「焼けるまでまだちょっとかかるから。座って」 香ばしいインスタントコーヒーの香りにヒカルは思わずほっとして、アキラに促されるままソファの定位置にぼすんと腰を落とした。差し出されるカップを素直に受け取り、黒い液体にそっと口をつける。同じ黒いものでも、こちらの苦味のほうが落ち着くようになってしまったのはいつからだろう。 「お前、ひょっとして今日のために材料とか買って揃えたわけ?」 隣に腰を下ろしたアキラに顔を向けて恐る恐る尋ねると、アキラは軽く笑って首を横に振った。 「そこまではしないよ。別にバレンタインデーに合わせて作ろうと思ってたわけじゃない。たまたま、チョコレートが送られてきたものだから」 「送られて来た? って、棋院じゃなくて?」 「そう、ここに」 床を指差すアキラに、ヒカルは怪訝な表情を見せた。 このマンションを知る人間はほんの一握りのはずだ。まさかファンが嗅ぎ付けて来たのだろうか。 ヒカルの不穏な考えを読み取ったのか、アキラは悪戯っぽい笑みを浮かべる。 「キミ、何処かのファンが送りつけてきたと思ってないか?」 「違うの?」 「この場所を知ってる女性なんて限られているだろう?」 「え? ――あ」 ヒカルはぽかんと口を開け、その人の顔を思い浮かべた。 アキラがこのマンションの住所を知らせているのは、棋院と、僅かな棋士と、そして身内だけだ。 「そう、母だよ。キミと一緒に食べてってさ」 「おばさんか〜。……ちょっと待て、お前、ひょっとしてそのチョコレート」 「うん、ちょうど本にガトーショコラの作り方が載っていたから」 「ケーキにしちゃったのかよ! ひでえ〜……」 アキラの母が寄越したものならば、さぞや上等なチョコレートだったのだろう。それを味わいもせずにさっさとケーキの材料の一部にしてしまった息子の仕打ちはあんまりではないだろうか。 「いいじゃないか、どうせ腹に入れば同じだ」 「まあそうだけどさ、……おばさんには黙っとけよ」 にこにこと悪びれない笑顔を見ていると、心底明子が気の毒になってくる。 同時にどこかほっとしている自分がいるのも否めない。 他の女性からのチョコレートには一切興味を示さず、唯一受け取った母親からの贈り物でさえこの有り様。 無用の心配とは知りつつも、これでもっと料理の腕を上げて、雑誌の取材なんかで趣味は料理だなんて発言しようものなら。 (カッコ良すぎるっつうの) 料理をする塔矢アキラ。イメージが崩れるだなんて嘘だ。 これ以上無駄に女性ウケが良くなって、いいことなんか何もありはしない。 不安になる必要は全くないと分かってはいるが、できるだけ虫よけをしておきたいというささやかなオトメ……じゃない、男心。 ヒカルが一人でそんな不毛な考えに頬を膨らませていると、アキラがそっと頬を寄せて来た。アキラの手のひらがヒカルの頭を包み、軽く引き寄せられるがままヒカルはことんとアキラとこめかみを合わせる。アキラの長い髪の毛が頬に触れてくすぐったい。 ヒカルは手をゆっくりと伸ばして、右手に持っていたコーヒーカップを静かにテーブルへと置いた。見計らったようにアキラに口付けられ、ヒカルも目を閉じる。 薄ら開いた口唇の隙間に暖かく湿ったものがそっと入り込んできた瞬間、 ぴ〜ぴ〜ぴ〜 ムード台無しの電子音にヒカルは思わずがちんと歯を食いしばってしまった。 「っ!」 「あ、わり」 ほんの先端とはいえ、豪快にアキラの舌を噛んでしまったようだ。 口を押さえているアキラにゴメンと手を合わせて、機嫌を直してもらうべく鼻の頭に小さなキスをする。 「今の何の音?」 「オーブンだよ。焼き上がったんだ」 アキラはまだ少し痛そうに舌の先端を口唇の間から出したり引っ込めたりしながら、それでもめげずにヒカルへ顔を寄せて来る。その顔をヒカルはぐいと押し退けた。 「なら見て来いよ。この前みたいに中で爆発してたらどうすんだよ」 「時々覗いてたけど今回は大丈夫だ」 「いいから見てこいって。生焼けだったら食わねえからな」 遠慮なしに迫る顎を突っぱねると、アキラも渋々ヒカルから身体を離して立ち上がった。 キッチンへと向かうアキラに続いて、ヒカルも広くて使い勝手の良いキッチンを覗き込んだ。 アキラは大きなキルトの手袋のような鍋掴みを両手にはめて、オーブンから丸い型を取り出している。チョコレートの匂いがいっそうきつくなった。 「おお〜」 ヒカルが思わず声を漏らす。直径十五センチの丸い型の中、こんがり焼けたダークブラウンの生地に思わず二人の顔が綻んだ。 「成功じゃねえ?」 「どうだろう。この前みたいに時間が経ったらしぼむかもしれないな」 「ちゃんと焼けてんの?」 「ちょっと待って……」 あらかじめ用意していたらしい竹串を手に取り、黒いケーキに突き刺す様子をヒカルはまじまじと眺める。どうやら表面の見た目よりも中はずっとしっとりしているらしい。ゆっくりと引き抜かれた竹串は綺麗なままで、中まで火が通っていることにアキラはほっと顔を綻ばせた。 「うん、大丈夫だ」 「腹壊す心配はなさそうだな」 「……キミの腹は多少のことじゃ壊れないよ」 何やらケーキをひっくり返し金網の上で冷ますという焼き上がり後の行動を、菓子本片手に黙々と遂行するアキラを遠目に見守りつつ、ヒカルはリビングの壁に飾られたシンプルな壁掛け時計を見上げた。 そろそろ夕飯時といったところだろうか。見たところ、キッチンには洗い物がそれなりに溜まっており、ガスコンロの上にも鍋が鎮座しているということは簡単な食事を用意してくれていたのだろう。 これから夕食を食べて、食後に恐らくこのケーキがデザートになって。それから…… 「そろそろ夕食にするかい?」 ヒカルの頭の中を覗いたようなアキラの言葉に素直に頷き、すでに勝手知ったる食器棚を開いてアキラに向かって首を傾げてみせる。 「今日何?」 「シチューだよ。生クリームが余ったから」 「んじゃこの皿だな」 皿を並べてスプーンを出して、二人だけの夕食の準備を始める。 アキラが一人暮らしを始めてから、こんな光景は当たり前のように見られた。 母親に言われた通り、ヒカルもこの日は泊まるつもりでアキラの部屋に訪れていたし、アキラは何の疑いもなくヒカルが泊まっていくものだと思っているだろう。 まるで一緒に暮らしているかのような生活のワンシーン。それはそれで構わないと、ヒカルは思う。 しかし、案じていることがないわけでもなかった。 根野菜たっぷりのシチューと白い飯。アキラの料理スキルでは、まだまだこの程度が精一杯のようだ。おまけに今日はケーキまで焼いていたのだから、彼なりに相当頑張ったのだろう。 もちろんただ食べるだけのヒカルは品数が少なくても文句は言わない。アキラの料理の腕は最初の頃とは比べものにならないほど上がっているし、美味しいものを食べさせてくれるだけで満足だった。 問題は、難易度の高いデザートのケーキが果たして美味しいかどうかだが。 シチューを平らげて、それではとアキラが持って来たホールケーキ。テーブルのまん中に置いて、ヒカルが見守る中ナイフが入る。まずは半分。半分を更に半分、四分の一。 「……もっかい切れよ」 「キミならこれくらい食べられないか?」 「うまかったらお代わりしてやる。とりあえずもっと小さくしろ」 恐らく持て余すことを分かっていながらホールケーキを焼くのは、アキラの持っている本ではその分量の作り方しか紹介されてないからなのだろう。以前、「お菓子作りは材料をきっちり計ることが重要だそうだ」なんて誰のアドバイスか知らないが真顔で力説していたアキラであるから、初心者のうちは書かれている通りのサイズを作り続けるつもりのようだ。 そのうち、もっと小さなサイズが紹介されている本でも買ってきてやろうかと本気で思うヒカルだった。 さて、味のほうは。 「……ん」 フォークで一切れ口に放り込んだヒカルは、しばらく口をもごもごさせながらアキラ手製のガトーショコラを味わった。 匂いから想像していたよりもずっとビターな甘さだった。やはり時間が経って少し生地が萎んだせいか、少々しっとりし過ぎている気はするが、食べられないものではない。 じっとヒカルの反応を待っているアキラを前にして素直にうまいと伝えるのは癪だったが、ここで天の邪鬼になってアキラが落ち込むのも面倒なので、ごくんと口の中のケーキを飲み込んでから渋々言ってやった。 「……うまいよ」 「そうか!」 実に嬉しそうに笑うアキラを見ていると、もう二、三切れ食べてやってもいいと思わせられるのだから愛の力は偉大である。 そうしてしばらく二人でケーキを頬張って、ホールケーキは半分に減った。この続きは明日食べさせられるのだろう。ヒカルは小さくチョコレート味のげっぷを漏らし、軽く胃の辺りをさすった。味、見た目以上に重たいケーキだったようだ。 アキラが使用済みの皿をキッチンへと下げに行き、残ったケーキも一旦ラップに包まれる。 時刻は午後の八時。まだまだ若い二人にとっては充分活動時間の範囲内である。 「進藤……」 ここぞとばかりに夕食前の続きを企んだらしいアキラの腕がヒカルの首に絡み付いて来る。 ヒカルは慌てるふうでもなくその腕をひょいひょいと解き、くるりとアキラに向き直って一言告げた。 「打つぞ」 アキラは僅かに不満げな顔をしてみせたが、肩を竦めてはいはいとヒカルに背を向ける。碁盤を取りに行ったようだ。 その背中をじっと見つめたヒカルは、眉間に小さな皺を寄せ、ぱちぱちと瞬きした目を意味ありげに細める。 ……ここ最近のアキラの碁に対する姿勢。これがヒカルの案じていることに他ならなかった。 |
たぶん「うまい」と言ってもそこまで
美味しいもんじゃなかったと思います……
若一人暮らし超満喫してます。