CAT NAPにコテンコテン






「あ……」
 ヒカルと黒猫はしばし無言の対峙に時間を費やした。
 猫はじっとヒカルを見据えている。なんだかやけに人間臭い黒々とした瞳は、空の雲の動きに合わせて敏感に暗がりを察知し、時にきらりと夜行性の光を覗かせた。
 ヒカルは息を呑んだ。目を離さないように睨み合いながら、目線を合わせるためにゆっくりとその場にしゃがみ、がさ、と地面に片膝をつく。
 猫に捨て身の謝罪が通用するかどうかは不明だが、いちいち考えるよりやるだけやってみたほうがすっきりする――ヒカルは身を低くした。
「一昨日、蹴っ飛ばしてごめん! いや、蹴ったのは俺じゃねえけど、アイツの代わりに謝るから! だから、アイツのこと許してやってくれっ!」
 猫はヒカルを見つめたままだった。身じろぎひとつせず、黙ってヒカルに静かな目を向けている。
 一度口の中に溜まった唾液を飲み込んで、ヒカルもまた猫から目を逸らさずに訴え続けた。
「アイツ、悪気はなかったんだよ。ホントバカ野郎でさ、謝り方はテキトーに見えたかもしんないけど、でもホントにすまなかったって思ってるはずなんだ。」
 そこまで告げたヒカルは、ポケットに入れていた猫缶の存在を思い出す。
「こ、これ、お詫びにやるから!」
 もどかしくポケットから缶詰を取り出し、その場で開けて差し出してみせた。
 黒猫は僅かに鼻を動かしたものの、寄って来る気配はなく、相変わらずじっとヒカルを見つめている。
 ダメだろうか、と眉を垂らしたヒカルは、動く気配のない黒猫を前に肩を落とした。
「……やっぱ、そう簡単に許してくれないか……。そうだよな、あんな呪いかけるくらいだから、ムチャクチャ怒ってたんだよな」
 そしてそっと手にしていた缶詰を猫と自分の中間地点に下ろし、指で僅かに猫側へと押してやった。
「ここで待ってて。俺、アイツ探して捕まえてくるから。アイツはもう一昨日のことなんて分かんなくなっちゃってるけど、アイツにもちゃんと謝らせるから。それで……」
 物言わない猫に必死に語りかける自分に苦笑し、それからヒカルはぽつりと独り言を呟く。
「……もし、アイツが一生あのままでも、俺、ちゃんと面倒見るよ」
 ヒカルは猫に背を向け、アキラを探そうと表情を険しくした。
 猫が待っていてくれるかどうかなんて分からない。そもそもこの猫に謝罪したところで元に戻るかも確証なんてないのだ。
 それでもできるだけのことは、と一歩踏み出したヒカルの背後で、にゃあと再び黒猫が鳴いた。
 慌てて振り向くと、黒猫はゆっくりと猫缶に近づき、くんくんと鼻をひくつかせてからカパッと赤い口を開けた。
 野良猫のくせに、ガツガツとした様子はなく実に優雅に猫缶を頬張っている。何故だかその光景から目を離せず、半ば呆気にとられた表情で見下ろしているヒカルの前で、黒猫はぺろりと缶詰の中身を平らげた。
 そして顔を上げた猫は、ヒカルに向かってもう一度にゃあと鳴いた。その声に何だか奇妙な違和感を感じたヒカルだったが、その正体が何かと考えつく前に猫がひらりと身を翻す。
「あ!」
 思わず声をかけたヒカルを一度だけ振り返った猫は、そのままふわりと飛ぶように草むらに消えていった――瞬間、揺れた黒猫の太い尻尾が二本に見えたような気がして、ヒカルは咄嗟に瞬きをする。
 ……猫はもうどこにもいなかった。



 少しの間放心したように猫が消えた草むらを眺めていたヒカルだったが、近くの木から聴こえて来た鳥の声にはっと意識を取り戻す。
 しまった、見失った。せっかく見つけたのに――慌てて猫の後を追おうとガサガサと草の中に割って入った途端、何かに躓いてバランスを崩した。
「うわっ……」
 勢い良く身体を突っ込んでいたため、ぐらりと揺れた大きな動きに逆らえず、そのまま突っ伏すように倒れ込む。……が、何やら岩とも違う凹凸のある物体がクッションになって、想像していた衝撃はなかった。
 自然の産物にしてはやけに弾力がある暖かいそれに眉を寄せたヒカルが身体を起こして見ると、下敷きにしていたのは……アキラだった。
「とっ、とうやっ!」
 先ほどまで探し回っていた男がぐったりと横たわっている。どうやらアキラの足に躓いて、更にアキラの上に派手に転んだらしいヒカルは、目を閉じたまま倒れているアキラを慌てて抱き起こした。
「塔矢、塔矢っ! おい、しっかりし……ろ……」
 怒鳴りかけて、気がついた。
 ……耳がない。
 いや、耳はある。両目の高さ、こめかみの向こう側。しかしそれは肌の色と同じ、見慣れた人間の耳だ。
 ヒカルは思わずアキラの頭をがしっと掴んだ。髪をわさわさと探るが、あの黒光りした猫の耳はどこにもない。
「あ……」
 ――戻った。
 ヒカルの全身から力が抜けた。
 そのために支えを失ったアキラの身体が、ごろりとヒカルの腕からずり落ちて再び地に伏す。それがちょっとしたショックになったのか、アキラの身体がぴくりと動いた。
「う……ん」
 唸りながら身を捩じらせ、仰向けになったアキラは薄らと目を開く。
 ヒカルはうまく声が出せないまま、半泣き状態でアキラを見下ろした。
 ぱちぱち、と瞬きをゆっくり数回繰り返したアキラは、置かれている状況の不自然さになんとなく気がついたようだ。
 頭上を覆う木々に、むせ返るほどの草の匂い。アキラは大きく目を見開き、笑っているのか泣いているのか判断に困る顔で自分を覗き込むヒカルに向かって口を開いた。
「……進、藤?」
 猫の言葉しか発することのできなかった口唇が確かに自分の名前を呟いたのを聞いて、ヒカルの眼球がみるみる涙に覆われる。
 アキラは不思議そうに、それでも様子がおかしいことは分かっているようで、怪訝に眉を顰めながら上半身を起こした。
 そして、辺りの景色にぎょっとしている。
「こ、ここは……? うわ、泥だらけじゃないか」
 自分の手のひらを見つめて目を丸くしているアキラの肩を、いささか乱暴に掴んだヒカルは涙目で声を張り上げた。
「バカ! この大バカ! お前なあ、普段はクソがつくくらい真面目なくせに、大事な事テキトーにするからこんなことになるんだろうがっ! たまには俺の忠告も聞け!」
「な、なんの話……」
「ば、バカ野郎、お前なんてなあ、こんなどろっどろのお前の面倒見るヤツなんて俺くらいしかいないんだから、心配かけんじゃねえよ……! 変態で気持ち悪いお前を好きだなんて言うヤツ、おっ、俺以外にいないんだからなっ……!」
 涙声で喚きたてるヒカルの発言に驚いた顔をしたアキラは、やがて薄らその頬を赤らめた。
 多少気になる言葉はあったけど、と前置きしたアキラは、
「……それ、盛大な愛の告白だと思っていいの?」
 相好を崩して何とも愛おしそうにヒカルを見つめた。
「バカ!」
 ヒカルの返事は簡潔明瞭だった。

「それにしてもここは何処だ? こんなところでボクらは何を?」
 現状を不審がるアキラの腕を引っ張って立ち上がるのを手伝いながら、ヒカルは赤い目をして不貞腐れたように呟く。
「どうせ説明しても信じやしねえだろな」
「ん? 何だって?」
「何でもねえ。お前後で宿代半分払えよ」
「宿代?」
「傷の手当てもしろよな」
「傷の手当て??」
「とりあえず山下りようぜ。帰るのにまた何時間もかかるんだ……」
「何時間も???」
 さっぱり分からない、と首を傾げているアキラを無視して、空になった缶詰めを拾い上げたヒカルはさっさと下山しようと足を踏み出しかけた。
 その瞬間、
『にゃあ』
 耳に甦った黒猫の最後の一声――
 ヒカルは思わず振り返る。
「進藤?」
 アキラも釣られてヒカルが見た方向に顔を向けたが、何も見えないらしくまた首を傾げている。
 ヒカルはごくりと唾液を飲み込んだ。
 あの時感じた違和感の正体が分かった。
 ……やけに、人間臭い声だったのだ。そう、アキラが猫に成り立てだった時の鳴き声のように……
 ざわ、と背筋が寒くなり、ヒカルはぶんぶん首を振って猫の声を頭から掻き消そうとした。
 ――まさか、な。
 その後はもう振り返らなかった。
 とにかくアキラを連れて早く帰ろう……、元の生活に戻るんだ、と急ぎ足に山を下りたヒカルが、アキラを乗せて車で来た道を引き返し、ようやく見慣れた土地に帰りついたときには深夜を回っていた。





 ***





 その後、日本棋院では何故か緒方三冠に荷物持ちと使いっ走りをさせられている進藤ヒカルやら、尻に穴を開けたスラックスを穿いて対局上に現れた塔矢アキラ(本人は穴の存在に気づいていないようだ)やらが目撃されたが、猫になった人間の姿を見たものはいない……たぶん。






30万HIT感謝祭リクエスト内容(原文のまま):
「競争率の少なそうな”猫みみもの”(別に犬の耳でもいいけど)でお願いします。
せっかくパラレルなのですからカチューシャなんかでなく、
ある日起きたら生えてたみたいな動物耳ものを。
きっとその事実を認めたくないアキラさんと
あっさり認めてその状況を楽しんじゃうヒカルなんでしょうね。
思いの他、見かけが可愛くなってしまったアキラにちょっと
攻めの気分になるヒカルなんてのも楽しいかもしれません(勿論、最後は倍返し)。」

うわー全然違う……ヒーごめんなさい。
ある日突然〜だと前にやった入れ替わりアキヒカと同じなので、
いきなり祟られてみました……。夏なのでちょっとひんやり風味。
(そしてなんだこれって感じのあっさりなラスト……)
可愛い猫耳アキラさんじゃなくてすいませんでした……
リクエスト有難うございました!
(BGM:CAT NAPにコテンコテン/LOOK)