アキラがその第一報を聞いたのは、携帯にかかってきた棋院からの電話でだった。 「……ええ、分かりました。後日打ち合わせですね。……はい、失礼します」 通話を切り、ふっと息をつく。 初期画面に戻った携帯電話の時刻を確認して、アキラは新幹線のデッキから自分の座席へと戻っていった。腰を下ろし、無意識に少しだけ首を締め付けていたネクタイを緩める。 北斗杯の出場選手が決まったとの報告は、アキラの心をひそやかに乱した。 前回同様、進藤ヒカルと社清春。二人が代表に選ばれたという結果は予想の範囲内だ。しかし、それだけでは割り切れないものがアキラにはあった。 新幹線を降りて、吹き付けてくる風に目を細める。 アキラはもう一度携帯電話を眺める。棋院からの連絡以外、着信もメールもない。 黒いカードのような携帯電話を胸にしまい、アキラは何度目か分からないため息をついた。 もう随分、ヒカルとまともに話もしていない。 年が明けてすぐは、いつものように碁会所で打ち合ったりしていた。それがある時期からぱたっと連絡が来なくなり、アキラからメールをしても電話をかけても、曖昧な返事しか返ってこなくなった。 理由は分からないまま。だが、去年の同じ頃に、北斗杯の予選を控えてしばらくヒカルがアキラを避けたことがあるため、それが関係しているのではないかとも思っていた。 そして、もしかしたら、北斗杯への出場が決まったらヒカルから何らかの連絡があるかとも。 (でも) あの時のような原因が思い当たらない。 あの時は、ヒカルにキスして、困惑したままその場繕いの態度をとり、それにヒカルが怒ったからしばらく碁会所には来ない、ということになったのだ。 今は違う。喧嘩をした記憶がない。些細なものはしょっちゅうだが、ヒカルからの連絡が一切途絶えるようなものではないはずだ。 問い詰めたくても、電話やメールのヒカルの態度ははっきりしない。 唐突すぎて、どうしたらよいのか分からなかった。 (……何かあったんだろうか) 何かはあったのだろう。 そう思わなくてはやりきれない。 去年のアキラの誕生日、デートだと言ってアキラを祝ってくれたヒカル。別れ際の小さなキス。はにかんだ笑顔。 アキラに痛みだけ残して、そんなヒカルが全て消えてしまった。明らかに拒否は意図的だ。もう気のせいなんかではない。 アキラが自分の心を思い知ることになったキスの、訳も聞けないまま。辛くてそれ以上に愛しくて、それをヒカルにぶつけるまいと葛藤しつつも自然を装った日々。 それが駄目になろうとしている。アキラにはそんな予感がしていた。 ヒカルは何かに気づいたのではないか。アキラの想いの強さを怖れたのだろうか。それともヒカル自身がアキラに応えられないと悟ったのだろうか。 せめてその理由を話して欲しかった。今までのことが何もなかったかのような突然の距離に、疲弊した心が限界を訴えている。 (逢いたい) 逢いたくて気が狂いそうだ。 (逢いたい) 自分の想いが重たくてたまらない。 ひょっとしたらヒカルも、この重みに疲れてしまったんだろうか――…… 駅を出て少し歩いたところで、すぐに目についた赤のRX-7。 アキラはやや驚いた表情で、それでも迷わず車に近づいた。 助手席側の窓から運転席を覗き込む。 「緒方さん」 「ああ、来たか。まあ、乗れ。送ろう」 白いスーツに煙草を燻らせ、緒方はBGMもない車内でエンジンをふかしたままアキラを待っていたようだ。 「ボクが来ることが分かってたんですか?」 アキラは助手席に乗り込みながら緒方に尋ねる。 「棋院で聞いたんでな。……ちょっとアキラ君に確認したいことがある」 「ボクに?」 アキラがシートベルトに手を伸ばすと、気の早い緒方はすでに車を発進させていた。衝撃に前のめりになりながらも、アキラはシートベルトを締める。 「進藤のことだが」 アキラの手がシートベルトを握り締めたまま止まる。 緒方は横目でアキラの様子を見たようだった。 「最近碁会所に顔を出していないようだが……何かあったのか?」 そんなのこっちが知りたい―― 怒鳴りたくなる気持ちを抑えて、アキラは努めて平静に「彼も忙しいんでしょう」とだけ答えた。 「そうか。それだけならいいんだが……後ろの封筒、見てみろ」 アキラが後部座席を振り返ると、ぞんざいに角2サイズの茶封筒が置かれている。手を伸ばし、封筒を手元に引き寄せる。中を見るとA4用紙が何枚か入っていた。それが棋譜だと分かり、アキラは眉を寄せる。 「棋院でコピーしてきた北斗杯予選の棋譜だ。」 アキラの心臓がどくりと揺れた。 「予選決勝、社対和谷、そして進藤対越智。社のほうは問題ない。辛勝だったがよい内容の碁だ。社の一目半勝ち。問題は――」 アキラは「進藤ヒカル」という名前に導かれるように、その棋譜を封筒から取り出す。指が微かに震えているようで、紙は小刻みに揺れた。 緒方の視線が気になる。 「――進藤の打ち方……、……見たら分かるだろう」 「……これは……」 アキラは棋譜を見て絶句した。 ヒカルの碁は……、一言で言うと「酷い碁」だった。 容赦なく越智を追い詰める打ち筋には圧倒的な力の差が前提としてあったからだろうが、対局者を無視して一方的に打ち攻めるそのやり方がえげつない。弱者を切り捨てるような、何の思いやりもない、何も未来に繋がらない自分勝手な碁。 結果は越智の中押し負け。あのプライドの高い越智が、ヒカルにこんな碁を打たれた時の姿を想像すると苦々しい思いが胸に広がる。 「ひどいもんだろう」 「……」 「対局が終わると、進藤はその場の誰にも声をかけずに棋院を出たそうだ。周りも声をかけられる雰囲気じゃなかったようだが……」 アキラは口唇を噛んだ。 憔悴していた目に炎が宿る。 ――なんだこの碁は? およそ彼らしくない、行き先を失ったこの棋譜。握り潰したくなる衝動を必死で抑える。 彼の碁にはいつも光があった。碁盤という宇宙の中に、ヒカルの一手一手が星々のように輝いて道を示す。黒と白の碁石が生み出す美しいコントラスト。打つのが楽しい、そんな喜びが滲み出るような棋譜。 それがこのザマはどうだ。自分の力ばかりを押し付けて、先を見失った意味のない碁を打つなんて。気づかないでやっているとしたら、ヒカルは相当な大馬鹿者だ。 美しい一局だなんて、口が裂けたって言うものか―― 「この一局について塔矢アキラの見解を聞きたくてね。……、アキラ君?」 アキラはきつく前方を見据えた。 「緒方さん、車を戻してください。……棋院へ向かいます」 *** 部屋の中で一人、膝を抱えて闇を見据えても何も目には映らない。 ここはヒカル一人だけの部屋。他に誰の気配もない。 碁盤を置いて、その前に座る。碁石を打つ。自分の指から放つ石が一人だけの音を立てる。 しかし心の声が、もう一人との対局を囁くのだ。 『十の七』 『十一の四』 誰と対局を交わしているのか分からなくなってくる。 自分の指だけで作り出すはずの碁盤が、ヒカルの意志を差し置いて黒と白に染められていく。姿のない対局者。ヒカルの中だけにいる対局者。 ――それは全てまぼろしだよ。 ヒカルは心に言い聞かせる。今はもう、誰もいない。誰もいないから、この碁は一人で打っている。この対局は自分自身で作り出した幻。 それなのに、指は次の一手を逸らせる。「彼」の一手を待ち望み、対の石を掴むのだ。 ――こんなこと、してはいけない。 消えた彼が自分に託した思いには、彼の碁を引き継ぎ越えていくことで応えられるかもしれない。 しかしこの幻は、ヒカルが心に作り出した新しい「彼」だ。 ――身代わりにしちゃいけない。 「彼」はそんなことを望んではいない。 ――ダメにしてしまう。 「彼」だけではなく、「彼」と培ってきた関係までも。 「彼」をこんなところに閉じ込めたくはない。 「彼」にこんな役割をさせるわけにはいかない。 自分の中で構築されかかっている「彼」の幻を崩さなくては―― そう思って距離を置いた、その直後から指は飢え始めた。 打ちたい。打ちたい。打ちたい。 ――今は打ってはダメだ。「彼」をダメにしてしまうから。 会いたい。会いたい。会いたい。 ――会えばきっと「彼」と打ってしまう。 そうしてまた、「彼」を自分の中に閉じ込める檻を着々と造り始め、自分の中にいる「彼」に身代わりの役割を与えてしまうのだ。 そんなことしたくない。一緒に打ちたい、それだけなのに、自分はきっと「彼」を取り込んでしまう。 一緒に打ちたいだけだ。これからもずっと、ずっと。 自分の碁を探さねばならない。 自分が自分のままでいられる碁を。 最初に彼がきっかけをくれた、そして「彼」が引っ張ってくれた、その先を自分自身で探すのだ。 ヒカルだけの碁を―― |
ちょっと訳わかんなくなってきました。
ヒカルは案外内側にこもりやすいイメージが……あるのか?
若のようにかっ飛ばした方がすっきりするだろうに。