口唇の柔らかさが離れていかない。 「くそっ」 アキラは並べていた途中の棋譜を投げ出し、正座していた脚を崩す。床に尻をつき、立てた膝におでこを乗せ、先ほどからまとまらない頭を叱咤するように前髪を掴んだ。 石の並びが頭に入ってこない。今までは碁に集中することで余計なことを忘れていられたというのに、今日はその集中さえもできなくなってしまっている。 「ボクは馬鹿だ……」 なんて馬鹿だ。 とんでもないことをしてしまった。 夢の続きを現実に求めるなんて、そんな馬鹿なこと―― 初めてアキラがヒカルに出会ったのは、もう三年も前のこと。 自分と変わらぬ年齢の、しかも対局経験がないという少年に屈辱的な負け方をした。それも二度。 それまで少なからず自分の棋力に自信のあったアキラは、彼を越えることを目標に日々の勉強にますます励むこととなった。彼こそが、今までは現れることのなかった、唯一のライバルであると信じて。 ところが、次に出会ったヒカルはまるで別人のような素人碁を打ってきたのだ。 深く失望したアキラが彼を見限ろうとすると、何故か彼は自分を追ってきた。一歩一歩ゆっくりと前に進む自分を全速力で追いかけてくるような、恐るべきスピードで。 そして、二年と四ヶ月ぶりの再戦で、アキラはヒカルが自分のすぐ後ろまで追い詰めてきていたことを確信した。 物心ついた時から碁に親しんできた自分にとって、ヒカルの成長速度は脅威である。追い越させない、追いつかせない。今度こそ本当に彼を生涯のライバルと認め、それでいて自分は常に一歩先を行ってみせると、アキラは決心を新たにしていた。 でも、それだけではなかった。 彼をあんまり特別視しすぎてたせいか、妙な気持ちがチラホラ表れ始めたのだ。 最初、胸の辺りがチクチクするのは、単なる闘争心かと思っていた。または、才能を無駄に埋もれさせている彼への苛立ちか。 ヒカルの言動に異常なまでの苛立ちを感じたことも一度や二度ではない。彼がいろいろなことをあまりに楽観して考えているから、それが腹立たしいのかと思っていた。 でも、それだけではなかった。 ヒカルは夢にまで現れる。夢の中のヒカルはとても素直で、純粋で、そんな夢の彼にアキラは苛立ちもしなかったし、目覚めの後の切ない幸せな気持ちは何とも言えないものだった。だから、アキラは夢でヒカルと会うのはとても好きだった。 夢の中のヒカルは、きらきらした髪で微笑んでくれる。その柔らかそうな前髪に触れても、頬に触れても、手をつないでも、いつも嬉しそうに笑ってくれるのだ。 ヒカルはとても驚いた顔をしていた。 夢の中のヒカルなら、キスの後必ず笑ってくれる。 だからあれは夢じゃない。 現実なんだ…… *** 碁石を並べるたびに、ちらりと上目遣いでアキラの顔を確認する。 アキラは碁盤を睨んだまま、いつもと全く変わらない口調でずけずけと物を言う。 「ひどい碁だな。負けてるじゃないか」 「何言ってんだよ、逆転してるだろ!」 思わずヒカルも言い返したが、それにしても調子が狂う。 アキラがいつも通りすぎて狂うのだ。 (この前のは、なんだったんだよ) ……なんて聞けない。 あんな冗談、アキラには似合わない。ではもし冗談でなかったとして、今こうして何事もなかったかのように普段の顔で対峙しているなんてことあるだろうか。 (なんか言えよ) でないと聞けない。自分からなんて聞けない。 なんでキスしたんだよ。 (そもそもあれってキス?) ヒカルは恥ずかしいのを堪えて、あの日の夕方の出来事を思い出す。 自分の口唇に押し当てられたのは、紛れもなくアキラの口唇。……それってやっぱりキス。 (……俺、初めてだったのに) 気づけば碁にばかり夢中になって、色恋にはすっかり縁遠くなってしまっていた。初恋もろくにしていなくて、学生という身分でもなくなり、キスだなんてテレビの中だけで起こっているようなことだと思っていたのに…… (……塔矢は初めてじゃないのかな) 慣れてるかそうかも分からないような、押し当てただけのキス。 ホントに、なんでキスしたんだろう。 (なあ、なんか言えよ) いつものように検討。いつものように手の探りあい。いつものように言い争って、いつものようにヒカルがふてくされる。 何もかもいつも通り、でもやっぱり少しだけ何かが違う。 ……だってあの時、アキラの口唇はひどく熱かったから。 閉じられた瞼の先で、長い睫毛が揺れていた。二人とも息を止めて、まるで時間も止まったみたいな静かな中で、睫毛だけが頼り無気に揺れていた。 (本当は震えてた?) あの日怯えたように顔を隠したアキラは、今ヒカルの目の前で変わらない塔矢アキラの仮面をかぶっている。どうにかしてこの仮面を剥がしたいのに、アキラは涼しい顔で碁盤の前に座っている。無性に苛立ちばかりが募っていく。 いまいち口喧嘩にも調子が出ず、ヒカルは渋々アキラにけなされた自分の一局を崩しにかかった。 「えらそーにしてるのも今のうちだぜ。いつか公式戦でお前に勝ってやる」 アキラは憎まれ口にも平然として見える。 あの出来事から、碁会所で顔を合わせるのは初めてだったというのに、アキラにはごく普通にヒカルを迎えた。それで逆に自分が動揺したのはヒカルで、そのことが余計に悔しくて、また腹が立つのだ。 (やっぱからかわれたのかな?) それならそうと、もっととことんからかってくれたほうがいい。 これじゃ生殺しだ――ヒカルが睨み付けてもアキラは目線を合わせない。 いつも通りなのに、いつもと違う。 こっちを見ない。アキラは絶妙なタイミングで視線を逸らしてくる。真剣な眼差しでヒカルにキスした、あの目でヒカルを見ようとしない。 (こっち向けって) アキラの目を向かせたい。 何とかしてこっちを向かせたいのに。 「北斗杯の予選がある! そこでお前と勝負できるかも!」 アキラはヒカルを見ようとしない。 ――なあ、なんでもいいからなんか言ってくれよ。 あれは冗談だったんだ、とか。それか、ちょっと気まずそうな顔とかでもいいから。 きっかけを探して言葉を繋げるのは、不器用な自分には相当な努力が必要だというのに。 「その北斗杯、ボクは予選に出ない。もう選手に決定している」 アキラから出てくる言葉は素っ気無くて、やっぱり視線も滑らせたまま。 「なんだそれ! なんでお前だけでない!?」 せめて言い争っていたほうが気持ちが楽になる。くだらないことで怒鳴りあえたら、もやもやした気持ちがマシになるような気がする。 ――でないと、俺ばっか悩んでなんか損してるみたいじゃん。 なんとか喧嘩を吹っかけたくても、アキラはのって来ないし、その上事情を知らない周りの大人までもがいつも通りに自分を嗜めにかかる。 「おいおい、他の棋戦だって実績のある人はシードになったりしてるだろ」 「当たり前のことじゃないか」 「若先生はリーグ入りしてるんだ、文句ナシさ」 (ったく、若センセー、センセーって、こいつはこの前俺にキスしたんだぞ!) ――それなのにお前ばっかり涼しい顔しやがって! ヒカルの頭の中で、忍耐という文字が消える。 ヒカルは腹を括って立ち上がった。 「北斗杯までここには来ねぇよ」 それはヒカルなりの精一杯の牽制だった。 俺からなんか絶対に聞いてやるもんか――ヒカルが視線に全てを込めてアキラを睨むと、ようやく少しだけアキラの瞳がゆらゆら揺れたような気がした。 今頃になってちょっと動揺したって遅いからな。ヒカルはアキラに背を向け、威勢良く碁会所を後にする。 元々、アキラがいつも何考えてるかなんてよく分からなかった。 アキラとの話題はいつも碁一色だし、それも気軽に話せるようになったのはごく最近だ。あの二年四ヶ月ぶりの再戦以来、アキラは自ら自分が通う碁会所をヒカルに紹介し、誘ってきたのだ。一緒に打とうと。 力はまだ及ばないとしても、アキラが自分を相手として選んでくれた。アキラに無視を決め込まれた頃を思い起こすと、それだけでヒカルにとっては嬉しかった。 それぞれの思う碁の形があり、衝突は絶えなかったが、こうして本気で最善の一手について話し合う時間は何にも変え難いものだと思っていた。これからも、何百回も何千回もアキラとの碁を楽しめる――そう思っていたのに。 あの日、何か特別なことがあっただろうか? いつも通りに碁を打ち、検討しようとしていただけのこと。 その前後に会話らしい会話もなく、次に会った時もだんまりを決め込まれて、目すらもマトモに合わせてもらえないのでは、もうヒカルにはまさしく打つ手がない。 はっきりしないのはあまり好きじゃないのに。 「やりにくいじゃん……」 呟いて見上げた碁会所の窓、アキラは今どんな顔をしているんだろう。 (もう知らねえ) 今は目の前の目標に集中しよう――ヒカルは家路を急いだ。 アキラ抜きでも強くなってみせる。 |
あー後半かなり苦しい感じです。
アキラ視点のほうがイッちゃってて書きやすい気がする。