「おーい、和谷」 後ろから呼び止められた声に振り向き、和谷はその視界に伊角の姿を認めて立ち止まった。 「伊角さん」 「お前も出版部か?」 軽く息を切らせた伊角に、和谷は眉を持ち上げて笑う。 「伊角さんも?」 「まあな。指導碁終わってから急いでここまで来たよ」 「やっぱり気になるもんなあ。……てことは、結果はまだ知らない?」 伊角が肩を竦めた。どうやら何も知らないらしい。 言ってもいいの? とからかうような上目遣いの和谷に、伊角は苦笑して首を捻る。降参を表すポーズだった。 「……結果は?」 「……進藤の半目勝ち」 二人は目を見合わせたまま、数秒言葉を噤んだ。 どこか感慨深げな、それでいてささやかな嫉妬を含んだ視線が静かに交差した。 「アイツ、どんどん駆け上がっていくな」 「……モタモタしてたら差が開くばっかりだぜ」 「行こう、和谷。早く棋譜を見たい」 「ああ」 歩みを速めた伊角に続き、和谷も小走りに廊下を進む。 今日は王座戦本戦トーナメント二回戦。倉田八段と進藤三段の対局はお互いに持ち時間をほぼ使い切り、最後の最後まで縺れた勝負の行方、それは初トーナメント入りした三段の快挙と言えるものだった。 和谷と伊角が連れ立ってやってきた出版部では、ある一角に五、六人の人だかりができていた。 「なんだろ?」 「……ひょっとして」 二人がその塊に近づくと、彼らは一人が手にした棋譜を中心に据えてうんうん唸っている。ほとんど出版部の人間が占めるその集まりの中に、門脇の姿を見つけた伊角が声をかけた。 「門脇さん」 その声に出版部の人間共々、門脇が振り向いた。 「おう、伊角か。和谷も」 「門脇さん、みんなが見てるのってひょっとして」 和谷が興奮を隠せずに早口でまくし立てると、反して門脇はじっくりと頷いた。 「さっきの倉田・進藤戦だよ」 「やっぱり……」 和谷は人だかりを掻き分けるように頭を突っ込み、輪の中心にある棋譜に目を走らせる。 伊角は、和谷から一歩下がったところで門脇を振り返り、その表情を伺いながら口を開いた。 「門脇さんはもう棋譜を見たんですか?」 「まあな。この通り、押し合い圧し合いで騒ぎながら見たからじっくりってわけじゃないが」 「進藤は……どんな碁を?」 「……」 門脇は少し黙り、何か考えるような含みのある視線を伊角に向けた。 「まあ、実際見てみるのが一番手っ取り早いんだが。一言で言うなら……」 「言うなら?」 「完璧な碁、かな」 「……」 伊角がごくりと生唾を飲み込んだ。 「ちょっと背筋が寒くなるような棋譜だぜ。おい、重田さん」 門脇は輪の中の一人に声をかけ、重田と呼ばれた男が首を持ち上げた。出版部の記者の一人である重田は、年が若いせいか若手棋士たちから声をかけやすい相手と親しまれている気の好い青年だった。 「俺ら若手棋士のためにその棋譜コピーしてくれない?」 「門脇さんが若手棋士ってなんか凄く違和感あるなあ」 出版部にどっと笑いが起こる。 門脇はむっとした顔をするフリをしつつ、一旦輪の外に出された棋譜のコピーを重田から受け取った。 律儀にも人数分のコピーをとってくれた重田の手から、和谷と伊角も同様の棋譜を受け取る。 三人は並んで棋譜を手にし、食い入るようにその譜面を見つめた。 和谷は、漠然と目を通したその棋譜の形を頭に入れた瞬間、さっと顔色を変えた。 「……凄いな、これは。二人とも、どこまで読みきってるんだ」 伊角の呟きにも、和谷はすぐに反応しない。返事がないことを不思議に思ったらしい伊角が首を傾げた。 「和谷?」 隣の伊角が少し背を屈めて尋ねると、ようやく和谷はびくりと身体を揺らして振り返った。誰に呼ばれたのか分からないと言った、寝ぼけたようなうつろな目だった。 「え、あ、な、何?」 「……お前大丈夫か? 聞いてたか、俺の話」 和谷が気まずそうに眉を垂らす。……何も耳に入っていなかったようだ。 門脇がため息をつきながら茶化すような調子で口を挟んだ。 「大方棋譜に見蕩れてたんだろ。確かに凄いよ、特にこれ。ここの倉田さんのツケ、ちびりそうだ。でも進藤は冷静に迎え撃って……」 「……白をはじき出したのか。なんて攻防だ。進藤も倉田さんも……」 「重い半目だぜ。どっちが勝ってもおかしくなかった」 門脇と伊角の会話をぼんやり聞いているのかいないのか、和谷は棋譜をじっと睨んだまま一言も口を開かない。軽く顰めた眉がぴくぴくと動き、何だか神妙な顔つきをして石の並びを見つめている。 伊角がいよいよ和谷の様子を不審に思い始めた時、一通り棋譜の流れを追っていたらしい出版部の輪が解れ始めた。 「いやあ、しかしここにきて頭角表してきましたね。数年前から進藤くんを推す声はありましたけど」 重田が口火を切ると、次々に他の人間も口を開き始めたため、出版部はごく軽い喧騒に包まれた。 「どうも彼は安定しきらないところがあったからなあ。ずっと評価が二分していたよね」 「一回目の北斗杯はなかなかよかったけど、去年は酷いもんでしたしね」 「棋戦でもいまいちぱっとしない結果が続いていたからなあ。塔矢アキラのライバルって話もあったけど、俺は半信半疑だったよ」 何人かが割と穏やかな口調でヒカルのこれまでの評価を口にすると、重田を始め年若い連中が反論するように少し声を大きくした。 「でもこの一局は評価されるべきですよ。かなり長孝が続きましたが、ここまでやるとは思わなかった」 「あの倉田を最後に捻じ伏せましたからね! ちょっと特集組んでもいいんじゃないですかね?」 興奮気味に話し合う彼らを眺めて、門脇は軽く肩を竦めた。 隣の伊角を脇で突付き、出ようと促す門脇に伊角は頷いて、反対隣にいる和谷の肩に手をかけた。 「和谷、行こう。」 和谷はその軽い衝撃にもぴくっと肩を震わせて、棋譜を見たまま曖昧に頷いた。 伊角はその様子を不審気に見下ろしていたが、すでにドアのところで二人が来るのを待っている門脇を見て、和谷の腕を引っ張った。和谷は特に抵抗する様子もなく、伊角に力なく引き摺られるように出版部を後にすることとなった。 「それにしても、これで本戦三回戦進出か、アイツは」 門脇は丸めた棋譜を筒のように持ち、ぽんぽんと肩を叩いた。 その隣を歩く伊角は、苦笑いしながらどことなく目を泳がせていた。 「なんだか、少し前まで一緒に院生やってたような気がしてたのになあ」 「おいおい伊角、その発言オッサンだぞ」 「門脇さんに言われると堪えるなあ」 笑う伊角に、門脇は引き攣った微笑みで応酬した。 「まあ、俺も似たようなこと考えたよ。ころっころしたガキだったのになあって」 門脇は肩が凝ったように軽く首を回しながら、ぎょろりと黒目を天井に向けて昔を懐かしむようにため息をついた。 伊角もまた、手の中の棋譜に再び目を通しながらため息をつく。 「本当に……こんな碁を打つようになってるなんて」 「ああ、こんな碁が戻ってくるなんて」 お互いの言葉に、伊角と門脇は顔を見合わせる。 「門脇さん……戻ってくるって?」 「伊角こそ、院生時代から進藤を知ってるんだろ? だったらこれが本来の彼の力だって納得してんじゃないのか?」 二人はそれぞれ「?」マークを頭に飛ばしながら、噛み合わない会話に首を傾げた。 そんな中、和谷だけがどこかぼーっとした表情のままで棋譜をじっと見つめていた。 |
ちょっと小休止。
初の和谷視点です。