「ういーす」 「おー、来たか〜!」 お世辞にも綺麗とは言えない、年季の入ったアパートの扉をノックすると、三月に開催された、北斗杯出場権を賭けた予選以来の再会になる和谷がひょっこり顔を出した。 社は見知った顔に緊張を和らげ、右手を軽く上げて挨拶をする。 「お疲れさん。入れよ、まだ全員揃ってないけど」 「上がらせてもらうわ。荷物多いけどええか?」 和谷に先導されるがまま狭い玄関に入ると、ワンルームの室内は隅々まであっさり見渡せる。覚えのある畳の部屋。去年とほとんど変わらない、相変わらず必要最低限のものすらあるかどうか微妙な部屋だ。 現れた社を見て、すでに到着していた伊角と越智が碁盤から顔を上げた。 「よお、社。久しぶりだな」 伊角の穏やかな笑顔に、社も頭を下げた。 越智は軽く頭を下げるだけで特に言葉をかけてくるようなことはなかった。必要以上の馴れ合いを嫌うくせに、こういう機会にしっかり顔を出す越智が微笑ましく、社にとっては有難くもあった。 靴を脱いで部屋の端に荷物を下ろすと、すでに男三人が占拠する和谷の狭い部屋は圧迫感でいっぱいになる。 「まだ来てないのは?」 伊角の問いに、和谷は社の分のウーロン茶をペットボトルから紙コップに移しながら答える。 「門脇さんと冴木さん。本田さんは今日は来れないって」 「あと二人も来るのか。さすがに鮨詰めだな」 苦笑する伊角に、社も笑って肩を竦めた。 それなりに体格の良い青年が六人も集まれば、さぞや暑苦しくなるだろう。 「いよいよ明日からだな。頑張れよ、俺らもまた見に行くからさ」 「おう、任せとき」 和谷の笑顔に、社は頷いて口唇を引き締めた。 三度目の北斗杯。ここにいる和谷や越智らを予選で振り落とし、社は代表選手に選ばれている。 彼らをがっかりさせないためにも、全力を尽くさなければならない。社は密かに拳を握り締めた。 伊角が社の座る位置を確保するため、小さなテーブルを退かしながら和谷を振り返った。 「どうする? 先に始めてるか?」 すでに部屋には足つき一台と折り畳みが二台、碁盤が用意されている。去年同様、この合宿のためにわざわざ折り畳みの碁盤をどこからか調達していてくれたのだろう。和谷のさりげない気遣いに社の顔が綻んだ。 「そうだなあ。社、塔矢んとこでどんな合宿やってた?」 和谷が社に紙コップを差し出しながら尋ねる。社はコップを受け取って、中身を一口含んでから口を開いた。 「そらもーきつかったで。一昨日の夜塔矢ん家着いて、そっから休む間もなくずっと一手十秒の早碁や。何時くらいに始めたんやったかな……八時くらいかな? 三人でよれよれんなるまで打って、次の日の昼前に一旦休憩とったな」 「十五、六時間ってとこか。凄いな」 伊角が呆れたように笑った。 「その後倉田さんが来て、飯食って……その後は持ち時間三時間で普通に打って、検討して、早めにお開きにしたな。今日は棋譜研究がメインやったから、対局はほとんどしとらんけど」 「へえ、じゃああいつら今は何やってんだ?」 和谷の指す「あいつら」とは、当然ヒカルとアキラのことである。 社はちらりと目線を和谷から逸らし、さりげなさを装って答えた。 「明日に備えてゆっくり休んどるやろ。あいつらは俺と違って余裕あるさかい」 そんなことを告げながら、社はぼんやりと和谷宅に来るまでの塔矢邸の様子を思い起こしていた。 二年ぶりの塔矢邸に訪れた時、すでにヒカルは随分前に到着していたようで、アキラと一局打っている最中だった。 ヒカルもアキラも、ごく普通に社を出迎えてくれた。しかし、予選以来、改めて顔を合わせた二人の間に流れる二年前とも一年前とも違う不思議な雰囲気を、社が敏感に感じとるのに時間はさほどかからなかった。 ヒカルは一昨年のように理由の分からない焦りを感じていたり、去年のように自分を見失っているような様子はなかったが、それでも気負いはあったのだろう、勝ちに執着しすぎて少し硬くなっているような気がした。 そんなヒカルを、あからさまではないにしろ、アキラがごく自然にフォローしていたように見える。 他の人間なら、あの仕草があまりにさりげなくて気づくことはないだろう。二人はずっと「こう」なのだと思わせてしまうようなごくごく自然な振る舞い。この三年、彼らの変化を見守ってきた社だからこそ分かる、独特の空気だった。 ヒカルもまた無意識にアキラの支えを必要としているようだったが、社に遠慮してだろうか、逆に意識的にアキラと距離を置こうとしているフシがあった。 そのせいか、一手一手は鋭いのに、どこか気持ちが硬い。勝ちたいという意志の強さは伝わるが、それがネックになって少し落ち着かない様子だった。 (アイツ、そーゆーとこが不器用やねんな) アキラがヒカルに用意しているものは、馴れ合いという惰性ではない。 ヒカルを受け止めてまだ余裕のあるアキラに、素直に甘えておけばいいのだ、と社は思う。 今回の和谷宅での合宿は元々予定していたが、ギリギリまで二人に告げなかったのはそういう理由からだった。 三日目に抜けると事前に伝えておけば、ヒカルのことだから、自分もついて行くと言い出しかねないだろう。 このメンバーでの合宿であれば、恐らくアキラはついて来ると言うまい。今のヒカルをアキラと離すのは、二人のためにも良くないような気がした。 寧ろ、二人だけにさせたほうが空回っていた歯車がしっかり噛み合うような気がする。 いつの間にか、社が知らないうちに、二人の間に頑丈な絆ができていたのだ。 去年のヒカルの酷い状況を見ていただけに、彼らの穏やかな変化は社にとって感慨深いものがあった。 (よくもまあ、あの厄介な男をあそこまで惚れさせてるもんや) ライバルとしても、恋愛の対象としても。 社が消えた今頃、ヒカルが素直にアキラを頼るかは分からないが、それでも気兼ねなく静かな時間を過ごすことはできているだろう。 今年のヒカルの強さは確かだった。王座戦トーナメントの倉田との一戦で見たような戦慄の打ち回しではなく、社がよく知るヒカルの「ヒカルらしい」石の運び。今までと同じようでいて、読みの深さはずば抜けている。打ち筋を見切ったと社が一手をやり返すと、想像しなかった場所から反撃を加えて来る。その判断は早く、鋭い。 後は、心に余裕と落ち着きを取り戻せば、高永夏にだって負けはしないのでは、と贔屓目なしにそう思う。 そして、それらを取り戻させるのは、他の誰でもないアキラの役目なのだと、アキラ本人も自覚しているに違いないのだ。 (俺はお前らと違って余裕ないねん、か……) 社は自分の台詞を思い出して苦笑いを浮かべる。 全くその通りだ。あれだけの力をつけたヒカルの不安定さを、支えてなお余裕のあるアキラ。悔しいが、あの二人に今年も力が及んでいない。 塔矢邸での二日間の合宿は、社にとっていい気合い入れになった。後は、少しでも多くの碁のパターンに慣れておきたい。そういう意味でも、和谷宅の合宿は良い環境だった。 「余裕ある、か……。ボヤボヤしてたら、水が空くばかりだな」 伊角がため息混じりに呟くと、和谷も静かに笑って頷いた。 「ホント、差ぁつけられてるぜ。進藤、王座戦は落としたけど、棋聖戦と十段戦はいいとこまで行ってるもんな」 「あの調子なら来月にも四段に昇段できるだろうな」 「……塔矢も先月六段に昇段してるしね」 和谷、伊角、越智がそれぞれに口を開き、室内にはにわかに重い空気が漂った。 社が慌ててフォローを入れる。 「せやけど、まだまだや! 確かにあいつらは今は頭ひとつ飛び出てるかもしれんけど、いつまでものうのうとさせておけるかい! すぐ追い付いたる!」 「そ、そうだよな。俺たちだってまだまだこれからだよな!」 和谷が拳を握り、伊角もうんうんと首を振った。越智だけはやや冷めた目で三人を見据えていたが、物言わぬ決意は胸に秘めているようだった。 「じゃあ、のんびりしてないで始めるか! あいつらが十秒碁ならこっちだって十秒碁だ!」 和谷がじゃーんと効果音つきで全員の前に差し出したもの、それは手製のリーグ表だった。 「和谷、マメやなあ」 「暇だね」 越智の一言にむっとしながらも、和谷はリーグ表を小さなテーブルの上にどんと広げて準備万端である。 それでは合宿二回戦と行きますか、と社が腕をまくった瞬間、こんこんと薄っぺらいドアをノックする音が聞こえてきた。 和谷が立ち上がって、さほど歩かなくても到着する玄関のドアを開くと、ガサガサとビニール袋の音と共に「よーう」と軽い声が聞こえてきた。 「門脇さん、冴木さん」 「やってるか〜? 遅くなって悪かったな」 門脇も冴木も、傍のコンビニで調達したらしい飲み物と菓子をぶら下げている。 「門脇さん、酒ばっかじゃん」 和谷がビニール袋の中を覗き見て、呆れた声を出した。 「あ? 和谷はまだ未成年だったか? まあ、俺も冴木くんも伊角もこれがないと始まらないからなあ」 門脇は後ろにいる冴木を振り返って同意を求めるが、冴木は苦笑するばかりだった。同じく、名前を出された伊角も微かに引き攣った笑いを浮かべている。 「でもまあ、とりあえず全員揃ったし、改めて北斗杯前夜祭と行きますか!」 全員が強く頷き、碁盤を睨んだ瞬間、 「ちょっと待った」 門脇がにゅっと手を突き出し、ストップの合図をした。 全員が門脇を振り向き、不思議そうな、不審そうな目を向ける。 門脇はにやりと笑って、わざとらしいウインクをしてみせた。 「せっかく面白い面子が揃ってるんだ。どうせなら、罰ゲームつきでやらないか? そのほうが燃えるだろ」 「罰ゲーム〜?」 門脇以外の五人の声がぴったり揃った。 ある者は純粋に驚いた表情で、ある者は興味津々に、ある者は心底嫌そうに、銘々の思いが複雑に絡まったハーモニー。美しくもなんともない、不協和音をものともせず、門脇はいいアイディアだと言わんばかりに満足げな表情を浮かべている。 「そうだ。例えば……そうだな、負けたやつは俺の質問に何でも答える! どうだ!」 「俺の質問って、なんで門脇さんが質問するんすか?」 和谷がぽかんと口を開けると、門脇は当然だとばかりに胸を張る。 「当たり前だ、年功序列だぜ。よーし、そうと決まったら始めっ!」 誰も同意を示していないのだが、門脇の強引な合図で和谷のリーグ表通りの対局は開始を余儀なくされた。 まあ、そのうち門脇にはアルコールが入るだろうから、きっとくだらない罰ゲームの話なんて途中で消えてしまうだろう……誰もがそんなふうに事態を楽観していたのだが。 そうそう甘いもんじゃないと、思い知るまでにそれほど時間はかからないのだった。 |
最初に断りますがひどい話になりました。
青少年の純粋な合宿風景を期待されていたらごめんなさい。平謝り。