CIELO






 ようやく鼻血が止まったことを確認し、アキラはため息をつく。
「お前さあ、怒ってばっかいるから血管切れやすいんじゃないの?」
 気が削がれたのか、ヒカルはアキラを再び座らせ、その血が止まるまで傍で様子を見ていた。先ほどまでアキラを追い出そうとしていたのに、タイミングがずれるとどうでもよくなったのだろうか。
「もう少ししたら帰れよ」
「……嫌だ」
 また同じことの繰り返しだ。しかし一度体力を使っているせいか、派手な言い争いには発展しない。二人とも揃ってため息をつく。
「なんで帰らないんだよ」
「それはこっちの台詞だ。何故キミは帰らない?」
「……ちょっとここにいたい気分なの。」
「ボクがいてはいけないのか」
「……、……一人でいたいんだよ」
 アキラは傍らに立つヒカルを見上げた。ヒカルは深い角度で俯いて、アキラから顔を隠そうしているようだった。
「……負けを気にしているのか」
「……」
「破れたとはいえ良い内容だったとボクも思う。合宿の時のキミから比べたら別人のようだった」
「……」
「韓国も中国もキミの名前を覚えただろう。キミは充分胸を張っていい」
「違うよ」
 アキラの言葉を遮って、ヒカルはぽつりと呟いた。
「違う……」
 そしてアキラは見た。
 長い前髪の隙間から見え隠れする、ヒカルの潤んだ瞳の底。
 ゆらゆら揺れる深い湖が、またアキラからヒカルの心を奪おうとしている。
 アキラは思わず立ち上がった。ヒカルが釣られてアキラを見上げる。そのべそっかきの表情には子供らしいあどけなささえ感じるのに、瞳だけは暗くて深い湖が広がっている。
 アキラは堪らずに腕を伸ばし、ヒカルの身体を胸に包んだ。一瞬ビクリと震えたヒカルは、それでもすぐに大人しくなる。
 やがてヒカルの肩が小刻みに震え始めた。
 アキラの胸に強く顔を押し付け、声を殺して泣いている。
 アキラは腕に力を込めた。泣き声は聞かれたくないのだろう。この胸にすっぽり包んでしまえば、ヒカルは声を漏らさずに済む。
 やがて、ヒカルの両腕が弱々しく伸ばされ、おずおずとアキラの背中に回された。
 アキラは目を細めて、胸の中の温もりを確かめる。



 どのくらいそうしていたのか。
 ヒカルがスン、と鼻を鳴らしてアキラから離れた。
「……ごめん」
 ヒカルらしからぬ謝罪にアキラは驚く。
「その、ボクは、別に、キミは何も、謝ることなんて、」
「いや、これ……ごめん」
 そう言ってヒカルが指差したのは、アキラのスーツの胸辺り、涙と鼻水らしきものでどろどろに汚れている。
「……」
 とりあえず、謝罪の気持ちだけは受け取っておこうとアキラは自分に言い聞かせる。
「まったく……キミはいつも人騒がせだ」
 汚れたスーツのジャケットを脱いで、同じく被害にあったネクタイを緩める。もう帰るだけなのだ、ノーネクタイでも構わないだろう。
「だって、お前がぎゅーってするからさ」
「まさか鼻水をこすりつけられるなんて思ってないからな」
 だからごめんって、なんて軽い調子で謝るヒカルに、アキラのペースは乱されっぱなしだ。
 元気にみせかけて、やっぱりどこかおかしい。時折見せる湖の瞳はあの夜と同じだ。
 もっと頼ってほしい。縋り付いてきたら、同じ力で抱き返してやるのに。
「塔矢……」
「なんだ?」
 少し苛々しつつも、外したネクタイとジャケットを丁寧にたたんでバッグにしまおうとしていたところだった。
「キスしてくんない?」
 思いっきり引いたファスナーが、アキラの手の甲の肉を噛む。
「いっ……!」
「大丈夫か?」
「な、な、キミは、何を」
 じんじんする手を押さえて、アキラは真っ赤な顔でヒカルに詰め寄った。ヒカルもほんのり顔を赤らめて、俯きがちにベッドに腰掛ける。
「嫌なら……いいけどさ」
「いや、嫌だなんて、いや、その、」
 嫌なはずはない。寧ろこちらからお願いしたいくらいだ。
 ただ、ヒカルから言い出すなんて、びっくりしすぎて言葉がまく出てこない。
(まさか、進藤もボクのことを――)
「あのさ、……この前のキス。あれ、して」
「え?」
 間抜けな声が漏れる。
 ――この前?
「この前って……」
 ヒカルの顔が更に赤くなる。
「あ」

『進藤、キスしてもいいか』
『はぁ!?』
『変なキスはしない! 触るだけだ!』

 ……アレか?
 アキラが全身全霊を集中させて、欲望に耐え抜いた大切なキス。
 ヒカルを守るそれだけのために、自分を一切捨てたキス。
 あの大切なキスを。……大変なキスを。
「それは……」
「……ダメ?」
 正直、がっかりしたというのが本音だった。
 だってあのキスは恋愛感情を全て押し殺して、例えるなら……そう、父性みたいな感じの口付けだったのだ。つまり、ヒカルは欲しているのは、そんなアキラな訳で。
 アキラはまだうら若き十五歳。そうそう簡単に父親役には化けられない。
「アレは……その、集中力がいるというか……」
「……」
「う、うまくできるかわからないけど」
 少しでもヒカルの慰めになるなら。
「や、やってみる」
「……無理しなくてもいいけど」
「いや、やってみる」
「……なんか鼻息荒くなってんですけど」
「大丈夫」
 ベッドに腰掛けているヒカルの肩を掴む。
 この前のように、優しい気持ちになって、ヒカルを暖めてあげればいいのだ。
 大切に、大切に、ヒカルを眠らせてあげられるような……
「……」
 ヒカルの口唇。
 さっきまで泣いていたせいで、赤く滲んだ目元。
 潤んだ大きな瞳。
「……進藤」
「塔……」
(我満できるかー!)
 ぷっつり切れたアキラの糸は、忍耐だったか理性だったか。
 アキラはそのままヒカルに突進し、ベッドの上で仰向けに倒れたヒカルにのしかかった。
「おい、塔矢!」
 ヒカルの静止も聞かず、寧ろその口唇を塞ぐように、アキラは自らの口唇を深く押し当てた。
 叫んだままだったヒカルの口は大きく開いていて、アキラの侵入は容易かった。すかさず差し込んだ舌、ヒカルの濡れた口の中を端からなぞっていく。
 アキラの手は無意識にヒカルの腰をまさぐっていた。左手で自分の体重を支え、右手は必死でヒカルに触れようとする。ヒカルもアキラの身体の下から逃げ出そうとしているが、ヒカルより体格のいいアキラの下に閉じ込められていてうまくいかない。
 アキラは一度口唇を離し、それからすぐに啄ばむようなキスを何度も何度も繰り返した。愛しいヒカルの口唇。この口が大きく開いて笑うヒカルの笑顔がとても好きだ。
 ヒカルの柔らかい頬も好き。さっき泣いたせいで涙の痕が残っているが、それも全部舌で舐め取ってやる。
「塔矢、おい! これ、違うだろっ……」
 首筋は皮膚が薄くて、歯でも立てたら穴が開いてしまうんじゃないだろうか。軽く吸うだけで面白いように痕がつく。ヒカルが身を捩じらせる、そんな動きも可愛い。
 もう、何度キスしたって足りない。
 何度も、何度でも、その口唇を自分の口唇で塞いでしまって、お互いの口唇が擦り切れてしまってもいいほど――
(?)
 ふと、アキラの首にヒカルの腕が回る。
 ちゅっと音を立てて離れた口唇を、ヒカルが一瞬吸い返してきたように感じた。
 アキラはもう一度ヒカルに深く口付ける。探った舌の先を、ヒカルの舌が優しく撫で返してきた。
 ――ヒカルが応えてくれた。
「……進藤!」
 アキラの手がもどかしくヒカルの服を脱がそうとする。ヒカルは手こそ貸さないが、抵抗しようとはしない。
 ヒカルが受け入れてくれた? アキラの想いを、アキラの欲望を。
 アキラに身を任せてくれてもいいと、そう思ってくれた?

 ――ならば何故、その目は変わらず湖のままで。

 アキラの手が止まる。
 ヒカルが不審に思ったのか、頭を少し持ち上げた。
「塔矢……?」
 アキラはそっと身体を起こし、めくりかけていたヒカルのTシャツを下ろした。
「塔矢?」
「すまない」
 ヒカルの腕を引き、身体を起こさせる。乱れていた彼の前髪をちょいちょいと指で整え、そのきょとんとした顔を両手で包む。
「ボクは……無理強いはしたくない」
「……こんだけやっといて、よく言う……」
「た、確かに! ちょっと暴走して申し訳なかった! でも、」
 身体だけつながったって、虚しさは募るばかり。
 アキラはヒカルの頬から手を離して、その目を正面から見つめ返した。
「キミがその気になるまで、待つから」
 ヒカルが目を丸くして、それから耳まで赤くなった。
「お、俺がその気になんなかったらどうすんだよ」
「だから、なるまで待つよ。キミはボクを嫌いではないようだから」
「自惚れ屋」
 アキラは思わず笑った。ヒカルも釣られて笑う。
 ベッドの上で向かい合って座り、二人は笑い合った。
 さっきまで絡み合っていたベッドの上で。
(進藤が好きだ)
 この笑顔が好きだ。
 彼をもっと愛したい。
(でもボクの独りよがりじゃ意味がない)
 できれば愛し合いたい。でも、それが無理ならせめて分かり合いたい。
 せめて、あのゆらゆら揺れる湖が見えなくなるまで。
「塔矢……ありがとな」
「え?」
「今日、迎えにきてくれて」
 ヒカルは静かに微笑んで、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「俺、負けてカーッってなってから、いろんな人に迷惑かけちゃった。お前来てくれたから、なんかいろいろ吹っ切れたし」
「進藤、じゃあ」
「でも、塔矢はもう帰って。」
 アキラの身体が凍る。
「お願いだから、今夜だけは一人でいさせて。俺、一人でちょっと考えたいことあるんだ……。約束するから。朝になったら、誰にも見つからないうちに帰るから。今夜だけ。俺、ここからどこにも行かないから」
 懇願するようにアキラを見上げ、まるで縋るような目を向けてくる。
 その目には、アキラへの拒絶も何もなかった。
 ただ、一人になりたいという強い願いだけ。
「……」
 アキラも根負けする。
「分かった。……帰るよ。」
「ごめんな」
「いいよ。キミに振り回されるのは慣れてる」
 ヒカルはまた少し笑った。
「その代わり! 明日の朝一番でキミの家に電話するからな。帰ってなかったら、また乗り込むぞ」
「はーい、分かりました」
「本当に分かったのか!?」
 ヒカルはそうしてまた湖の瞳を隠してしまった。
 アキラはそれから数分ヒカルといつもの言い争いをして、少しだけ名残惜しげに部屋を後した。
 閉じられた扉の向こう、ヒカルは一人きりで何かをじっと抱え込んでいる。
「……待つよ」
 呟きは誰にも届かないけれど、アキラは静かに、そしてきっぱりと告げた。
 そのうち、待つのも慣れっこになってしまうのかな――
(そういえば)
 アキラはそっと自分の口唇に触れてみる。
(もう、しばらく進藤の夢を見ていない)
 口唇は、熱かった。








 ――ちょっと、さっきはヤバかった。
 シャツ一枚の塔矢の肌は熱いくらいで、俺の好きなあのニオイに抱き竦められて、メチャクチャにキスされて……
 なんだかどうでもよくなっちゃった。塔矢、よくあそこで止められたなあ。って、俺のほうがヤバいってそれこそヤバくない?
(塔矢、ごめん)
 でも、今日だけは、今夜だけは一人でいたかった。
 本当は勝ってこの夜を迎えたかったけど。
 俺はまだまだ強くなるから、俺一人で今日のけじめをつけさせて。
「……もう泣かないって決めたのにな……」
 あれは一年前の今日。
 よく晴れた日だった。
 そう、今日は、アイツが――






 カーテンを開くと、夜空に浮かぶ爪痕のような三日月がぼんやり輝いている。
 夜が晴れるまで、ヒカルは静かに月を眺めていた。






5/5のヒカルはちょっと変。
アキラさん血の気多いですね。
ヒカルは明日からまた頑張ります。
(BGM:CIELO/河村隆一)