Confession







 訪れるのは半年振りでも、中に入るのはそれ以上に久しぶりだった。
 アキラの後について玄関の引き戸を潜り、小さくお邪魔します、と呟く。脱いだ靴を自然と揃えたくなる家だった。
 真っ直ぐ進むアキラの背中を追う。こんなに近くにいるのは、あの日資料室までアキラがヒカルを追ってきてくれた時以来だった。
 心臓はドキドキとうるさく胸を叩くが、ヒカルの心は落ち着いていた。
 アキラが立ち止まり、目の前の襖を開ける。見覚えのある、アキラの部屋。かつてヒカルがアキラの腕の中で眠った部屋だ。
 あの夜の優しすぎるアキラを思い出して胸が切なくなる。あれからもう一年経った。
 本当に、遠回りした――ヒカルはアキラに促されて部屋に入り、アキラが閉めた襖の音に目を閉じる。
 アキラは部屋の隅に置かれていた碁盤をそっと持ち、部屋の中央に運んだ。それからスーツのジャケットを脱ぎ、軽く畳んで脇に置く。ヒカルもまたジャケットを脱いで、首を締め付けるネクタイを緩めた。
 碁盤の前に正座するアキラに向かって、ヒカルもまた碁盤を挟んで正座する。
 ヒカルは目の前の塔矢アキラを見た。正面から顔を見たのは本当に久しぶりだった。
 アキラの切れ長の目の中央で、黒い瞳が真っ直ぐヒカルを見つめている。穏やかで澄んでいるのに、強い光が宿っていた。
 ヒカルは顎を上げた。口唇を引き締め、背筋を伸ばした。
 ぶつかり合う視線の交点で、空気が渦を生んでチカチカ輝く。
「お願いします」
 二人は同時に頭を下げた。








 やけに碁石が冷たく感じるのは、指先の熱が高すぎるからだろうか。
 もう長いこと碁盤の升目に縛られていた。十九路の狭い世界で手足をばたつかせ、もがいては沈んでいく。
 俺の碁を。俺の碁を探そう。俺の碁って何だろう。
 アキラがその腕を引き上げる。小さな碁盤は二人の間で無機質だった頃の記憶を捨て、どこまでも突き抜ける黒と白の宇宙に変わっていく。
 指が熱い。碁石の星はひんやりとヒカルに道を示す。
 あの場所に夢を作ろう。こっちの場所には希望を。
 何だってできるのだ、制限されることのない碁盤の宇宙は限りない。
 ヒカルの夢に、アキラが力を与える。
 ヒカルの希望に、アキラが誇りを添える。
 一人の手では作り上げることができない、この宇宙の中で二人の指が踊る。
 俺の碁。一人では打てない。彼もまた、彼の碁を一人で打つことはできない。
 そうだ。ずっとこうして打ちたかった。
 いつだってこうして一緒に打っていたかった。
 頭の中の塔矢アキラが、ヒカルに優しく微笑んだ。
 ――やっと逢えたね。
 そうして彼は弾けて消えた、彼の役目は終わったのだろう。
 今なら恐れずに手を伸ばせる。
 心の中に逃げ込んだりせず、目の前にいる熱い胸を持った本当の塔矢アキラに、純粋に飛び込んでいける。
 今なら飛べる。高く高く、更に高みへ、アキラの一手を追い、追われ、確かめ合って、頷き合って、重なり合って更に高く。
 なんて気持ちがいいんだろう――
 ようやく逢えた。佐為が背中を押してくれた人なら、アキラは隣を歩く人。
 もう自分は間違えないだろう。強くて、誰より優しいリズムを持つ彼の一手に、ヒカルの碁石は踊る。
 もっと高く。速く。高く。速く。
 もっと、もっと――




 高く。













 静寂は柔らかく空間を支配した。
 中央に置かれた碁盤に向かい合い、二人は黙って盤面を見つめる。
 やがて、穏やかな低い声が「ありません」、と告げた。
 ヒカルは顔を上げる。
 アキラは微笑んでいた。
「……ありません」
 ヒカルの目を見つめて、アキラはもう一度囁く。
 ヒカルの表情は未だ夢の中にあるようで、ぼやけた目の光はゆらゆら揺れている。
 そんなヒカルをアキラの優しい眼差しが包み、その肉の薄い口唇がそっと口角を吊り上げた。
「……美しい一局だった」
 ヒカルの肩がぴくりと揺れる。
「……おかえり」
 そう言って美しく細めたアキラの目を見ると、ヒカルの胸の奥に凝り固まっていたものがじゅっと音を立てて溶けていった。そのままそれは身体を昇り、喉を灼いて鼻を刺し、眼球の裏で堤防を崩す。
 糸の緩んだ腹話術人形みたいにがくがくと顎が震えて、ヒカルは思わず口元を手のひらで覆った。
 震えを押さえ込むと呼吸まで止めてしまう。うまく息ができず、かといって深く息を吸い込めば吐き出されるのはヘンに引っくり返ったしゃっくりみたいな音で。
 アキラは二人を隔てる碁盤をそっと避け、ヒカルに手を伸ばす。ヒカルは初めてその手に応えた。
 飛び込んだアキラの胸は熱かった。
 一緒に打ちたかった。何も考えずにアキラと打ちたかった。
(バカだ、バカだ俺)
 散々悩んで迷っても、アキラとの対局ひとつで答えが出る。もっと信じればよかった、自分を、アキラを。
 そしてヒカルは気づいた、身代わりにするのが怖かっただけじゃない。
 心の中に生み出したアキラが、いつか佐為のように消えてしまうのが怖かったのだ。
 だけど本物のアキラはここにいる。ヒカルを苦しめた幻はついさっき消えてしまったけれど、強くヒカルを抱き締めるこの腕も胸も幻なんかではない。
 この熱は消えない。消えないはずだ。もう心の中に逃げ込まなくても何も消えたりしないはずだ。
「塔、矢……、俺、おれ」
 今までのことを伝えたくて、しかし声は言葉にならない。喉を握り潰すものが邪魔をして、声は次々空気に混じってただの音を漏らす。
 アキラはヒカルの背中を優しく撫で、しんどう、と囁いた。
 顎を上げたヒカルのすぐ目の前に、アキラの顔がある。
「進藤」
 低い声が耳をくすぐる。
「何も言わなくていいから」
 ひく、とヒカルの喉が鳴った。
「理由なんか言わなくていいから。ボクはもう何も聞かないから」
 アキラのシャツの胸元を掴むヒカルの指に力がこもる。
「だから、約束して」
 ヒカルは二度瞬きをする。ばさっと落ちた大きな滴の塊が、涙だとはすぐに気づかないほど大粒だった。
「こんなふうに、キミが何かに迷うことがあったら。理由なんか言わなくていいから、最後はボクのところに来て」
 ばさばさと涙が落ちる。瞬きの数だけ水滴はヒカルの頬を濡らし、首を伝って胸に落ちた。
「ボクはいつまででも待つから。キミが来てくれるのを待つ。だから……最後はボクのところに来て」
「……うや」
「約束して」
 アキラの瞳は、ヒカルがたった今飛んだ宇宙に続く道を映していた――
「……、やく、そく、する」
 震える声を振り絞り、音を繋ぐ。
 声が漏れたことで身体の力が抜け、肩も背中もぶるぶる震えて抑えられない。それでもヒカルは言葉にすることを選んだ。
「約束、する」
 背中を撫でる大きなアキラの手は、ゆっくりゆっくりヒカルの心のわだかまりを解く。自分勝手に突っ走ったヒカルを無条件の愛情で赦しているように思えた。
 ヒカルはごめん、と切り出しかけた。思い込みでアキラを、たくさんの人を傷つけたことを。取り返しのつかない時間のことを。そんな中でも、ヒカルを導くように碁を打ち続けて、自分を待ってくれていたアキラに。
 ところが、ヒカルの口がうまく働かないうちに、アキラが囁いた言葉にヒカルは目を見開いた。
「ありがとう」
 聞き間違いかと、アキラの顔を思わず見つめる。
 アキラは変わらない穏やかな優しい眼で、もう一度きっぱり「ありがとう」と告げた。
「……ありがとう。……ボクのところに、帰ってきてくれて」
 落ち着きを取り戻しかけていたヒカルの双眼はみるみる深い海となり、何を気にする余裕もなくぐしゃっと潰れた。
 ――俺もバカだけど、コイツもやっぱりバカだ。
(何で礼なんだ。バカ。バカだ、ホントに。バカでバカで……)
 怒鳴られたって仕方ないのに。いつもみたいに青筋立てて、フラフラしていた自分に「ふざけるな!」なんて一発気合を入れてくれるくらいで丁度いいのに。
(バカだ)
 呆れるくらいバカな男にこんなに想われて。
 待っていてくれた。待っていてくれる。どんなに身勝手に彼を振り回しても、アキラは彼の言葉の通りいつまでもヒカルを待っていてくれていた。
 量りようのない安堵と共に、恐ろしい恐怖が身体の奥から競りあがってくる。
 いつまでも待っていてくれるはずの人が、いなくなる恐怖だった。
 もう少し気づくのが遅かったら、社が気づいてくれなかったら、このバカな男よりももっともっとバカな自分はいつかアキラを見失ってしまったかもしれない。
「塔矢」
 縋りつく胸に、その名を呼ぶ。
 見失わないように、もう二度と迷わないように。
「とうや」
 すでに視界はグズグズに崩れて、目の前の大切な人の輪郭もぼやけてどうしようもないのだけれど、ヒカルはその瞼をしっかりと開いてアキラを見た。
 彼の姿を見失わないように。目を逸らした隙に、いなくなってしまわないように。
「塔矢が、すき」
 ヒカルを包むアキラの身体が不自然に揺れた。
 濡れた景色の中で優しく微笑んでいたアキラの表情が、じりじり色を変えていく。
「塔矢が好き」
 引き攣れたその声には、甘い雰囲気も何もあったもんじゃなかったけれど。
 声を振り絞った、全身で伝えなくてはならない。アキラがどれほど待つと言っても、時間は本当はそれほど待ってはくれないのだ。
 ヒカルは崩れた目を痛いほどにこじ開けて、彼のシャツを握り締めるその指に渾身の力を込めた。
「塔矢が、好きだ」
 ヒカルの身体の震えが伝染したように、アキラの胸にもまた微かな振動が生まれ始める。
 ヒカルを包んだ腕の力は痛いほど強くなり、二人はしっかり顔を見合わせたまま、次の言葉を交わせずにいる。
 やがてアキラは切なげに眉を寄せ、その優しい瞳を愛おしいものを見るように細めて、ヒカルの頭を抱えるように、髪に両手の指を差し込んだ。
 アキラの両手のひらがヒカルの後頭部を滑り、耳に触れ、頬を包む。そのまま顔を近づけようとアキラは更に目を細めたが、見開いた目を一向に閉じようとしないヒカルにふと動きを止めた。
 どうしたの、と尋ねるように少し首を傾げてみると、ヒカルは大きな目をそのままに首をただ横に振る。アキラも分からない、と首を振った。ヒカルは更に首を振る。しばし二人で首を振り続けた。
「おまえ、が」
 首を振りながら、しかし視線を逸らさずにヒカルは言う。
「目、瞑ってる間に、おまえが、」
 溢れた涙が強制的にヒカルに瞬きを誘うが、その一瞬すらも目を閉じるのが怖いとヒカルは首を横に振る。
「おまえが、いなくなったら、嫌だ」
「進藤」
「嫌だ」
 目を逸らさないヒカルは、ぐしゃぐしゃの顔でアキラを見た。その瞳の力にアキラは息を呑む。
 アキラの困惑の顔は、少しずつ落ち着きを取り戻し、目の前のヒカルを慈しむように頬を綻ばせていく。アキラはヒカルの頬を包む手のひらに再び力をこめ、怯えるヒカルにそっと囁いた。
「目を開いたままでいいよ。……でも、ボクはどこにも行ったりしないから」
「わかんないじゃん、そんなの」
「分かるよ。ボクはどこにも行かない。キミの前からいなくなったりしない。キミと、キミの打つ碁がある限り、ボクはこの先キミの傍から絶対に離れないから」
 絶対なんてない。そうヒカルが反論したくても、至近距離でヒカルを見つめる目には何の濁りもない。
 アキラは本気なのだ。いつだって真剣で、一生懸命で、バカで、優しくて。
 アキラもまた目を閉じずに、静かにヒカルに口唇を寄せた。二人は視線をきつく絡ませたまま、震える口唇を合わせる。
 上口唇を、それから下口唇を。
 口唇を塞ぎ合い、アキラを見つめるヒカルの目は怯え、ヒカルを見つめるアキラの目は暖かかった。
 アキラは、押し当てるだけのキスをした。いや、押し当てるだけではない、深く貪ることも舌を絡めることもなく、熱い口唇でヒカルの不安を包む、優しすぎるキス。
 覚えのあるこのキスに、ヒカルの目に再び涙が溜まっていく。ぼやけるアキラは愛しげに目を細め、暖かな眼差しでヒカルを見守っている。
 ――怖がらないで。大丈夫、どこにも消えたりしないから。
 口唇の熱はヒカルに囁きかける。
 ――ここにいるよ。
 アキラのシャツの胸元を掴んでいた指を離し、ヒカルはアキラの肩を掴んだ。
 歪んだ瞳がばちばちと瞬きで震え、揺れる睫毛が一瞬動きを止めて、……そうして瞼は静かに閉じられた。
 目を閉じて、ヒカルは優しいキスに自分の熱を伝えようと、少しだけ身を乗り出して口唇を押し付ける。
 その圧力を感じたアキラもまた目を閉じ、ヒカルの頬を逃がさないようにしっかりと掴んで、その口唇に改めて噛み付いた。
 探り合い、絡み合う。
 飢えていた口唇は、どれだけ相手を吸い尽くしてもまだ足りない。このまま絡め続けていたら、二人の熱で口唇は溶けてしまうのではないだろうか……浮かされたように痺れた頭でヒカルはそんなことを考える。
 目を閉じた暗闇の中、確かに伝わるアキラの熱だけを追う。
 一年越しのアキラの想いは強かった。
 その強さに押されるがまま、重力に逆らわず背中から倒れこんだヒカルに、アキラは尚も口付ける。
 ヒカルはアキラの背に腕を伸ばした。抱き締めたアキラの身体は僅かに汗ばんでいた。熱くて、抱き竦められて、その胸の中で強いアキラのニオイに溺れて、ヒカルは理性から手を離そうとした。



 ピンポーン……



「……」
「……」
 二人だけの世界に浸りきっていたお互いの身体が、思わず動きを止めた。
 無意識に目を開ける。口唇を合わせたまま、再び合わせた視線は酷く恥ずかしいものだった。
 我に返りそうな心を抑えて、アキラが仕切りなおそうと口付けを再開する。しかしヒカルはアキラよりも先に覚醒してしまったらしく、慌ててそのシャツを引っ張った。
「お、おい、誰か来てる」
「ほっとこう」
 アキラは呆気なく言い放った。
 ああ、スイッチが入ったんだ。ヒカルはこれまでの経験からそう判断し、こうなった時のアキラがそう簡単には止まらないことも思い出した。
 まあ、いいか……。ヒカルももう一度目を閉じるが、


 ピンポーン。
 ピンポーン。


「……」
「……」
 アキラの苛立ちが布越しに伝わってくる。
 さすがにマズイのではとヒカルはアキラを剥がそうとしたが、尚も食い下がるアキラの馬鹿力は相当のものだ。
「おい、出て来いよ。誰か来てるって」
「誰が来てたってどうでもいいよ、せっかくキミと――」



 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポーン

 とうや〜、

 しんどう〜、

 おらんのか〜



「……!」
 ヒカルはアキラのこめかみに幾筋も浮かび上がった青い筋を凝視した。
 がばっとヒカルから身体を剥がしたアキラは、どたどたと似合わない足音を立てて部屋を飛び出していく。
 ヒカルが呆然とアキラの消えた方向を眺めていると、声が聞こえてきた。



 ――何の用だっ! キミは何しに来たんだ!!

 ――何の用とは何や、人がせっかく心配して来てやったのに!

 ――余計なお世話だ、心配されることはひとつもないっ! とっとと帰れっ!!

 ――何をぉ!? お前、俺がどんだけお前らのために骨折ったと思ってんねん! 俺がおらんかったらどうなってたと思ってんのや!

 ――おい、人の家に勝手に上がりこむな!!



 ヒカルは慌てて涙に汚れた顔をごしごし擦った。まだ目も鼻も赤いだろうが仕方ない。
 乱れた服を整える。気づけば自分も相当汗をかいていた。緩めていたネクタイはいっそ抜いてしまおう。
 立ち上がり、背伸びをした。頬を二、三度軽く叩いて、そうして現れた顔にはいつもの笑顔が戻っていた。
 部屋の襖を開け、走り出す。
「社ぉ、早碁やろうぜ早碁!」
 玄関に向かって叫んだ。ぎゃんぎゃん争いながら廊下で押し問答するアキラと社が振り返る。
「今から合宿だ!」
 ヒカルは二人の間に飛び込んだ。
 突然飛んできた塊に、咄嗟のことで準備不足の二人は支えきれずに引っくり返る。
 廊下に三人転がって、しばしの沈黙の後、ぽかんと口を開けた二つの顔を見つけてヒカルは吹き出した。
 笑いのスイッチが入ったヒカルが腹を抱えて笑い転げるのを見て、社にも笑いが伝染する。二人で馬鹿笑いしている様を呆然と見ていたアキラも、やがて釣られて笑い始めた。
 なんだか知らないが、三人でややしばらく笑い続けた。
 それから涙を拭き拭き、一年前に合宿を行った客間へ連れ立って、先を争うように十秒碁を始める。打った。打った。打ちまくった。何も考えられなくなるほど。
 これまでのことを説明するのは、またの機会にしよう。ヒカルは心地よく疲れた指に碁石を挟み、盤上を睨む。
 想いは通じ合った。碁の楽しさも思い出した。
 俺の、俺たちの碁はこれから始まるんだ――


 その夜遅くまで続いた三つ巴の対局は、社の新幹線の時間が迫ると共に終局となった。
 ようやく、三人の二度目の北斗杯が本当に終わったのだ。







長かったような短かったような。
目を開けたままのキスのために引っ張ってきました。
明るく強く逞しく、へたれな二人でいて欲しい。
もちろんこの続きもこそこそ書こうと思っています。
一応「微笑みの〜」からもうちょっと先の話まで書く予定。
(BGM:Confession/河村隆一)