昔、碁盤の上で宇宙を創ると言ったことがあった。 碁盤の上の九つの星。その周りにひとつひとつ碁石を置いて、この手で自分の宇宙を創り続けて来た。 この手で。ずっとそう思っていた。 でも、がむしゃらに走って来た道をふと振り返って気がついた。 碁盤に広がる宇宙は、向かい合う相手と二人で創り上げるものだということを。 *** 「これ、頼むわ」 どさっと居間に置いた二つの紙袋を見て、母親が目を丸くしている。 これと同じ顔を今までに何度か見た。去年の誕生日と、クリスマスの時だ。女性というものはどうしてこうイベント事に張り切るのだろうか。母親も同じ女性なのだから、こういった心理に共感できたりするのだろうか? 「頼むわ……って、どうするの、こんなにたくさん。また棋院付けで送られて来たの?」 「そう。あ、他にかさばるプレゼントとかは宅配で送ってもらうようにお願いしたから、そのうち荷物も届くよ。受け取っといて」 頬に手を当て、心底困りきったように紙袋を眺めている母親をちらりと見やり、ヒカルは複雑なため息を漏らした。 厄介事を押し付けて申し訳ないという気持ち半分、いちいち説明するのが面倒臭いという気持ちも多少あり、できればこういった状況にそろそろ慣れて欲しいなんて望むのは我が儘なことだろうかと擦れた考えも浮かぶようになって。 それでも、誕生日の時のあのとんでもない数からは随分落ち着いたものだ。 (やっぱ、あの雑誌がデカかったんだろうなあ) 半年も経てば、別のものに興味を移す人間も多かろう。 「こんなに食べたらお母さん太っちゃうわよ。あんた、お友達とかに配ったら?」 「棋士仲間はみんな大体同じくらいもらってんの。別に無理して全部食べなくてもいいよ。隣のおばさんとか母さんの友達にあげてもいいから」 ヒカルの言葉には幾分誇張も含まれている。ほとんどもらえない仲間だっているし、そこそこもらっている仲間でもヒカルほどの数に到達しているのはせいぜいアキラくらいのものだろう。 そのアキラも、こういったものは一切受け取らないように棋院に処分を任せているのだから、比べる対象にならないと言われてしまえばそれまでだ。 それでも今回は随分持ち帰る数を減らすことができた。冴木の教え通り、手作りものはゴメンナサイと処分してきたからだ。 おまけにやはりというか、手作りの数は想像以上に多かった。丁寧にラッピングされた箱を見ると心が痛んだが、何事かあってからでは遅い。気持ちだけは有り難く、と決まり文句を頭の中で呟いて、黙々と選別すること一時間。 そう、一時間もかかってしまったのだ。その後荷物を置くために家に寄って、こうして母親との他愛のない会話を交わしている間にも時間は刻々と過ぎている。 遅刻の理由がこんな状況でした、なんて言ったら拗ねられて厄介だ――ヒカルはもうこの話は終わりとばかりに、一度は床に置いたリュックを再び肩に担いだ。 「んじゃ、行って来る」 「あ、あんた塔矢くんに少し持って行ったら? どうせ今日も泊まってくるんでしょう?」 「アイツんとこにも腐るほど届いてるっつうの。そんなことしたらマジギレだって。じゃね!」 まだ何か話している母親から逃げるように背を向けて大股で居間を後にしたヒカルは、母親の言葉通りのことを遂行した時のアキラの反応を想像して身震いした。 ――マジギレどころじゃねえな。 靴を履きながら、ポケットに無造作に突っ込んでいた携帯電話を引っ張りだして時刻を調べる。どうやら本格的に遅刻のようだ。謝罪のメールを打ちながら、ヒカルは玄関のドアを開けてオレンジとグレイの入り交じった薄暗い空を見上げる。 昔に比べて、あの甘ったるい匂いがそこまで好きじゃなくなった。――滑らかにとろけるチョコレートの、鼻全体を包み込むような甘い匂い。 今日は二月十四日。世間はバレンタインデーで浮き足立っていた。 「遅い」 ――やっぱり。 顔を見るなり開口一番、不平を呟いた形のよい口を見上げてヒカルは肩を竦める。 去年末から新たに一人暮らしの部屋を構えたアキラが、予定より随分遅れて現れたヒカルを出迎えていた。 「棋院で打ち合わせをするだけで、どうしてこんなに時間がかかるんだ」 「いろいろ捕まってたんだよ。……って、お前この匂い……」 オレンジ色のライトが目に優しい玄関で靴を脱ぎながら、ヒカルは鼻をひくつかせる。 紙袋の中に封印したはずの甘ったるい匂いが、何故かふんわり廊下に漂っている。 アキラはまだ何か文句を言いたそうだったが、ヒカルの言いかけた言葉に反応して少し気を削がれたらしい。不満そうに顰められていた顔が僅かに柔らかくなった。 「キミ、今日が何の日か知らないのか?」 先頭を歩くアキラの後に続きながら、そんなわけねえだろと乱暴に答える。充分思い知らされてきた後なのだから。 「まあ、そうだろうね。大方棋院で贈られたチョコレートの整理にでも追われていたんだろう」 「分かってんなら怒るなよ」 「怒るよ。いい加減キミもボクみたいに棋院に処理を頼めばいいんだ。クリスマスだって大変だったじゃないか」 「俺はそこまで割り切れないの。食ってきた訳じゃねえんだからこれくらい許せって。で、なんでお前の部屋からチョコレートの匂いがするんだよ」 リビングに到着し、いつものようにソファの傍らにリュックを放り投げて、ヒカルは鼻を鳴らすようにくんくんと部屋の匂いを嗅いだ。玄関よりも匂いが強い――出所はどうやらキッチンだ。 「だから、今日はバレンタインデーだろう」 「それは分かってるって。……お前、まさか」 キッチンを覗き込むと、一人暮らしの、しかも男の部屋には少々不似合いな大型のオーブンレンジがブーンと低い唸り声を上げている。オレンジ色のライトが光るその中で何かが焼かれているらしい。ヒカルはうんざりと顔を歪めてアキラを見た。 「お前なあ、何張り切ってんだよ」 「別にいいじゃないか、ボクが何を作ろうと」 「いいけどさあ、お前、絶対取材とかで「趣味は料理です」なんて言うなよ。イメージ崩れまくりだから」 「そうかなあ……今時料理くらい」 「いいから黙っとけ」 びしっと立てた人さし指をアキラに突き出し、はいはいと返事をしたアキラに満足げに頷いたヒカルは、よい匂いをまき散らしながら頑張って働いているレンジを振り返ってため息をつく。 どうやら去年のヒカルの誕生日に少々いびつなケーキを作って以来、アキラは料理に、それも特にお菓子作りにハマってしまったようなのだ。 確かに一番最初のケーキは決して誉められた出来ではなかった。しかし不味くて食べられないものではなかった上、目玉焼きすらもろくに作れやしないヒカルにとって、わざわざ難易度の高いケーキを作ってくれたという気持ち自体があまりに嬉しくて、必要以上に喜んでみせたのが悪かったのかも知れない。 もっと美味しいものを作ってみせようと、変にアキラを焚き付けてしまったようなのだ。 実家に居た時はそうでもなかったのに、一人暮らしを始めた途端にちょこちょことお菓子を作るようになった。どうやら最初にケーキを焼いた時に購入したお菓子の本を見て、作れそうなものを片っ端から作ってみているらしい。 当然その試食係はヒカルに回ってくるわけで。 (これがうまきゃいいんだけどさあ) やはりスキルが伴わないせいか、食べられないわけではないが目を輝かせるほど美味しいものでもない。それでも徐々に上達している兆しは見えつつあり、ヒカルとしても愛する恋人の作ったものなら何でも喜んで食べてやりたいという気持ちはある。 しかしちらりと見えたオーブンの中でくるくると回っている物体は、どう見てもホールケーキサイズだ。作った本人はあまり甘いものを好んで食べないので、その大半はヒカルの胃袋におさめなければならない。 噎せ返るような甘ったるい匂い。そして今日はバレンタインデー。 (俺だってガキの頃とは味覚変わってるっつうの) 今夜は胸焼けを覚悟しなければならないようだ。ヒカルは実家に押し付けて来たチョコレートがここまで追いかけてきたような気持ちになり、胸を押さえてアキラに見えないようにうえっと舌を出した。 |
バレンタインデー先取りです。
なんか若に新しい趣味ができました……
ヒカルは実験台のようです。