翌日、ヒカルは怒濤の展開で関西棋院の棋士から中押し勝ちをもぎ取った。 棋譜が記録に残るわけではないので、かなり好き勝手にやってアキラの碁らしさを気遣う余裕はなかった。 実は、眠って起きたら身体が元に戻っていないかと少しだけ期待していたのが、それも虚しく裏切られ、半ばヤケクソになって苛立ちをそのまま碁にぶつけてしまったことを僅かに後悔した。 姿は相変わらずアキラのままで、アキラが用意した変な柄のネクタイを結ぶ時も言い様のないやりきれなさを感じた。 何より、トイレに行く度に覚える劣等感。 ――こいつ、チンコでけえ…… 散々見ているモノとはいえ、自分のものと同じ目線で見下ろすとサイズの違いがよく分かって悔しくてたまらない。 デカくたって自慢にならない、と自分を慰めれば慰めるほど、無性に哀しくなるのだった。 一方アキラは、本来ヒカルが受けるはずだった取材に答えるために棋院に出向いていた。 最初はヒカルの私服をタンスの中から探していたが、どれも着方が難解そうで結局アキラは無難(と本人が思っている)な自分の服を選んでいた。しかし、出版部に顔を出した時、別の取材で訪れていたらしい見覚えのある棋士がアキラを見ておかしな顔をした。 ――ああこの人、森下先生の門下の……冴木さん、だっただろうか…… アキラがかろうじて名前を思い出した時、冴木は奇妙な顔のままアキラに向かって口を開いた。 「進藤、お前……なんだそのおかしな格好。なんか……塔矢みたいだぞ」 ぴき、とアキラのこめかみに血管が浮かぶ。 すると冴木と何か話していた小瀬村もその中に加わってきた。 「ホントだ、進藤くんいっつもセンスいいのに今日どうしたの? 冴木くんの言う通り、塔矢くんなみのヤバさだよ!」 ひくり、と口元が引き攣る。 「お前最近塔矢と一緒にいるからセンス似てきたんじゃないのか?」 「塔矢くんはもうああいう生き物って納得してるから構わないけどさ、進藤くんはお洒落なままの進藤くんでいてよ〜」 アキラはこの二人の顔を生涯忘れるまい、と心のデス・ノートに刻み込む。 ――どいつもこいつも……! ボクのセンスの何がいけないというんだ……!? ただのシャツとズボンじゃないか……! アキラは二人に渇いた笑いを返し、肩を怒らせて取材担当の記者の元へと地を踏み鳴らして歩いて行く。 後に記者は、その様子を「恐竜が近付いてきたようだった」と表した。 *** お互いがお互いの仕事を何とか終えた後。 マンションに帰宅したヒカルは、すぐにアキラの実家へと飛んで行かなければならなかった。 何しろアキラの両親が帰国したのは二ヶ月振り。久しぶりに息子の顔を見たいと切に思っていることだろう。……もっとも、中身は息子ではないけれど。 そのため、アキラが帰宅した頃にはすでにヒカルの姿はなかった。 アキラは誰もいないマンションで、脱ぎ散らかされた自分のスーツを見てため息をつく。 ――どうしてこんなことになってしまったのか。 昨日の朝を迎えるまでは、普段通りの日常だったはずだ。 何も変わったことはしていない、そもそも変わったことをしたからと言って身体が入れ替わるなんて想像したこともない。 アキラは皺になったスーツを拾い上げながら、まじまじと指を見つめる。 自分のものとは違う指の形、色。この身体がどうしたら元に戻るのか検討もつかない。 医者に見せてどうにかなるものではないと思うが、長くこのままでいるようなら、どこかに相談したほうがいいのだろうか……。そんなことを考えながら、アキラはスーツを丁寧にハンガーにかけ、ソファに腰を下ろした。 ――何より、このままじゃ愛しあうこともできないじゃないか……。 さすがに自分を抱き締めるのに激しい抵抗を覚えたアキラは、再び重いため息をついた。 塔矢邸に到着したヒカルは、するなと言い聞かせても自然と緊張してしまう身体をぎくしゃく動かしながら、作り笑顔でアキラの母親の相手を勤めていた。 「元気そうで良かったわ。進藤くんとは仲良くやってる? 二人ともきちんと食事は作っているの?」 「大丈夫ですよ。俺……ボクらはうまくやってますから」 さすがにアキラの母・明子は二人の本当の関係を知らないため、ただのルームメイトとして尋ねられていることにうまく応えようとヒカルはとにかく笑顔を向け続けた。 にこにこしていれば、大抵のことはごまかせることを学習したからだった。 しかし明子の言葉にヒカルは声を失うことになった。 「ねえ、それで進藤くんは元気にしているの? この前少し風邪を引いたって言っていたじゃない? 最近はどうなのかしら?」 「え? ……げ、元気ですけど……」 「それは良かったわ。そうそう、帰国してから週間碁を見たら、進藤くんが載っていたのよ。また少し大人っぽくなったんじゃない? ねえアキラさん、そう思わない?」 「そ、そうですか……?」 思わず笑いが強張るほどにヒカルについて質問攻めにされ、ヒカルはたじたじと言葉を詰まらせた。 すると明子はその様子が不満だったのか、頬を膨らませて少し怒ったように肩を竦める。 「もう、アキラさんいつもは黙ってても進藤くんの話をしてくれるのに、今日はだんまりなのね。ひどいわ、楽しみにしてたのに」 「あ、あははは……」 ――アイツ、何実家で余計なことばっかりまき散らしてやがる……! そりゃあ、アキラの交友範囲は極めて狭く、ライバル兼親友兼恋人であるヒカルの話が中心になるのは仕方ないとは言え、母親が続きを楽しみにするほどの話しっぷりだなんて問題がありすぎる。 怪しまれたらどうするんだと冷や汗をびっしょりかいていたら、ふいに静かに現れた行洋がヒカルに声をかけた。 「アキラ、久しぶりに一局打たないか。」 普段なら更に緊張を増す行洋からのお誘いも、この時は喜んで飛びついた。 隙を見せられない明子とのお喋りよりも、行洋と碁盤を挟んで向き合うほうがよっぽど気分が楽である。 しかし、相手はあの塔矢行洋。適当な碁を打ってはアキラの名誉のためにもよろしくない。 ヒカルはなるべく普段のアキラの打ち筋を思い出しながら碁石を打ち、それに応える行洋の揺るぎない一手一手に感動さえ覚えた。 対局はヒカルの三目半負け。頭を下げたヒカルに、行洋はうむと低い声で頷く。 「斬新な碁だった。……進藤くんの影響だろうか、今までのお前には見られなかった、押しの強さだけに頼らない確かな基盤ができたな」 「え……、そ、そうですか……?」 「うむ、彼との対局でお前も学んでいるのだろう」 ヒカルはどきんと胸が震えたのを感じ、思わずそっと手を当てる。 行洋の言葉が嬉しいのに、実際に対局を受けたのがアキラではなくヒカルであることが申し訳なかった。 ――先生、ごめんなさい。でも、塔矢もずっとずっと強くなってるから……。 心の中で行洋に謝罪し、しかし今の対局を真剣に受けたことを理由に許しを乞う。 こんなことにならなかったら、行洋の前に座っていたのは間違いなくアキラ本人だったのだから。 そんなことは露知らず、行洋は穏やかな表情で検討を始めた。その検討もまた、ヒカルにとっては恐れ多くも有り難い時間となり、明子が夕飯だと呼びに来るまで熱中してしまって空腹を忘れていたほどだった。 有意義な時間を過ごしたことで、すっかり気が緩んでしまったヒカルは、アキラらしく振る舞うことなど頭から抜けてしまっていた。目の前に並べられた豪華な料理に上機嫌になり、次々笑顔で平らげていく様子を明子もまたにこにこと見つめている。 「アキラさん、今日は凄く美味しそうに食べてくれるのね。頑張ったかいがあったわ」 その言葉にはっとしたヒカルは、今の自分がアキラであることを思い出して青ざめる。 ――しまった、二杯もおかわりしちまった。俺のバカバカ……! 普段のアキラがヒカル程に量を食べないことをよく知っているので、自分の食い意地を頭の中で激しく叱咤した。 「いつも黙って食べるばっかりで、感想のひとつも言ってくれないんだもの。美味しくないのかと思って不安だったのよ」 「い、嫌だなあ、お、お母さんの料理はいつも美味しいですよ、アハハ……」 「そう? でも、進藤くんのおかげかしらね。進藤くん、うちに遊びに来て下さった時いっつも美味しそうに食べてくれるでしょう。今日のアキラさん、なんだか進藤くんみたいににこにこしているから嬉しいわ」 ズキン。心臓が竦む。 ――そりゃそうだ。ここにいるのは俺だもん。 馬鹿面晒してガツガツ食うんじゃなかった、と今から後悔しても遅い。怪しまれたかもしれないとせめて背筋を伸ばしてみるが、明子は別段訝しんでいる様子ではなかった。 それどころか、言葉通りやけに嬉しそうにヒカルを見ている。 「やっぱり進藤くんみたいな明るい子と一緒に暮らし始めたのが良かったのかしらね。アキラさん、なんだか前よりずっと明るくなったみたい」 「そ……そう、ですか?」 「そうよ。うふふ、反対したのが杞憂に済んでよかったわね、あなた?」 そう言って行洋を見る明子につられて、思わずヒカルも行洋に顔を向けた。 ――……先生、ひょっとして俺と塔矢が暮らすの反対してた……? そんなことは初耳だった。アキラは一言も親から反対されたなんてヒカルには告げたことがなかったというのに…… 行洋はバツが悪そうに少し表情を渋くさせ、黙ったまま箸を進めている。明子は実に楽しそうに微笑んだ。 「ライバル同士で一緒に暮らして、お互いの碁を殺すようなことがあったら困るって、怖い顔してよくお話してたわよね、あなた。アキラさんはそんなことにはならないって頑張ってたけど」 「明子、その話はもういいだろう」 「でも今日のあなたのお顔を見ると、アキラさんは碁でもお父さんを納得させられたようね。良かったわね、アキラさん」 ね、と顔を向けられ、ヒカルはぼんやりした表情のままかくんと頷いた。 ――アイツ、俺と暮らすために先生と戦ってたんだ。いっつも涼しい顔してたくせに…… あまりいい顔をされていないと教えてくれさえすれば、一緒に出向いて説得に応じたってヒカルは構わなかった。それなのに、アキラは全て背負って自分一人で親の許しを得たのだと思うと、僅かな寂しさと共にアキラの決心の強さを感じる。 ――……自分の力で親父さんを納得させたかったのかな、アイツ…… もし明子の話が本当であるなら、先程行洋は対局後の台詞をどんな気持ちでヒカルに告げたのだろう。 アキラにきちんと伝えてやらなくては――ヒカルは胸に沸き起こる嬉しさという名の感情に満足し、にっこり笑って箸を置いた。 「ごちそうさまでした!」 |
塔矢邸にてヒカルアキラになりきる。
なりきれてないけど両親気付かないってどうなの。