CIELO






 初めての国際棋戦が終わった――



「ったく、アイツしょーがねぇなあ」
 ロビーへ戻ってきた倉田厚の姿を見つけ、塔矢アキラと社清春は待ちかねていたようにソファから立ち上がった。
「倉田さん」
「進藤は?」
 社とアキラの言葉がかぶる。二人は思わず顔を見合わせた。
「部屋からぜーんぜん出てこない。もうちょっといるってさ。もー俺たち先帰るよって言ってきた」
 倉田は呆れたように肩を竦め、そんな訳だから帰ろうぜと二人を促そうとする。
(進藤……)
 アキラはエレベーターの方向を振り返り、面影を探す。
 北斗杯は韓国の優勝で終わった。
 塔矢アキラ、二勝。進藤ヒカル・社清春、共に二敗。
 大健闘と称えられたとはいえ、日本の順位は最下位の訳で。
 これからちらほら舞い込んでくるだろう取材の仕事などは、辛い内容になりそうだった。

 韓国戦で高永夏に負けたヒカルは、試合後人目も憚らず涙を零した。
 決して長くはないつきあいとはいえ、それでも他の誰よりヒカルの近くにいると思っていたアキラは、声を殺して泣くヒカルを初めて見たのだ。
 ヒカルの、異常なまでの秀策へのこだわり。
 北斗杯前の合宿で見せた、不安定なヒカル。
 試合終了後の、涙の本当の理由。
 いろいろなことが絡まって、アキラを混乱させる。――聞きたい、でも聞かない。
 自分は待つと決めたのだ。
 でも……
(それと進藤が心配なのとは話が別だ!)
「倉田さん」
 アキラはすでにホテルを出ようと歩き出している倉田を呼びとめる。出口に向かっていた倉田と社は振り返り、彼らとアキラの間に随分距離があることにようやく気づいたようだ。
「すいません、ボクはもう一度進藤の様子を見てきます。彼一人では無事にチェックアウトできるかも怪しいし」
「んー、まあそれはそうだな。でも塔矢、お前明日も手合いだろ? あんまり帰り遅くなると辛いんじゃないの」
「なるべく早く帰れるようにしますよ。できれば進藤も部屋から引きずり出せるとベストですが」
 平静を装ったつもりだが、倉田は意味ありげにじっとアキラを見つめている。思わず怯みそうになるがアキラも負けない。
 倉田は勘が鋭い。何も分かっていないようで、実は何でも知っているという、その頭の奥底にしまわれた情報量はかなりのものだとか。
 アキラが考えている別のことも、実は見透かされているのではないだろうか?
「……分かった、お前に任せる。じゃあな〜」
 拍子抜けするほどあっさりした声で、倉田はひらひらアキラに手を振った後はもう振り返らず、真っ直ぐホテルを出ようとしていた。
 倉田とアキラの間で二人を交互に見ていた社は、慌てたようにもう一度アキラと倉田の背中を見て、
「……ほな俺も帰るわ。世話んなった」
「いや……」
 アキラに肩を竦めるように頭を下げ、またな、と残して社も倉田の後を追う。
 社とは、必ず再び戦う場所があるだろう。
 その時は、彼は今の荒削りな強さを自分のものにしているかもしれない。
 戦い続ける世界では、芽生えた友情と対抗心は常に隣り合わせである。友人であり、明日の対戦者でもある人々との手合いをこなしていかなければいけない。
 そう思うと、ヒカルへの気持ちはますます複雑なものになっていった。


 ロビーで一人残ったアキラは、二人の姿が完全に見えなくなったことを確認し、エレベーターへ向かう。
 時刻はすでに北斗杯終了から五時間が経過していた。ヒカルは夕食もとっていないはずなのだ。
 明日はこのホテルで、関係者を招いたパーティーが開かれる。いわゆる打ち上げ的な要素を含みつつ、つまりはお偉い方のために用意されたビジネスシーンでもある。日本勢は手合いを理由に出席を辞退したが、実は倉田の「めんどくさいじゃん」の一言が大きかったことは日本関係者だけのトップシークレットである。
 もっとも、そのおかげで確かに面倒な場所に借り出されずにすんだのだから、年若い選手たちは感謝していた。
 それなのに、この調子でヒカルが部屋に閉じこもり、そのまま一泊することになってしまったら、明日関係者に見つからないとも限らない。日本チームは全員本日中にホテルを出ると伝えてあるのだ。後々厄介なことになっては困る。
 アキラがヒカルの様子を見に行くのには、そんな理由も含まれていた。

 エレベーターを下り、先ほど自分がチェックアウトしたばかりの部屋の前を通り過ぎて、その隣の部屋の前に立つ。
 ドアの外から中の様子を伺うが、物音ひとつ聞こえない。
 軽くノックしてみるが、返事はない。音が小さすぎただろうかと、備え付けのチャイムを鳴らす。ドアの外にもピンポーンと機械的な高音が漏れてきた。
 返事はない。もう一度鳴らす。返事はなし。
 アキラはだんだん不安になってきた。
 まさか中で手首掻っ切ってるとかないだろうな。
「進藤、進藤! 開けろ!」
 遂に痺れを切らしたアキラは、どんどんドアを叩きながらチャイムを連打し続けた。両手がすばやく違う動きをしているのだから、アキラの脳はまだ退化していないのだろう。
 ものの数秒もたたないうちに、
「うるせー!」
 鍵を外す音とドアが開くのは同時に近かった。
 ドアの真ん前に立っていたアキラは、勢い良く開いたドアとそれはそれは見事なキスをして、気づけば床に仰向けに寝転がっていた。
「だ……大丈夫か」
 見下ろすヒカルの顔は明らかに引きつっている。
 アキラは無言で首を横に振った。



「お前、鼻弱すぎんじゃねぇ?」
 ヒカルの部屋は、当たり前だが隣だった自分の部屋とまったく同じ造りだった。
 デスクチェアに腰掛けたアキラは、ヒカルから受け取ったティッシュで鼻を押さえる。ティッシュが真紅に染まっていった。
「キミが確認もしないで突然ドアを開けたりするからだろう!」
「お前がアホみたいにピンポンピンポンドンドンガンガンうるせーからだよ!」
 真夜中だったらどーすんだよ、とヒカルは頬を膨らませてベッドに飛び乗った。すでにその格好はTシャツとジャージに変わっており、試合中に着ていたと思われるスーツは床に脱ぎ散らかされている。
 アキラは鼻をティッシュで押さえながら立ち上がり、苛々とヒカルの抜け殻を拾い集める。
「もう、皺くちゃじゃないか。せめてハンガーにくらいかけておいたらどうだ」
「いーよ、どうせ帰ったらすぐクリーニング出すんだから。それよりお前、鼻詰めたほうがいんじゃねぇ?」
「……結構」
 丸めたティッシュを鼻に詰めるなんてこと、ヒカルの前でできるか――すでにヒカルの目の前で二度鼻血を出しているとはいえ、アキラは最後の砦は守りたかったらしい。
 ヒカルは、お前鼻高すぎんだよ、と笑う。
 思ったより元気そうだ。アキラは少しほっとした。
 少なくとも、憎まれ口を返してくるだけの元気はある。落ち込んで、起き上がれないような状態だったらどうしようかと思っていた。
 僅か半目の差で破れた高永夏との一戦。
 試合後にヒカルが語った碁を打つ訳。
 それはあまりに漠然としすぎていて、正直ヒカル自身にさえ理解できているのか難しいものに感じたけれど、ヒカルの涙を見たらそんなことはどうでもよくなってしまった。
 あの場に誰もいなかったのなら、思わず手を伸ばしていたかもしれない脆さ。しかし、勝負に敗れた棋士に、安易な慰めは不要だとアキラの中の棋士が語る。
 負けたことを慰めたい訳じゃない。負けは負けなのだから。
 でも、「頑張ったヒカル」を慰めてあげたい、とは思う。
 北斗杯前に何か思うところがあったのか、様子がおかしいまま棋戦に挑み、破れたとはいえヒカルの評価は寧ろ上がるような内容に仕上げた。しかし自分たちは社会に出たばかりのひよっこ棋士で、急な成長に心が追いついていない。
 間違いなくこの北斗杯はヒカルにとって重要な成長の場だった。その分反動も大きく返ってくる可能性がある。
「……進藤」
「なんだよ」
 一度中に入れてしまえば追い出す気はないのか、ヒカルはベッドの上でごろごろしながらやる気のない返事をした。
「倉田さんも社もホテルを出たぞ。キミは帰らないのか」
「お前も一緒に帰ればよかったじゃん」
「進藤!」
 ごまかすな、とヒカルを睨むと、少しだけ顔を上げたヒカルがアキラの顔を見て目を逸らした。バツの悪そうな、そんな表情だった。
「……俺、一泊して帰るわ。明日の十一時までにちゃんとチェックアウトするから。フロント行けばいいんだろ? 大丈夫だよ」
「一泊? 関係者には今日帰ると伝えてある」
「黙ってれば分かんないって。見つからないように帰るしさ」
 ヒカルは目を逸らしたまま、壁を見つめて早口で話す。
 何か後ろめたいことがあるような、そんな素振り。
「……ではボクもここにいる」
 ヒカルが弾かれたように顔を上げ、アキラを振り向いた。
 ――困る。
 そんな顔だった。
(何故?)
 ボクがいてはダメなのか?
 ボクではダメなのか……?
「塔矢はダメ。帰れ」
「何故だ!?」
「何でも! 帰れ!」
「嫌だ!」
 アキラの拒否を聞き、ヒカルの身体がバネのようにはねてベッドから降りた。アキラの身体を押し出そうと、両腕を突っ張ってくる。
「か・え・れ!」
「い・や・だ!」
 アキラも負けじと押し返す。
 ――こいつ、力でボクに適うと思っているのか。……ボクより小さいくせに馬鹿力なんて生意気な。身長も肩幅もボクに足りないくせに、結構、強いじゃないか……
 力負けしそうになっていたアキラだったが、ふと顔を上げたヒカルがアキラを見て珍妙な顔をした。
 そのままくたんとヒカルの腕から力が抜け、アキラが頭に「?」マークを飛ばしまくっている前で、……ヒカルは腹を抱えて大爆笑する。
「お前……鼻拭け」
 アキラはドアの傍の壁にかけられた等身大の鏡を見た。
 赤い線が一筋、アキラの右の鼻から口唇の端へとキレイな線を引いている。
 ――道理で口の中が鉄臭いと思った……





北斗杯終了後。
ヒカルが湿っぽくなってないといいなと思ってます。
倉田さんと社、一言二言だけなのに
物凄くセリフ書きにくかった……