Confession







 戦いから一夜明けて。

 大人たちがひしめき合うパーティー会場の中、本来主役であったはずの青年たちは端で小さくなっていた。
 気持ち程度に皿に盛った料理をもそもそと口に運び、社は気まずそうに忙しない会場の様子を眺めている。
 北斗杯三位の中国勢は昨日のうちに全員帰国し、優勝した韓国勢にも高永夏の姿が見えない。恐らく昨夜塔矢アキラに敗れた一戦が影響しているのだろうと人々は噂したが、真偽のほどは分からない。
 そんな訳で、選手三名が全員パーティーに参加している国は第二位の日本ただひとつだった。しかし、社にとってこのパーティーはせいぜい「窮屈に食事する場所」程度のものであり、時折話しかけてくる顔も知らない偉そうな大人たちに、ぶっきらぼうに頭を下げる以外はひたすら食べることしか仕事がないことも分かっていた。要するに、自分たちはおまけなのである。
 本日の主役は塔矢アキラだった。
 激戦の末高永夏を破り、去年同様二勝を守った。世界に名を馳せる塔矢行洋の一人息子。碁石を持てばその眼差しに青い炎が灯るが、碁盤から離れた後の物腰の柔らかさは非常に大人受けが良く、彼は常に人々に取り囲まれている状態だった。
 そんな中、社は先ほどからずっと背中に嫌な汗をかいている。
(物腰柔らかやなかったんか……)
 強烈な視線が、人々の隙間を擦り抜けて何度となく社を突き刺していた。
 大人たちに見せる笑顔は完璧であるのに、そのちょっとしたスキに酷く殺意のこもった目を投げかけてくる。
 他でもない、塔矢アキラの目だった。
 その理由も分かっていた。
 パーティー開始直後から、腰巾着のように自分から離れない男のせいだ。
(あれほど、昨日、塔矢と話すって、言ったやろが……!)
 社のこめかみがピクピクと引き攣れる。
 いざ本人を前にするとさすがに怯んだのか、アキラを避けるように、まるで社を壁にするかのごとくその背中に隠れている進藤ヒカル。彼もまた、手持ち無沙汰に皿の上の料理を突付いているだけである。その表情は限りなく重い。
 昨日、屈辱的とも言える一戦で大敗したヒカルに、進んで声をかけようとする者も少なかった。ヒカルの碁がひどく荒れていたのは少し碁の知識がある人間なら明らかだった。なるべく触らないよう、空気がヒカルをやんわり避けているふしがある。
 そのため、ヒカルが一方的にくっついている社にも、自然とかかる声は減っていった。そして余計に二人は孤立する。それは構わないが、取り囲まれて動けないアキラにはそれが気に食わないようだ。
 ――何故ヒカルが社の傍にいる。アキラの目の圧力はとばっちりの社に詰問する。
 勘弁してくれ、と社は天を仰ぐ。
 部外者だったらどんなに面白い光景だっただろう。アキラは誰かに昨日の勝利を称えられたのか、穏やかな笑顔で頭を下げた。その頭が上がりきる寸前、ぎろりと社に向けられた白目の血走り方は半端ではない。顔を上げ切ってしまえば、元通りの笑顔を貼り付けている。お前はミルク飲み人形かい、と社は心の中で突っ込んだ。
 しかしその気持ちも分からないではない。アキラは昨夜結局ヒカルを捕まえられず、やきもきして夜を過ごしたはずなのだ。それはこの一件に完全に関わってしまった社もよく知っている。
 ヒカルは一晩で頭を落ち着かせ、今日アキラと話し合うと言った。恐らくヒカルも相当考えたのだろう、目の下にはっきりクマを作って覇気のない顔色は寝不足の証拠だ。
 しかしパーティー開始一番で自分のところに逃げ込んでくるとは何事だ。
 覚悟を決めたのではなかったのか。誓うと言った自らの言葉を忘れたのか。そしてどうして自分がこんなにアキラに睨まれなければならないのか。
「進藤、お前塔矢と話すんやなかったんかい」
 言葉の端々に怒りをこめて、背中に隠れる男に小声で囁く。
 ヒカルは何かごにょごにょと言い訳している。あまりに声が小さすぎてよくわからない。社は振り返り、やや荒っぽい声を出した。どうせ誰も聞いていまい。
「コソコソ隠れとったって仕方ないやろ。ガツンといったれ、ガツンと」
 正面切って社に凄まれ、ヒカルは亀のように首を竦める。
「だって……、塔矢の周り人いっぱいだし。俺が行ける雰囲気じゃないし……」
「アホ! 蹴散らしてこい、さっさと行かんとお前の頼りない決心がますます鈍るやないか!」
「無理だろ、あんだけ囲まれてるんだぜ。俺が行ったら空気壊すだろうし……」
 ――だー、苛々する!
 社はがしがしと髪を掻き毟りたい気持ちを抑えた。
 空気壊すくらい何だと怒鳴ってやりたい。ここで思い切らないと、これからも何かと理由をつけて前に進めないのではないか。何より、この状況が長く続けば自分がアキラに抹殺されてしまう。
 社は数秒考え、仕方ない、もう少し背中を押してやろうとため息をついた。後できっちり見返りを要求しよう。

「……世話のやけるやっちゃ」
 社はヒカルに聞こえるか聞こえないかくらいの声でそう呟いた。
 ヒカルが聞き返す間もなく、社はヒカルの手からほとんど料理のカスくらいしか残っていない皿を奪い取って、自分の皿も重ねて適当なテーブルに置く。
 ヒカルが呆気にとられている中、ぐっとヒカルの脇に腕を差し入れた社は、そのままヒカルと腕を組むような格好でずんずん前に進んでいった。
「ちょ、おい、社、」
 ヒカルは体格差のある社に引き摺られるがまま、場の中央に借り出される。ヒカルの見えないところで、社はアキラの目を確認した。こちらを見て、不機嫌に驚いた顔をしている。
 社はそんなアキラの方向にぽいっとヒカルと突き出すように腕を放し、すうっと大きく息を吸い込んだ。
「なんや進藤、お前また腹イタかいな! 大丈夫か!」
 突然の大声に、周囲の人間が一斉に振り返る。ヒカルは真っ青になり、そして目の前が真っ暗になった。アキラの目も点になった。
「何!? もう立ってられんのか、そうか! もうここはええからお前引っ込んどき! おーい、塔矢!」
「!」
 不躾な大声に加えて、唐突にアキラを呼び出す社にヒカルはぎょっと目を剥く。人々の顔は今度はキレイに揃ってアキラを見た。
 アキラは一瞬固まったが、社が向ける視線の含みを悟ったのか、すぐに顔を引き締めて一歩踏み出した。自然とアキラを囲んでいた人の輪が道を開ける。
 社は、目の前まで来たアキラに改めてヒカルを突き出した。ぐいっと身体ごと社に突き飛ばされ、つんのめったヒカルはそのまま顔を上げることができない。
 とん、と肩に触れたこの手は恐らくアキラの手だ。ますます顔が上げられない。頭に血が昇って視界はぐらぐら揺れた。アキラに肩を支えられながら、つんのめって俯いたままの珍妙な格好でヒカルは硬直していた。
「塔矢。俺はここの料理食いつくすまで帰れんから、お前、進藤の介抱頼むわ」
「や、社!」
 ヒカルは抗議の声を上げようと身を捩ったが、ぐっとアキラの手に力がこもって体勢を変えることができない。
「分かった」
 アキラの了承に会場からどよめきが上がる。ヒカルは穴があったら、いやこの硬い床を掘ってでもどこかに潜ってしまいたかった。
 騒ぎを聞きつけたのか、倉田がどうしたどうしたとやってくる。
「倉田さん、進藤が腹イタおこしたんで塔矢に任せますから」
 ヒカルが言い訳する間も与えず、社が逃げ道を消していく。
 ヒカルはもう絶対顔を上げるもんかと目をきつく瞑った。これだけの人が見ている中で、どうやったってごまかしようがない。
「腹痛? 進藤が?」
 間の抜けた声で呟く倉田の声にも顔を上げない。上げられない。
 頭に昇りきった血は、今ではすっかり下がりすぎて首も背中も痺れるように冷たくなっている。喉はカラカラ、心臓はズキズキ、いっそ頭を空っぽにしたい。
「わざわざ塔矢じゃなくていいんじゃないの? 俺がついてくか?」
 頭の上で社の分かりやすい舌打ちが聞こえる。
 だから無茶だってば――今ならヒカルはこの寒々しい空気から逃げ出すためだったら、床に額をこすり付けて土下座だってしたかもしれない。
 ここにいる人々は、塔矢アキラの話を聞きたくて集まってきているのだ。囲碁関係者だけではない、各業界のスポンサーも、日本の囲碁界のスターを何とか獲得したいと意気込んでいるはずである。
 それを、今大会で良いとこなしのヒカルが取り上げてしまうなんて許されるはずがない。ヒカルが退席するのは一向に構わなくても、アキラまでついていく必要はないと誰もが思うだろう。
 ところが、気まずいざわめきを凛としたアキラの声が斬った。
「倉田さん。ボクが……連れていきますから」
 会場は妙に静まり返る。その場から離れていた人々も、何事かと中央の出来事を気にし始めた。
 社は不安そうにアキラと倉田を交互に見ている。ヒカルは完全に固まったまま、倉田は相変わらずの黒々とした丸い目を何度か瞬きさせて、フーン、と呟く。
「ま、いいけど。そういうことなら」
 思わず深読みしてしまいそうな倉田の台詞に、アキラが頭を下げる。
「すいません、失礼します」
 アキラのお詫びは、この会場にいる全ての人に向けられていたようだった。いろいろな角度に向かって彼は丁寧に頭を下げながら、それでもヒカルの肩から手を離そうとしない。
 ヒカルの身体は肩を支えるアキラの手に押され、とうとう歩かざるを得なくなった。アキラはヒカルと向かい合う形から背中を押す体勢に変え、後ろからしっかりヒカルの肩を掴んでいる。再び戻ったざわめきの中、ヒカルはカチカチに固まった身体を不自然に曲げながら、アキラに押されて会場を横切っていく。
 僅かに顔を持ち上げると、こちらに向かって小さく拳を見せている社の姿が目に入った。ヒカルは咄嗟にゴメン、と口唇を動かした。後から考えたら、この場合は「ありがとう」が適切だったなあとヒカルは思う。
 アキラに連れられて会場を後にし、エレベーターを待つ。夕べあれだけ勢いよくヒカルを探し回っていたアキラだったが、今は何も言わず、黙ってヒカルの肩を支えていた。
 肩ごしに伝わるアキラの手のひらの熱がヒカルには心地よいような居心地が悪いような、相反した感情に挟まれて苦しくなる。
 ヒカルは俯いたままアキラと共にロビーへ降り、アキラはフロントに預けてあった二人分の荷物を受け取って、そうしてホテル外で客待ちをしていたタクシーに乗り込むまで、二人は一言も話さなかった。
 後部座席に並んで座り、運転手に行き先を尋ねられ、初めてアキラがヒカルを振り返る。
「進藤。……病院に行く? それとも、キミの家?」
 飽くまで社の設定に付き合ってくれるアキラが律儀で、ヒカルは居た堪れない気持ちになる。とっくに気づいているくせに、こんな時アキラは強く問い詰めたりしないのだな、とヒカルは苦々しく笑った。
 塔矢アキラという人は、そういう人間だと少しずつ理解する。こちらがぶつかっていけば彼も全身でぶつかり返してくるし、今みたいに何も言えずに蹲っている時は黙って近くに居てくれる。
 応えなくては、彼に。ヒカルは汗ばんだ拳を握り締めた。
「……碁の、打てるとこに」
 掠れた声はそれだけ言うのが精一杯だった。小さな声だったが、アキラはそれを確かに受け取ってくれたらしく、運転手を振り返って行き先を告げた。その住所はヒカルがすぐにピンとくるものではなかったが、車が進むにつれおおよその見当がついてきた。
 車内ではどちらも口をきかなかった。重苦しいものとはまた少し違う空気だった。
 ヒカルはこの狭い空間で、少しずつ気持ちが落ち着いてきていることを実感した。目も合わさない、それでもアキラは確かに隣にいる。
 大丈夫。深く息を吸い、吐く。大丈夫だ。
 タクシーが停まり、アキラはヒカルがリュックを探るより早く料金を支払う。その時ヒカルがポケットに入れたままにしていた携帯が震えた。
 突然の振動に驚いて携帯を取り出すと、メールが一件来ている。アキラを気にしながらも画面を開くと、社からだった。
 ――うまくいったか?
 ヒカルは携帯電話を握り締める。
 無理やりヒカルとアキラを会場から脱出させて、その後のことを引き受けてくれた社に、どれだけ礼を言っても足りないだろう。
 ヒカルは素早く、

『今、塔矢のうちに来た。がんばる』

 そう打ち込んで、社にメールを送る。そのまま携帯の電源を切った。
 すでに外でヒカルを待っているアキラの隣へ、ヒカルは身を屈めてタクシーを降り、ゆっくり歩いていく。
 見上げる塔矢邸は実に半年振りだった。






最後まで社頼みなあたりうちのヒカルはへたれです。
元々ここに至るまでの一連の話は、この話を書くために後から考えたような感じ。
この話は曲ありきというか、曲聴いてこういう話を書きたいと思ったので
ちょっと他の話に比べて特別な位置にあるかも。
「One More Kiss」とか「微笑みの〜」とかもこれと同じような感じです。