Chaos






 和谷は少し驚いた表情で振り向いた。自分を呼び止めた人物が意外で、何故自分に声をかけたのかすぐには見当がつかなかったからだ。
「……塔矢」
 棋院の廊下、顎の高さで切り揃えた黒髪を揺らしながら、真っ直ぐに和谷を見据えてアキラが歩いてくる。和谷は思わず周りを見渡した。他に人はいない。何より、彼が「和谷くん」と声をかけたのだから、自分を呼んだのに間違いないのだが。
「和谷くん。……進藤を知らないか」
 和谷ははっと目を見開いた。そして、その声色の真剣さから何となくアキラが自分を呼び止めた理由が分かったような気がした。
「進藤……たぶん今資料室だよ。最近よくいるみたいだから」
「ありがとう」
「……待ってくれ、塔矢」
 和谷の横を通り過ぎようとしたアキラが、振り向かずに止まった。
「お前……ひょっとして、予選の進藤の対局のことか?」
「……」
 アキラはゆっくり和谷を見る。頷きはしなかったが、きっぱりとした黒い瞳は雄弁だった。
「……あの時さ。俺、社との対局で最初の状況はよくわかんなかったけど……俺らがまだ半分くらいしか打ってないくらいで、進藤が突然立ち上がったんだ。その向かいにいた越智は頭落として、床睨んで拳握って震えてた。そんな越智のことも、俺たちのほうも振り返りもしないで、あいつ黙って部屋を出て行った」
 搾り出すような声でそう告げた和谷は、記憶を呼び戻すかのように目を閉じて苦しげに首を振った。
「その前日まで、俺らと普通に笑い合ってたんだぜ、あいつ。予選の朝は確かにいつもより静かだと思ったけど、それでもあんな対局するような雰囲気じゃなかった。いつも通りに見えた、でもいつもの進藤じゃなかった」
「……分かった」
 アキラは静かに和谷の肩に手を置き、そしてそのまま振り返らずに廊下を進む。
 ――確かめなければならない。
 アキラは先日棋院で目を通したヒカルの棋譜を思い浮かべた。
 未だ二段の彼は高段者との手合いが少ないため、全ての棋譜が残っているわけではない。その中で僅かに残る棋譜を集め、その打ち筋をくまなく調べた。
 越智との対局のようなあからさまなものはなかったが、ところどころに見られる自棄ともとれるような強引な一手。相手が格上でなければもっと乱暴に掻き回していたかも知れない。
 強引に乱れた碁。しかし僅かに迷いもみられる。
 変調が見られる対局の日付は全て一月半ば以降。ヒカルからの連絡が途絶えたのもその頃だ。
 ヒカルは何かに迷っている、アキラはそう確信した。そしてそれを確かめるのは自分でなければならないとも。
 最近ではヒカルは電話はおろか、メールの返事すらまともに返ってこない。連絡を取るにはふいうちを仕掛けるしかなかった。
 直接話をしなくては。アキラは自然と足早になる。


 資料室の扉は半開きになっていた。
 アキラは隙間に手を差し入れ、そっと音を立てないように扉を開く。ヒカルはそこにいた。
 狭い資料室の真ん中で、アキラに背を向けて、ぼーっと棚を見上げて突っ立っている。
 アキラはほんのりカビ臭い書庫独特の臭いに眉を顰めた。そして壁一面に積み上げられた資料を見渡す。この場所の存在は知っていたが、中に入るのは初めてだった。
 空気が重くて暑い。それがこの四面を囲む資料の圧迫感のせいなのか、ただ何をするでもなく部屋の中央で立ち尽くすヒカルのせいなのかは分からない。
 ヒカルは集中しているのか呆けているのか、アキラにまだ気づいていない。アキラはもう一歩脚を踏み入れ、そして口を開いた。
「進藤」
 ヒカルはバネ仕掛けの人形のようにその場で跳ね、そして鋭くアキラを振り返った。
「――」
 アキラは言葉を紡ごうとして詰まる。
 ヒカルの表情が泣き顔に見えた。
 しかし一瞬でその面影は消え、アキラの目に映るのは厳しい双眼でアキラを睨むヒカルの姿だった。
「……何しに来たんだよ」
「キミと話しに」
「話すことなんかねぇよ」
「キミになくても、ボクには聞きたいことがたくさんある。たくさんあるが、まずはこの前の北斗杯予選」
 ヒカルはアキラから顔を逸らし、床を睨んだ。
「一体どういうつもりだ?」
「何がだよ」
「あの碁は何だと聞いている」
「何だもクソもねぇよ。俺が打った碁だ」
「あれはキミの碁ではない!」
 ヒカルの身体が強張った。肩に力を入れたままアキラを振り向いたその目に、捉えようのない哀しい色の湖が広がっている。
 ああ、まただ。アキラは嘆息した。ヒカルはまた一人で行こうとしていた。
 アキラの手の届かない場所へ、たった一人で行こうとしている。あの湖がヒカルの全てを覆ってしまえば、もう追う術はない、そんな感じがした。
 彼をこちらの世界へ連れ戻さなければ。アキラはヒカルに向かって手を伸ばした。
「進藤。キミは何を迷っている? 何を無理している? 何故あんなに乱暴な碁を打った?」
「何も……迷ってない。無理なんかしてない。乱暴に打ったんじゃねぇよ、早く終わらせたいと思ったらああなったんだ」
「嘘だ。キミは焦っている。自分の碁を見失ってもがいている」
「……」
「ボクと打て」
「!」
 ヒカルの目が揺らいだ。浮かんだ色は怖れに似ている。
 アキラは手を伸ばしたまま、ひたすらヒカルを見つめ続ける。
 この手を取れ、と。
 この手を取って、一局打てば。そうすれば自分たちは分かり合える。ヒカルが何を思いつめているのか、何故自分を避けていたのか、全て分かるような気がする。
 ヒカルは微かに震える口唇で、小さな声で呟いた。
「……打たない」
「進藤」
「お前とは、打たない」
 いつかの台詞と同じ音を聞き、アキラの体温がカッと頭に集中する。
「ボクと打て! でないとキミはいつまでもそこから出られないぞ!」
「分かったような口きくな! 俺は俺なりにやってるんだ、お前なんかに言われなくても分かってる!」
「分かっていない! キミのことは誰よりもボクが一番知ってる!」
「お前は何にも分かっちゃいねぇよ!」
 ヒカルが振り絞った声が、狭い資料室に溢れる紙に吸い込まれて消えていく。
 荒い息で肩を揺らすヒカルは、苦々しく歪めた目をアキラから逸らした。湖が隠れる。アキラは伸ばした手を下ろし、爪が食い込むほどきつく握り締めた。
「……何故、ボクと打たない……」
「……」
「ボクには……キミが必要だ」
「……」
「キミにも、ボクが」
「よせ」
 遮られた言葉に揺れた瞳は宙を彷徨い、地上に落ちる。
 口唇が、顎が、言葉をつなごうとするたびにがくがくと情けなく揺れた。アキラはそれでも顔を上げてヒカルを見る。
「何故……ボクにキスをした」
 ヒカルの肩がぴくりと動く。
「どうして、……ボクに……キスを」
 ヒカルは黙っている。沈黙は耳に痛みさえ届ける。
 やがて、ヒカルはハッと短く息を吐き出して、少し笑った。自嘲気味の笑いにアキラの頬も強張る。
「あれは……、あれはデートだ。恋人ゴッコだろ」
「キミは……ボクの気持ちを知っていてそんなことを言うのか?」
「だったらどうなんだよ」
「ボクはキミが好きだ」
 ヒカルが口唇を噛む。
「キミが好きだ。ボクはキミが」
「……もうやめろよ」
「やめない」
「塔矢!」
「ボクはキミが好きだ!」
 逸らすものか。アキラは全身を奮い立たせ、その目でヒカルを射抜かんばかりに黒い瞳を振り翳した。
「ボクはキミが好きだ、もう覚悟を決めたんだ! ボクは諦めない、キミを諦めない!」
「もうよせって! 俺なんか追っかけるなよ!」
「ボクは諦めない!」
 ヒカルは耐え切れないというように髪を掻き毟り、そのまま出口目指してアキラの横をすり抜けようとした。アキラが腕を掴む。ヒカルはその腕を強く振り解き、アキラに答えずに駆け出していく。
「進藤! ボクは……ボクは諦めないからな!」
 叫んだ声に返るものはない。
 アキラは追おうにも力の入らない脚を持て余して、情けなさに舌打ちする。
 ヒカルが好きだ。こんな形で失いたくない。理由も分からない状態のまま、ヒカルと別れたくない。
 待てと言われたらいくらでも待てる。でも待つなと言われてももう止まれない。
 ヒカルを待つ。自分以外に今のヒカルを何とかできる人間はいない、アキラは強く思い込むことで自分を奮い立たせた。
 そう、ヒカルは離れられやしないのだ。
 彼が迷いながらも碁を打つ限り、ヒカルが碁を打ち続ける限り。
 碁盤を挟んでその向かいに座るのは自分しかいないのだから。
 ――ならばボクも、打ち続けることで彼を待とう。






 ヒカルは暗い部屋で膝を抱えていた。
 涙でふやけた瞼が痛くて仕方なかった。頬から口からずぶ濡れになって、それでも涙を拭えずにひたすら膝を抱えていた。
 久しぶりに正面から見たアキラの凛とした瞳。
 ボクと打て、と言ってくれたその手を取りそうになった。

 ――何故……ボクにキスをした。

 押し殺したアキラの声を思い出す度胸が痛む。

『恋人ゴッコだろ』

 涙でぼけた視界に情けなくも震えていた自分の姿が重なって消える。
 答えは簡単だ、「キスしたかったから」。
 ヒカルは膝の間に顔を埋めて蹲る。
 キスしたかった、本当はただそれだけだ。他に理由なんて分からない。あの時アキラに凄くキスしたくなっただけだったのだ。
 恋人ごっこだなんて思っていなかった。あの日、アキラを引っ張り回して一日散々遊んで、とても楽しかったのだ。ただただ楽しくて、そうしてキスしたくなったのだ。
 でもそれを告げたら、またアキラを苦しめるような気がした。アキラと打たないと言っている自分にそんなことを言う資格はない気がした。
 打たない。……打てない。
 こんな状態ではアキラと打てない。
 今だって、頭の中で、まぼろしのアキラがヒカルと対局をしている。
「やめろよぉ……」
 アキラは大切な人だ。身代わりにしたくない。
 ヒカルの心の奥底に、閉じ込めてしまっていい人ではない。

 ――いつか塔矢の中の佐為も俺が消してみせるさ――

(アイツの中の佐為を消すどころか)
 自分の中に佐為の身代わりの「アキラ」を作り出してしまっては世話がない――
 ふと、ヒカルがベッドに投げ出していた携帯電話がゴジラのテーマを鳴らす。ヒカルは咄嗟に顔を上げた。雰囲気にそぐわないメロディーに、思わず泣き顔をくしゃりと歪める。
「はは……、キンチョー感ねぇ音楽……」
 きっと画面では、般若みたいに目を釣りあがらせたアキラの画像が光っている。
「アイツ……怒ってんだろうなあ……」
 笑いたいのに嗚咽が邪魔をする。
 やがてメロディーは途切れた。ヒカルはきつく口唇を噛み、力を込めて膝を抱き締めた。
「打ちてえ……、塔矢、」
 まぼろしなんかじゃなく、本物の塔矢アキラと。
「打ちてぇよ、塔矢……」
 でも今はまだ打てない。
 彼と向き合う自信がない。
 ごめん、塔矢。今の俺じゃダメなんだ。
 自分一人で碁石を導く方法が分からない。
 ――俺の碁が見つからないんだ、塔矢。


 俺の碁が見つからない。







ヒカルの独白になるたびに訳が分からなくなってます。
ヒカルは意外にナーバスな感じ……
どかっと落ちてひょいっと上がってくるのが
ヒカルの良いところでもあり、迷惑なところかも。
(BGM:Chaos/氷室京介)