冴木に破れて頭を落とす和谷に、第一の悲劇が降りかかった。 「よ〜し和谷、お前の初オナニーは何歳だかお兄さんに言ってごらん」 「は……!? し、質問ってソッチ系!?」 にやりと目を細めた門脇に詰め寄られ、和谷が青くなって後退る。助けを求めるように視線を向けた社も、冴木も、伊角も慌てて和谷から顔を逸らし、越智は黙々と碁盤に集中し、端から二人を相手にしていない。 すでに二本目の缶ビールを空けている門脇は、まだまだ宵の口というのにすでに酔っ払いであるらしい。触らぬ神に祟りなし――そんな言葉が全員の頭を巡っていた。要するに、負けた和谷が悪いのだ。 「言うよな、和谷。負けたんだもんな〜。」 「うう……ぐぐ……」 和谷は青かった顔を真っ赤に染めて、ぎりぎりと歯を食いしばっている。 (さすが門脇さん、コツを知っとるなあ) 社は和谷に同情しながらも、門脇の絶妙なポイント攻撃に感心していた。 恐らく社のようなキャラにあの質問をしても、関西ノリでさらりと白状してしまって面白くはないだろう。それが、普段元気いっぱいだが色恋ごとになるとちょっと奥手になる和谷のようなタイプに、こういった「自分一人の秘め事」を暴露させようなんて、えげつなくて悪趣味で、ほんのちょっと興味をそそられる。 恐らく、和谷のような少年以上青年未満な健全な男には、こういった話は「俺たちだけの秘密だからな!」なんて言って親友にしか話さないパターンが常だろう。それを皆の前で喋らせようとは、和谷にとっては酷く屈辱的で耐え難いに違いない。 「和谷く〜ん、男らしくないぞお〜」 その言葉に、和谷がキッと鋭い目で門脇を睨む。この攻撃も効果的だ――社は門脇の巧みなテクニックに目を瞠った。 和谷のような気のいい正義感タイプは、「男らしさ」に弱い。よく考えたら別に男らしさなど関係ない質問なのだが、羞恥で頭に血が昇っている和谷にはそんなことまで分かるまい。 門脇の一言に観念したのか、和谷は消え入りそうな小さな声で、 「……中二の夏」 と呟いた。 (和谷……何も季節まで言わなくても) 社が眩しいものを見るように、目を細めて赤く小さくなった和谷を見つめていると、伊角も冴木も同じような儚げな目で和谷に微笑みかけていた。 ああ、この二人にとって和谷はいつまでも可愛い弟分なんだろうな……社は少し胸が切なくなった。 全員が生暖かく和谷を見守る中、門脇だけがハイテンションでビール片手に和谷の肩をばんばん叩いている。 「おーし、よく言った! 次は負けんなよ!」 和谷は口唇を噛み締めてぶるぶると震え、門脇の傍らに積んであったビールに手を伸ばした。プルタブを引き、自棄酒とばかりに勢いよく喉にビールを流し込む和谷に、伊角がおろおろと手を伸ばす。 「伊角さん、集中してないと……知らないよ」 伊角の対局相手である越智が、隙を突いた一手で伊角の地に大きく割り込んできた。伊角がはっとして盤面に目を瞠り、立て直しを図るが、追い上げ適わず越智に急所を押さえられてしまった。 がっくりと投了を告げる伊角の肩を、門脇ががっしりと掴む。 「い〜すみ〜、お前には初エッチはいつかを聞かせてもらおうか〜」 「か、門脇さん……、そ、そんなの聞いても面白くないでしょう……」 伊角が額に汗を滲ませた笑顔でやり過ごそうとするが、門脇は掴んだ獲物を逃がさないといった様子で詰め寄ってくる。 (やりよるわ。伊角さんにその質問とは) 社は門脇のピンポイント攻撃にうっかり唸ってしまう。 伊角の羞恥はともかく、単純に自分達が伊角の性体験に興味アリ、なのである。いつも穏やかで優しげで、結構いい男のくせにちょっとドン臭そうで、あまり女性の影が見えない伊角は果たしていつ大人になったのだろうか? 聞いてみたい。本人の口から真実を聞いてみたい。 社がちらりと周囲を確認すると、やはり和谷や冴木、おまけに越智までもが伊角の答えに注目している素振りを見せている。越智など、目だけは終局後の碁盤を睨んでいるが、耳がやけに伊角のほうに照準を合わせていて、越智らしからぬにじり寄りを見せていた。 伊角は先ほどの和谷以上に真っ赤に顔を染め、それでも場の雰囲気を壊さないように気遣いを見せてくれたのか、頭をぽりぽりと掻いてため息をついた後に、 「……高二の時、だったかな……」 語尾をぼやかしながら、ぼそりと呟いた。 「えええ〜! 伊角さん、童貞じゃないの!?」 和谷が明らかにショックを受けた表情で伊角に掴みかかった。その赤ら顔を見るに、たった今飲んだばかりのビールがすでに体内に影響を与えているらしい。 「いや、はは、まあ、その」 ぱたぱたと手を団扇代わりに扇ぎながら、伊角は和谷から目を逸らして明後日の方向を向く。 「高二ったら妥当な線だよなあ。冴木くんは?」 さりげなく矛先を冴木に変えた門脇に、冴木はえっと小さく驚いて、「十六ん時かな」と零してしまった。それから冴木ははっと口を押さえ、非難の眼差しを門脇に向ける。 「おいおい、俺負けてないっすよ」 「ははは、まあいいだろ、冴木くんはこういう話平気だろうから」 門脇は笑ってごまかして、未だに伊角を驚愕の表情で見上げている和谷の頭をぽんと叩いた。 「和谷、お前の反応って自分が童貞ですって暴露してるようなもんだぞ」 「ううっ……! い、伊角さんは仲間だと思ってたのにっ……!」 項垂れる和谷の背を伊角が申し訳なさそうにさすっている。 門脇が呆れたようにため息をつき、ふいに全員をぐるりと見渡し、「童貞じゃないやつ挙手〜」と号令をかけた。 思わず手を挙げた社と冴木だったが、見得も張れず、かといって開き直ることもできない越智がはっとして口唇を噛む。 「門脇さん、あんまりだ! これじゃ罰ゲームじゃなくてただの暴露大会だろっ!」 和谷は半泣きで門脇に食ってかかった。和谷もこの時ばかりは唯一の仲間、越智に同情したらしい。 越智は俯いてぶるぶると微かに震えている。何故負けてもいないのにこんな仕打ちを受けなければならないのか、そろそろこの合宿に参加したことを後悔し始めている頃かもしれない。 「まあまあ、そんな気にするなよ。お前らくらいの年ならチェリーでも恥ずかしくないって」 門脇は軽い調子でへらへらと笑うが、青少年のいたいけな心は深く傷ついたようだった。 「なんだよ、きっと進藤だって童貞だぞ! アイツずっと彼女いないし!」 悔し紛れに和谷が出した名前は、社の心臓を不意打ちで縮ませた。 「そんなこと言ったら、塔矢だってそうじゃないか? アイツは碁しか興味ないって顔してるからなあ」 冴木の追い討ちに、社の胸がぎくぎくと奇妙な音を立て続ける。 「い〜や、分からんぞ。進藤はここ数年でかなり大人っぽくなったからなあ、案外知らないところで男になってるかもしれないぜ。年上のお姉さんに手ほどきされてそうなタイプだよなあ。なんか押しに弱そうっつうか、相手の猛プッシュに負けてぱっくり食べられちゃうっつうか。初めてなの〜? 可愛がってあげるわ〜、入れてもいいのよ〜なんてなあ」 身体をくねらせる門脇の発言は社を危うく吹き出させるところだったが、他のメンバーは胡散臭そうな目で門脇を遠巻きに見るばかりだった。 「門脇さん、その発言超オッサン臭いぜ……」 「セクハラだよね……」 童貞二人組みの非難を浴び、それでもめげない門脇は言葉を続けた。 「それに塔矢、アイツはああ見えて結構ムッツリっぽいぞ。あーゆー澄ましたヤツが意外にしつこいエッチしたりするんだ。ねっとりしててなかなかイかなくて、タチ悪いのなんのって」 ――見たのかよ! 全員の無言のツッコミに対し、社だけは違う叫びを心の中で叫んでいた。 ――惜しい! 確かにヒカルがぱっくり食べられて大人になっているのは事実だが、あのままだと彼は一生童貞なのではないだろうか――社は恐らく今でもアキラに逆らい切れずに大人しく下になっているだろうヒカルを不憫に思った。まあ、それでも本人があれだけ幸せそうならとやかく言う筋合いはないが。 そして、アキラがムッツリでしつこそうなのは当たっているような気がするが、そりゃもうここにいる全員がビックリするくらいの超がつく早漏なのだ。二分の壁で真剣に悩むような男なのだ。更に時間を引き延ばすべく、兄弟子の裸エプロンを本気で想像するような男なのだ。 アキラとの恐怖のレッスンからすでに何ヶ月も経過しているが、未だにおかっぱの妖怪に足を掴まれる夢を見ることがある。社にとって、あの夜は今後も引き摺るであろうトラウマとしか言い様がなかった。 (……アイツ、ちょっとは長もちするようになったんやろか……) 自分の心身の犠牲が、決して無駄にはなっていないと思いたい。 北斗杯が終わった後にでも、ヒカルにこっそり探りを入れてみようか……なんてことを社がぶつぶつ呟きながら考えていると、門脇を無視して再び対局を始めた越智と和谷に決着が着いたようだった。 ビールのガソリンが効いたのか、先ほどの屈辱をバネにしたのか、和谷が一方的な展開で越智から中押しを奪い取った。越智が愕然と碁盤を見下ろし、震えながら小さな声で「負けました……」と呟く。 「はいはいはーい、次は越智かあ〜!」 どんな小さな呟きも聞き逃さない門脇が、越智の元へとすっ飛んでいった。 さっきから門脇が脱線してばかりなので、その対局相手である社はその都度中断させられて盤面は全然進んでいない。一体誰のための合宿なんだろうかと、遠い目をしてみたくなる。 越智は敗北の悔しさか、それとも和谷と共に童貞認定されたことを引き摺っているのか、門脇から顔を逸らしてその眉間に深く皺を刻んでいる。やたら楽し気な門脇が今度は何を言い出すのかと、社を始め全員が固唾を飲んで見守る中、門脇はおもむろに口を開いた。 「そうだなあ、越智は……剥けた年でも教えてもらおうか」 その言葉に、越智の表情が、全身が、ビシイと音を立てて氷像と化した。 狭い和谷宅に吹き荒れるブリザード。あまりに寒いその空気に、その場にいる全員が、うっかりな質問をしてしまった門脇さえも、越智の無言の嘆きを悟ってしまった。 (越智……、お前、まだ……) 和谷は涙ぐみ、もう見ていられないと越智から目を逸らす。 (悪かった……今のは俺が本当に悪かった……) 門脇ですら反省の色を見せ、神妙な顔を地に落とした。 (越智、仮性ならあんまり気にすることはないさ……) 冴木のささやかなフォローは心の中でのみ呟かれたため、何の助けにもなっていない。 (手術する時は相談に乗るぞ……越智……) 伊角はどこかズレていた。 (哀れや、越智……! 任せとき、お前の仇は俺が……!) 社は黒石を手に取り、対局中の自分の碁盤にばしっと叩き付けた。 「ここやあー!」 「あっ!」 門脇が慌てて碁盤に戻るが、社の一手は白の行き場を奪って完全に黒の地を独立させていた。 門脇は苦渋の表情を浮かべ、ぐ、と口唇を噛み、「負けました……」と低い声を絞り出した。 「よっしゃあ、越智! 門脇さんになんか言ったれ! お前の好きなこと聞いたれ!」 社がびしっと越智を指差し、そして門脇を指差す。 越智は暗い表情のまま何やら呻き声を漏らしていたが、やがてきっと顔を上げ、門脇のおかわり用に用意されていた缶ビールに手を伸ばす。全員が呆気に取られる中、迷いなく缶を開けてぐーっと黄金色の液体を喉の奥に流し込んだ越智は、ぷはっと袖で口を拭い、きっぱりと口唇を開いた。 「……若い女性に言われて今までで一番ショックを受けた言葉は!?」 その質問にぐあっと叫んだ門脇は、ぶるぶると口唇を震わせて頭を抱えこみ、何やら思い出した様子で苦悩のポーズをとっている。 社がぽかんとしていると、伊角がやれやれという表情でため息をつき、首を軽く横に振って説明を始めた。 「この前、棋院の外で女の子がたむろしててさ。その時、門脇さんと冴木さんと俺が一緒だったんだけど……」 その続きを冴木が引き受ける。 「どうやら俺たちの出待ちしてたコたちだったらしくて、話し掛けてきたんだ。で、門脇さんが何何って一番に顔出したら……」 「「やだ〜、キモイオッサンは引っ込んでてよ〜って……」」 最後のハモりはなるべく門脇に聞こえないように、こっそりと囁いたつもりの二人だったが、門脇の傷付いた胸にはしっかりと刺さっていたようだった。 「しかも、同じようなことが二、三回あったらしいぜ」 和谷がぼそりと社に耳打ちする。 「おかげで棋院中に広まっちゃってさあ、門脇さんがキモイオッサン呼ばわりされたって」 床に蹲るように悶絶する門脇を冷めた目で見下ろした越智は、勝ち誇った表情を浮かべていた。 本人、まだまだ若いつもりだったからさ……門脇を囲む日本棋院所属の棋士たちが、小さくなって震えるキモイオッサンを哀れみの目で見つめている。 「おまけに「どいてよ鼻!」とか言われてたよな……」 「不審人物とか言って警備の人呼ばれちゃったし……」 「最後には痴漢扱いだったらしいし……」 「日頃の行いが悪いからだよね……」 もう三十路だってのに。だから彼女もできないんじゃないか。慣れ慣れしさがキモイのかな。 さり気なく傷口を抉る四人の発言に、どんどん小さくなる門脇を遠巻きに眺め、社は恐ろしく暗い光景に身震いした。 門脇はしばし立ち直れずに床の置き物と化していたが、やがて憤怒の表情で起き上がり、拳を握って叫んだ。 「お前らあ〜! こうなったら碁で勝負だ!!」 「そのための合宿だろうが〜!」 それから怒濤のリーグ戦が再開され、罰ゲームとは名ばかりの傷の抉りあいを重ね、六人は朝方まで碁石とアルコールと罵倒にまみれて碁盤に向かい続けた。 社が短い睡眠時間を経て酒浸しの中目を覚ましたのは、レセプションの僅か二時間前である。 |
「和谷宅での合宿を見てみたい」という有り難いコメントをいただきまして、
嬉しくていっちょ書いてみるかと書いてはみたんですけど。
絶対、こんな展開を期待されていたんじゃないよな……と酷く心苦しいです。
オチもいまいち弱いし。冴木→門脇の言葉遣いが微妙だし(年上だからなあ)
なんかつまんない話でごめんなさい……
そして、私がここのコメントを長く書く時は、
大抵何かが気に食わなくてそれをごまかしたい時です。
(BGM:CIRCUS/布袋寅泰)