黒と白の二色の星。 碁盤の上の九つの星の周りにひとつひとつ、無限に広がるモノトーンの宇宙。 指先から放たれる星々に裏づけされた、洞察力と先見力、経験と直感。 その一手に問う。星の行先を。宇宙の果てを。混じりあう黒と白の星、蓄積されたエネルギーの爆発と消滅が繰り返される営みの意図を。 その一手に問われる。誕生の意味を。星が紡ぐ道の軌跡を。目指す場所に向かうための創造力は、そもそも何処へ向かっているのかと―― 上辺の攻防が激しくなった。 中央に厚みを持たせていたヒカルの白石に対し、上下から圧迫を加えるアキラの黒石は好戦的で守らざるを得ない。序盤から踏み込んで来る大胆な一手に対してミスを誘導するべく黒石を躱しにかかるが、アキラの切り返しは冷静だ。 いきなり差をつけられる訳にはいかないとヒカルも上辺に模様を打ち込んで行く。アキラ相手に後半からの一発逆転は厳しい。余程の隙をつかなければ、あっさり力でシノがれてしまうからだ。 落ち着いていながら、力強さに申し分ない。 ヒカルは厳しい目で盤上を睨みながら、ぴりぴりとした心地よい緊張感に何処かほっとしていた。 ―― 一度碁盤に向かってしまえば問題はないんだ。 黒石の勢力下に白地を築かんと侵入を試みる。数分身じろぎせずに盤面を見つめていたアキラは、白石を受けて立つように黒石をツケてきた。 ――いや、打つ相手が「俺」なら何も問題はない。 間を置かず狙い通りの位置に白石を叩き付ける。アキラにとってもそれは予想の範疇だったのか、すぐに打ち返して来た黒石に対してヒカルも手を緩めない。 しばし、早碁のような展開が続いた。 ――俺と打っている時は普段通りに冴えている。……だから気がつくのが遅くなった。 状態が弛緩したのは、白石の眼形を脅かす黒石の放り込みによってだった。 いい手だ。 ヒカルは手を止め、じっとこの場面を切り抜ける道を探る。 ここでイキられては形勢を挽回することは不可能だ。この場は何としてもヨセまで無傷で持って行きたい。 長考の末に打たれたヒカルの一手によって、今度はアキラが長考を強いられることとなる。 ――これだけ何度も打っている相手なのに、お互い底が知れない。打つたびに、知り尽くした相手の空気に馴染みながらも時に見たことのない一面が牙を向く。……これだけ面白いパートナーは他にはいない。 アキラの反撃は的確だった。 守り抜きたいヒカルの思惑を逆手に取り、守らざるを得ない強気の一手で眼を揺るがす。これにはヒカルも眉を顰めた。 ――……でも、この世界には「俺」以外にもたくさんの棋士がいる。 踏ん張っても、アキラの優勢をひっくり返すことはできないだろう。 ヒカルは「負けました」と頭を下げた。 ざらざらと碁石をどかし、先ほどの一局の検討が穏やかに進められる。 前半の上辺。後半の中央。ああでもない、このほうが、と黒石と白石が様々な模様を作り、少しずつ確定する最善の道に二人は頷きあう。 「……ああ、そうだな。この構えのほうが四方を睨んで隙がない」 「仮に中まで入って来てもこれで殺せる。……うん、悪くねえな」 満足の行く形を導きだし、ヒカルはふっと肩の力を抜いた。 アキラは静かに微笑み、さりげなく黒石と白石を選り分け始めた。顔を動かさず、黒目だけで時計を確認したヒカルは、アキラがこの一局で対局を終わりにしようとしていることを悟る。 その動きについてはなるべく触れないよう、傍らに置いていた冷えたコーヒーを手にとりながらヒカルは口を開いた。 「お前、しばらく芹澤先生の研究会出てないんだって?」 「ん? ああ、キミの都合がつかなかったことが多かっただろう」 何でもないことのようにアキラが答える。 ヒカルも飽くまで反応しないように、平静を装って言葉を返した。 「俺はともかく、お前は行ける日もあっただろ」 「まあ、そうだけど。キミがいないのに無理に行くことないだろう」 石を選り分けているアキラは気付かない。 ヒカルがじっとアキラを見据えていることに。 我ながら肝が据わったものだとヒカルは苦笑する。 口調を変えずに目だけはしっかりとアキラを捕らえ、動揺しない術も身に付けた。 「……たまに顔出しとけよ。お前、自分とこの研究会もしばらく開いてないだろ」 「そうだね。キミが行ける日なら一緒に行くよ。来週の月曜は?」 「イベントあるからパス」 「じゃあ次の機会だな」 碁石を綺麗に碁笥にしまい、アキラが顔を上げる。ヒカルを見ても何の表情も変えないあたり、ヒカルのポーカーフェイスは合格点をもらえるだろう。 「……もう一局打たねえの?」 あぐらをかいた膝の上、ヒカルは肘をついて手の甲に頬を乗せた。 アキラはそっと口角を持ち上げて微笑む。 「誘うから」 「誰が」 「キミ」 「……俺のせいにすんな」 小さく笑い返すと、アキラが安心したように手を伸ばして来た。 抗わない。触れられるのは好きだ。抱き締められるのも、キスも、セックスも。 アキラの手が碁盤を静かに脇へ避け、ヒカルとの距離を詰める。今日の対局はこれでお終い。今、アキラの頭の中には二人で広げた碁盤の宇宙は存在しない。 ――なあ、お前知ってる? 宇宙ってめちゃくちゃ広いんだぜ。 集中力が途切れると、ずっと忘れていたこの部屋の甘ったるい匂いが鼻に戻って来た。 蕩けるようなチョコレートの香り。甘い空気に支配され、どこの恋人たちも今頃こんなふうに睦み合っているのだろうか。 見上げれば、熱っぽい瞳がヒカルだけを見つめている。 優しさと甘さ。さっき食べたケーキでさえ微かなほろ苦さがあったのに、ひたすら弛んだ情熱的なその目…… 愛してるよ、と囁く声に、俺も好きだよ、と応える。 アキラが好きだ。強引で子供っぽいこの男が好きだ。そのことに迷いも不安もない。 ただの恋人ならこれでいい。でも、勝負の世界に生きる自分達はもうひとつの顔を持っている。 ――今はまだ誰も気がついていない。……俺しか気付いていないはずだ。 チョコレートの噎せ返る匂い。 この部屋で、閉鎖的なこの空間で、小さくも深いアキラの宇宙は甘ったるい闇に包まれている。 その宇宙には「ヒカル」の姿しか見えなくて。 かつてアキラへの想いに迷った時、二人で打った宇宙を思い出す。 二人で目指した究極の高み。今もその高揚感は忘れない。 二人でなら、何処までも行ける。一人では打てないヒカルの碁。アキラの碁もまた一人では完成しない。 二人で創る宇宙の果てのない広さ。 そこに生まれる希望、可能性、夢、あらゆる理想が溢れるように湧き出て来た。 あの時はそれだけで良かった。 ただの恋人ならそれだけで良かった。 今はもうひとつ、越えていかなければならない修羅がある。 絡み付いて来るアキラの腕を受け止めながら、ヒカルはぼんやり艶やかな黒髪を指先で梳く。 こうして熱い腕に抱かれていると、情けなくも迷いが生まれてくる。 刹那の快楽に生きるべきか。この小さな世界に一緒に閉じ込められてしまおうか。 ――でも俺はもっと欲張りだから。 永遠の幸せだなんて、馬鹿げていることを本気で願っている。 終わりが来ないものなんてない。誕生と消失を繰り返すことで星は受け継がれるものだから。 宇宙にも果てはきっとある。 (でも、俺たちの果てはここじゃない) ――俺はそれに気づいた。 お前が、佐為が、たくさんの人が気付かせてくれた。 今度は俺がお前に気付かせる番だ―― *** 早々と起こされた早朝、朝食にはしっかりと昨日のケーキが皿に乗せられ、ヒカルはうんざりと口唇を噛む。 「美味しいって言ったじゃないか」 「言ったけど、朝っぱらから食いたいもんじゃねえよ」 とはいえ、食べられないものではないので渋々口には運ぶ。アキラの不貞腐れる顔を見るのは疲れてしまうから、という理由もあった。 昨夜よりも少しパサついた食感のケーキは、濃い目のコーヒーがちょうど良かった。甘ったるくて苦い朝食を終えたところで食後のキス。アキラの口唇もまた甘かった。 一晩この部屋に居たせいで、甘い匂いに麻痺してしまったのか、鼻が特別に働くことはなくなっていた。 恐らくアキラもずっと麻痺しているのだろう。 無性に苦味が恋しくなって、ヒカルはコーヒーのお代わりを頼んだ。快諾したアキラの笑顔の後ろに、夕べ見つけた甘ったるい宇宙が小さく広がり、弾けて消えた。 |
なんか思わせぶりな話が続いてすいません……
しばらくこんな感じの話が続きそうで更にすいません。
人って満足すると向上心なくなりますよね。
(BGM:COSMOS/BUCK-TICK)