこそ大阪で昼の打ち掛けに近くの牛丼屋で三十分以内に食べ切れたらタダの特大牛丼を完食したそうじゃないかっ!! 今日棋院付けで賞状が送られてきたぞっ!! さっきも関西棋院からいらした藤岡先生に「あぐらかいてコーラ飲んでる塔矢くんを初めて見たよ」なんて言われたんだぞっ! キミはボクのイメージを何だと思ってるっ!!」
「なんだと、お前社に余計なことばっか喋ってやがったな! 全部聞いたんだぞ、このエロガッパ!! なんで俺がアイツに松茸奢らなきゃなんねーんだ!!」
「キミこそ和谷くんに余計な告げ口ばっかりしてるじゃないかっ! 彼に大盛りの背脂たっぷり豚骨ラーメンを食べさせられたボクの苦労が分かっているのか!?」
 二人の醜い言い争いは、引き続きその夜のベッドの上に持ち越されることとなった。
 無論、決着は着かなかった。






6周年記念リクエスト内容(原文のまま):
「俺がアイツでアイツが俺で状態、
つまり入れ替わりドタバタコメディー希望!
入れ替わってみてお互いが相手のいない所で
誰とどんな会話をしてるのか見れたら楽しいよな〜と。 」

リクエスト見た時確かに面白そうと思ったのですが、
まず入れ替わるにあたる原因を考えてそれに対する対策云々……
とやっているうちに七つの球を求めて世界に飛び出しそうな勢いだったので
さくっとその辺りを却下して入れ替わりの部分のみ書きました。
むちゃくちゃな話ですけど楽しかったです。
リクエストありがとうございました!
(BGM:CHANGE YOURSELF !/布袋寅泰)