DRAMATIC? DRASTIC!






「ここにツケたらもう後がない」
「む……」
「最初のこっちが悪手だったんだ」
「くそ……」
 碁盤を挟んで向かい合う相手は、切れ長の目が美しくも鋭い黒髪の少年。顎の高さで切り揃えられた髪型は一見すると少女めいているが、きっぱりとした眼差しは男性的なそれだった。普段は物腰柔らかに見えるその表情も、いざ囲碁が絡むと途端に厳しくなる。
 彼よりは幾分子供っぽい様子の進藤ヒカルは、目の前で次々に自分の碁に対する欠点を挙げる塔矢アキラにイライラしてきていた。これが全て当たっているから言い返しようがない。
「ここに打つ前にもっと右辺にも気を配れ! キミは自滅したいのか!?」
「右辺右辺って、ここを守る前にこっちの地を確保しないと何にもならねえだろ!」
「やっぱり分かってないなキミは! 右辺だけのことを言ってるんじゃない、全体を見ろ! こんなんじゃ高段者相手にはすぐ読まれて終わりだ!」
 静かだった碁会所が一気に熱を帯びたのを、訪れていた常連客たちがまたかといった様子で遠巻きに眺めている。
「またやってんのかい。あの二人も飽きねぇなあ」
「喧嘩するほどってヤツなのかしらね。でも進藤くん相手じゃなきゃあんな元気なアキラくん見れないし」
「元気っていうのかねぇ」
 碁会所受付の市河嬢は、常連客の北島にお茶を渡して肩を竦めた。
 アキラが一人で碁会所に訪れている時は、物静かで礼儀正しく、怒鳴り声を上げるなんて想像もつかない「いい子」なのだが。
「付き合う相手のせいかねぇ。進藤が若先生に悪影響与えてるんじゃねえのか」
「悪影響なんて……今までのアキラくんがちょっと大人しすぎたのよ。まだ15歳なんだから、あれくらいでもいいんじゃない?」
 そうかねぇ、と北島はごつごつした指で顎をいじる。
 小さな頃から父親のようにアキラを見守ってきた常連客たちにとって、こんなふうに声を荒げて興奮した様子のアキラの顔は知らないものだった。しかも、不思議と以前よりずっと生き生きして見えるから、第二の父親たちの思いは複雑である。
 少し前からアキラの目には輝きが増していた。
 それはちょうど、ヒカルがブランクから立ち直った頃であり、ヒカルとアキラの二人でこの碁会所を利用するようになった頃でもあった。




「負けましたっ!」
 ヤケクソ気味の口調で、ヒカルが渋々頭を下げながら負けを認める。
 アキラは涼しい顔で検討の準備に入ろうとしている。窓から差し込む光はすでに橙色に変わり、客はすっかりいなくなっていた。
 日暮に気づいたのか、アキラが手を止める。
「こんな時間か。検討は省略する?」
「なんでだよ」
「もう誰もいないだろ。今日は市河さん早めに閉めるって言ってたから。ね」
 アキラがヒカルの肩越しに顔を市河に向けると、少々退屈そうに受付に座っていた彼女は慌てて手を振った。
「いいのよ、検討していって。でもそれ終わったら閉めさせてもらうけど、いい?」
「ごめんね、市河さん」
 アキラは少し眉を下げて微笑した。
 ヒカルは舌打ちする。自分との対局では相当おっかない顔をしてるアキラは、他の人にはにこにこ愛想がいい。
 俺にもちょっとは笑ってみせろよっ! ――当の本人が敵対心むき出しでアキラを見ているものだから無理な話ではあるが、真剣な顔をした時のアキラはちょっと背筋が寒くなるほどの迫力がある。なまじ綺麗な顔立ちだから余計に凄みが増す。
 そんな怖い顔で、時々彼はじっとヒカルの目を見ていることがある。対局中に何度かそうして目が合っている。ちょっとドキッとするような表情は、少なからずヒカルを動揺させるのだ。
(この前の森下先生より怖いかもって時あるからな)
 蛇に睨まれた蛙対策とでもいうのだろうか、おかげで多少の相手の威圧には引くことがなくなっているからすごい。
「あーっ! 久米さん忘れてる〜!」
 突然市河が大声を上げた。何事かとヒカルとアキラが振り返ると、市河の手にはビニール袋に包まれた何かが乗っている。
「ここに来る前に奥さんに頼まれて買ってきたって言ってたのよ。老舗の和菓子だって」
「和菓子……あまり日持ちしないね」
 アキラが心配そうに立ち上がる。市河は時計と手の中の包みを何度か交互に見比べて、一人で何事か納得したのか頷いた。
「ちょっと私追いかけるわ。つい5分前くらいに出て行ったから、バス停まで行けば間に合うかも。」
「俺が行こうか?」
 ヒカルも立ち上がったが、市河はすでに出口に向かおうとしていた。
「ううん、いいわ。二人は検討しててー。悪いけど、戻ってくるまでの留守番だけ頼める?」
「いいよ」
 ヒカルとアキラが同時に答える。
 お願いね、と市河は小走りに碁会所を出て行った。
 立ち上がったままの二人は思わず顔を見合わせ、そこで妙な間が空いた。
「……」
「……」
「……検討、する?」
 ヒカルが声をかけると、どこかぼーっとしていたアキラがはっと頷いた。
 じゃあ座りなおそうか、とヒカルが椅子に手をかけた時、雲の動きが変わったのか強いオレンジの日差しが差し込んでくる。
「わっ」
 ヒカルは思わず腕で顔を覆った。西向きの碁会所の窓は、この時間になると強烈に眩しい。
 もうすぐすっかり暗くなる。晩御飯までには帰ると母親に伝えてあったヒカルは、この検討が終わったらいよいよ帰らなくてはと腕を下ろす。
 眩しさを覚悟したのに、目の前には影が落ちていた。
 不思議に思ったヒカルが見上げようとした時、そこにあったのはアキラの真顔で。
 驚いて飛びのくより先に、その顔は間違いなく近づいてきて、そのまま――ヒカルの口唇が暖かく包まれた。
(エ?)
 押し当てられたものが何かを見ようと視線を下ろすと、目を閉じたアキラの長く揺れる睫毛が目に入る。
(コレ……何?)
 身体が硬直して動かない。
(……キス?)
 ――俺、塔矢とキスしてんの?
 思考の働かない頭にヒカルは必死で呼びかける。脳が命令を忘れてしまったのか、手足の動かし方が分からない。それとも、この事実を理解しようとすることでいっぱいになってしまったのか……ヒカルは最初にアキラにキスされたそのままの格好で、瞬きひとつできないままでいた。
 口唇を包む熱が、静かに離れる。
 すぐに顔を伏せてしまったアキラの表情は、ヒカルからは見えない。
 沈黙は永遠にも続くかと思われた。
 廊下でばたばたと音がする。あっという間に近づいたその音は、戻ってきた市河の気配を二人に確信させた。
「ただいま〜。久米さん、途中で気づいて引き返してきたみたいですぐに会えたのよ。……どうかした?」
 笑顔で戻ってきた市河は、何か妙な気配の二人に気づいたらしい。ヒカルが慌てて取り繕うとしたとき、後ろからジャラジャラと碁石を片付ける音が聞こえてきた。
 アキラは検討をやるはずだった一局をあっという間に崩し、碁石を碁笥にしまおうとしていた。ヒカルが手伝おうかと手を出した頃には全て作業が終わり、アキラはそのままヒカルの横を通り過ぎる。
 どんな表情をしていたか見えなかった。
「市河さん、検討終わったから帰るよ。遅くまでありがとう」
「あ、うん……、気をつけてね」
 市河はどうやら微妙な空気に勘付いているようだ。口籠りながらも、追求せずにアキラにジャケットと鞄を手渡している。
「進藤くんは?」
「お、俺? あ、お、俺も帰るよ」
 ヒカルがアキラの後を追おうとしたが、さっさと碁会所を出て行ったアキラにはすっかりヒカルを待つ気がないらしい。
「……また喧嘩したの?」
「……うーん……」
 いつもの言い争いかと市河が呆れたような顔をしている。
 ヒカルは言葉に詰まったまま、さよなら、と市河に別れを告げた。

 ――喧嘩だって?
 アレは喧嘩っていうのか?
 だって別に怒鳴りあったわけじゃない。罵りあったわけでも、殴りあったわけでもない。
 アキラが、なんの前触れもなくキスをしてきただけだ。
(キスを?)
 ヒカルはそっと自分の口唇に指先を当ててみた。
(なんで?)
 何故?
 ほんのり熱の余韻が残る口唇。
 長い影が伸びる日暮れ時、外に出たヒカルは辺りを見渡すが、アキラの姿はどこにも見えなくなっていた。




とりあえずアキヒカが成立するまでの前段階。
原作に添って書くの苦手なのでちょっと二人とも変ですが
一種のパラレルものとして読んでいただければ……