「お世話になりました」 「是非今度はお仕事抜きで遊びにきてくださいね」 頭を下げたヒカルに旅館の女将が柔らかく言葉をかけてくれた。にっこり笑ったヒカルは素直に頷いてみせる。 鄙びた温泉旅館。建物は年期が入っているようだが、食事も風呂もサービスも抜群だった。囲碁を嗜むという女将は気さくで話しやすいし、泊まる予定だったビジネスホテルを強引に変更してよかったと心底思う。 女将の言う通り、仕事でなければもう二、三日ゆっくりしていきたいくらいだった。しかし今日はこれからタクシーで数十分ほど走った先にある会館でセミナーがある。それをこなしたら明日のために東京に戻らなければならない。 たった一泊の息抜きに物足りなさを感じるが、それでも充分リフレッシュできた。またいつか来よう――その時も勿論一緒に、と待ち人を想ってヒカルは旅館の入口を振り返る。 「塔矢先生、まだ見えられませんね」 ヒカルの仕草に便乗するように、女将が心配そうに言った。 「何やってんだ、あいつ……珍しいなあ、どこまで探してんだろ」 「私、ちょっとご様子見てまいりましょうか」 「あ、いえいえ、いいですよ、すぐ来ると思いますから」 ヒカルと一緒に一泊したアキラは、チェックアウト寸前に携帯が見当たらないと言い出して部屋を探し回り始めた。チェックアウトの手続きをしておいてくれ、と頼んできたアキラに頷いて、先に一人でフロントまで下りてきたヒカルだったが、すぐに追いつくだろうと思っていたアキラがなかなかやって来ない。 いつも身の回りのものをきちんと整理しているアキラでもこんなことはあるんだな――ヒカルはどこかのんびりした調子で待っていた。 時間には余裕がある。傍で待たせているタクシーには申し訳ないが、急ぐ必要はないのだからとぼんやり旅館の周りの景色を楽しんでいたヒカルの耳に、ふいににゃあとやけに低い猫の声が届いた。 見れば旅館入口のガラス戸の前、随分と大きな黒猫が鎮座している。小汚いが、毛並みはやけに艶々と黒光りして豪奢な雰囲気を感じさせた。 こんな猫、いたっけ?と首を傾げるヒカルの隣で、女将が黙って猫に頭を下げた。野良猫に対するにはいささか不自然なその動作を不思議そうに見ていたヒカルに、女将が微笑みながら説明してくれる。 「あの猫は昔からこの辺りに棲みついてる猫なんですけどね。姿を見ると良いことがあるという噂があって、近辺の住人は守り神みたいに思っているんですよ」 「へえ〜。ノラなんですか?」 「ええ、ここいらも見ての通り、のどかでしょう。野良猫がうろうろしていても困ることはありませんので。町の人間が交代で餌をやっているような状態なんです」 「ふう〜ん、守り神かあ。俺も拝んでおこうかな」 年も随分いっていると思われる黒猫には、確かに守り神と言われても納得してしまいそうなずっしりとした威厳があった。単に身体が大きいからだけかもしれないが、ノラでここまででかいのも珍しい、とヒカルも手を合わせてみる。 子供の頃だったらバカバカしいと一笑していたかもしれないが、何たって一度はこの身に囲碁幽霊を住まわせたヒカルである。このテの話には全く抵抗がなくなっているどころか、こういった霊的なものは敬うべきだという考えさえ抱くようになっていた。 「あ、いらっしゃいましたね」 女将の声に顔を上げると、アキラが慌しく靴に足を突っ込んでいる姿が見えた。 らしくねえなあ、と苦笑していたヒカルだったが、勢いよくドアを開けてこちらに駆け出してきたアキラが、真っ直ぐ前しか見ていないことにはたと気付く。 おい、足元。呼びかけは一歩遅かった。 「すまない、遅くなって……!」 「にゃー」 アキラの焦りを含んだ謝罪に、野太い猫の悲鳴が混じる。 ヒカルと女将はぽかんと口を開けた。アキラも奇妙な声をいぶかしんで足元を見下ろし、あっと目を丸くする。 黒猫が宙に浮いていた。……アキラが派手に蹴飛ばしたのだ。 その見事な飛びっぷりに、その場にいた誰もが声を発せずに硬直した。ぼてんと地に落ちた猫は、ううと低い唸り声をあげてアキラを睨んでいるように見える。 「すまない、急いでいたものだから」 「お、お前、もっと真剣に謝れ! 守り神だぞ!」 「はあ?」 猫に軽い謝罪を述べただけで猫の傍を離れたアキラに対して、ヒカルは力いっぱいダメ出しをした。アキラは怪訝そうに眉を寄せるだけで、盛大に蹴飛ばした猫をもう顧みようとはしない。 「あのな、あの猫ここらでは守り神って言われて大事にされてんだってよ。お前祟られるぞ。もっときちんと謝ってこいよ」 「守り神? ……ただの野良猫じゃないか」 「そうだけど、なんかこうイゲンがあんじゃん!」 「馬鹿馬鹿しい……。それより遅くなってすまなかった。お待たせして申し訳ありません、女将さん」 猫への態度とは裏腹に、丁寧に女将に頭を下げるアキラに対してヒカルは苦い顔を見せる。女将もついつい苦笑を漏らしているようだ。 仕方ない、アキラは完璧なリアリストだ。誰より傍にいるヒカルはそのことをよく知っている。 おかげで本人が待ち望んでいるだろう長年のヒカルの秘密を告げられずにいることなど、アキラは考えもしていないのだろう。 「さあ、タクシーも待たせている。行こう」 「あーあ、知らねえぞ」 「馬鹿なことばかり言ってないで、早く」 もう一度女将に頭を下げた二人は、慌しくタクシーに乗り込んだ。 恋人同士となってもう随分経つのだし。 旅行らしい旅行もしたことがないのは淋しい。 ここのセミナー会場なら、少し足を伸ばせばいい温泉宿がいくつかある。どうせならビジネスホテルじゃなくてこっちに前乗りしないか? …… そんな理由で初めての二人だけの旅行にこぎつけた昨夜。 完全な観光旅行ではないから、翌日の仕事を思うととことんハメを外すことはできなかったけれど、それでも非常にいい雰囲気で静かな宿の甘い夜を過ごすことができた。企画したヒカルとしても大満足だ。 しかし猫を蹴飛ばすのはなあ、とタクシーの中で尚もアキラを責めたヒカルに対し、アキラはじろりと横目を向ける。 「そもそもキミが寝坊するのが悪いんじゃないか。ボクの携帯、キミがぐしゃぐしゃに丸めた浴衣に絡まってたよ。道理で見つからないはずだ」 「あ、まじ? 巻き込んでたか、悪い」 あはは、と笑ったヒカルの隣でアキラがため息ひとつ。 その吐息だけで昨夜の記憶が揺り起こされ、ジワジワと身体の芯が疼いてくる。 夕べのアキラは格好良かった。微かに香の匂いが漂う和室で質素な浴衣を着こなして、優雅な微笑を湛えながらヒカルに差し伸べられる手のひら…… 普段の出張なら同じホテルに何人もお仲間が泊まっているせいで、運良くアキラと同室に部屋を割り当てられることがあっても、何も知らない連中に打とう飲もうと突撃されることがしばしばあった。 まさか今盛り上がってるので今夜はご遠慮くださいなんて言えない身としては、周りを気にせず睦み合える空間だけでも充分嬉しいシチュエーションであるのに、この宿は加えて何もかもが上質だった。 「なあ、また来たいな、俺」 「うん、いい宿だったね。……また来よう」 アキラがそっとヒカルの手を握り締めてくる。 ヒカルも頬を綻ばせて、その手をきつく握り返した。 ――ああ、すげえイイ感じじゃん? やっぱ来て良かったあ〜。 これから向かう先が仕事場でなければもっともっと素敵だったのに! ……しかしれっきとした社会人、それはそれと気持ちを切り替え、今日のセミナーを無事に遂行するべくプログラムを頭の中に思い浮かべる。 どうやらアキラも同じだったようで、手を繋ぎながらも横目で伺った表情は仕事場で見せるそれになっていた。 タクシーに揺られながら、二人は若手トップと謳われる囲碁棋士の顔になって目的地を目指していた。 |
今回はいつにも増してとってもイロモノ……
た、たぶん皆様が想像される猫耳ものとはまたちょっと違うような……
カッコイイアキラさんしか許せない方はどうぞここでストップで。
ってうちの話でカッコイイアキラさんを探す方が難しいか……
最初に言うのもアレですが、オチはとても微妙です。
そして全編「無理があるような」という不安を強引に振り切ってます。
(ここの言い訳が長い時点ですでにダメダメです……)
タイトルはもう猫って言われるとこれしか浮かびませんでした。
(歌詞と話の内容はほとんど関係ないです……)