DRIVE ME CRAZY






 伊角と門脇に別れを告げ、一人帰路についた和谷は、自室に戻るなり荷物を放り投げて例の棋譜を取り出した。
 畳の床、部屋のど真ん中に棋譜を置いて、どっかり胡坐をかいて覗き込む。
「……なんて碁だよ、まったく」
 狭い部屋に自分一人の声が響く。
 目が眩むような棋譜だ。倉田の細やかな攻めを次々に躱し、更にそれを押さえつけるようなヒカルの打ちまわし。その凌ぎには無理がなく、美しささえ感じられる。
 もちろん、伊角や門脇のような感慨深い気持ちもある。院生二組の最下位時代からヒカルを見てきた和谷である。あの弟分がタイトル戦に絡んで格上の棋士に勝利するまでになったのかと、しみじみ腕を組みたいのは山々だ。
 トーナメント入りが決まった時も、そんなふうに思った。嬉しい反面羨ましさもある。だが、去年の北斗杯以来ヒカルの碁の評価はかなり上向きに戻り、特にこのトーナメント入りをかけた一局は森下ですら唸る名局だったのだ。それを素直に祝福したいという気持ちは強い。
 今日だって、実際に棋譜を見るまではそんな気分だった。和谷もまた伊角のように指導碁を終え、逸る気持ちを押さえて棋院に駆けつけた時にはすでにヒカルの勝利が聞こえてきていた。
 あいつ、やりやがった――自分より先に高いところへ駆け上がっていくヒカルの背中を見るのは悔しくもあるが、身近な仲間の勝利を純粋に嬉しいとも思った。どんな碁を打ったのか、詳しく見てみたいと出版部へ急いだ。
 そして手に入れた棋譜を見て、愕然とする。
 強さはさることながら、あまりに美しい石の並び。門脇が背筋が寒くなると言ったのも頷ける。
 しかし、それよりも、これではまるで……
「……sai……」
 和谷は、呟いたその名前が酷く口に懐かしい響きだと目を細めた。
 かつてネット上の囲碁界を震撼させたsai。和谷自身、saiとの対局を経験したこともある。
 その強さは完璧だった。あの名人塔矢行洋さえもsaiの前に敗れ去った。和谷が知るところ、saiが負けたのを見たことがない。
 行洋との一局後、saiはネットから姿を消してしまった。一時期偽者が出没したようだが、和谷が憧れ、そして怖れたsaiの碁はもう見ることができないものかと思っていた。
 それが、こんなところで。
「……まさか……」
 棋譜を見て、黒石の動きを追い、すぐにsaiを思い浮かべた。
 蘇る過去の会話。――その昔、まだ和谷もヒカルも院生だった頃、和谷はヒカルがsaiの弟子ではないかと疑ったことがあったのだ。
 その時はそんなはずがないとヒカルが否定し、お互い一笑に付したものの、あれから何年も経った今、ヒカルがこんな一局を再現しようとは夢にも思わなかった。
 再現。言いえて妙である。ヒカルと倉田の公式手合はこれが初めてで、おまけに過去のsaiと全く同じ対局をしたわけではない。
 しかし、この攻め、この守り、この模様。saiが蘇ったかのようなこの棋譜は、まさしく再現という言葉が相応しかった。ヒカルらしい巧妙な一手もところどころ見られるのだが、この棋譜だけを見せられて誰の碁かと尋ねられたら、すぐにヒカルの名前は出せない、そう思った。
 和谷は棋譜を眺めながら、一手一手に目を見張る。saiと見紛うほどの棋譜ということは、それだけヒカルが素晴らしい一局を打ったということだ。
 いつの間に、ここまで差をつけられてしまったのだろう。
 和谷は肩の力をかくんと抜いて、はあ、と部屋に響き渡るような大きなため息をついた。
 中央を突っ切って上辺を荒らす、その黒模様の鮮やかなこと。倉田の白石とギリギリまでせめぎ合う様子は、さながら一枚の絵画のような印象を受ける。
 今の自分に、こんな碁を打てと言われても無理な話だ。本戦どころか、各棋戦の三次予選に勝ち残るのも厳しい今の自分では。
 和谷は落とした肩を逸らし、今度は背中側の床に両手をついて、仰け反るように天井を見た。
 ――ヒカルには、天賦の才がある。
 いつしか、こんな言葉で自分を慰めるようになっていた。
 分かっている、問題はそれだけではない。自分に見えないところでヒカルもきっと努力しているのだ。その努力が、自分を上回っている、本当はそれだけのこと。
 しかし、努力だけでは超えられない壁もあると、やけっぱちな結論に縋りたくなる時もある。
 和谷はそのまま背中から倒れ、両手両足を床に投げ出した。
 どんどん、手が届かない存在になっていく。
「……アイツ、ちゃんと休んでっかな」
 そのくせ、ぽつりと呟いた言葉には往生際の悪い兄貴風が吹いている。
 ここ最近、ヒカルの顔色がよくないことには気づいていた。
 心配する言葉をかけても、軽く笑ってはぐらかされる。
 いつの間にか、傍にいるだけで周りの人間も釣られてしまうような朗らかな笑顔が、ヒカルから消えていた。
 その代わり、少し伏せた目を余裕なく光らせて、僅かに寄せた眉で難しい表情を造り上げ、声をかけるのも躊躇われるようなピリピリした雰囲気を纏うようになった。
 和谷がそんなヒカルに気づいた時、まさにヒカルは連勝続きの快進撃をひた走りし始めていた。今月のヒカルの手合いに黒星はない。今までも勝ち星は多かったものの、最近はやけに早くカタをつけているようで、何かに追われて焦っているようにも見えた。
 碁の勉強に根を詰めすぎて、身体に無理をかけているのではないだろうか? そんな不安が浮かんだが、ヒカルが不調を訴えて手合いを休むことはなかったし、具合が悪いのとはまた少し違った様子なのだ。
 ギリギリまで精神を追い詰めて、必死で集中しているように見える。対局中の鬼気迫る様子は息を飲むほどだ。何がヒカルをそこまで駆り立てるのか、和谷には想像すべくもない。
 何かきっかけがあったのは間違いない。和谷が覚えている限り、ヒカルの変化はごく最近、唐突に始まったからだ。
 しかし、何も語らないヒカルにどこまで踏み込んでいいものか、迷っている自分がいる。
 ……友達だと思っているのに。
「……アイツ、何にも相談してくんねえしなあ……」
 寝転がったまま、弱々しく独り言を吐いた自分は酷く惨めな存在に思えた。
 何年か前、ヒカルが突然碁を打たなくなった、あの時の気分に似ている。ヒカルのために何かしてやりたかったけれど、結局何もできなかったあの時。
 思いばかりが空回りして、自分の力を借りなくとも立ち直ったヒカルを見て少し物悲しい気持ちを覚えたあの時。
 今も同じ。ヒカルは自分の心配なんか振り切って、一人で何処かへ向かっている。
 どんどん遠くなるヒカルの影を、追いかけ続けていたらいつかは捕まえられるのだろうか?
 和谷はごろりと寝返りをうち、腕枕に頭を乗せて、再びふうっとため息をついた。
 考えてたって仕方ない。
 明日は森下門下の研究会がある。ヒカルに、二回戦勝利のお祝いを言ってやろう。この見事な一局を二人で検討してみたい。それから、もし……ヒカルの様子が穏やかなら、saiのことを覚えているかなんて尋ねてみようか……
 ごろごろ転がりながら、和谷はそんなことを考えてひっそり明日へと夢を馳せた。




 ***




「えっ、休み?」
 翌日の研究会で、和谷が白川から聞かされた言葉は思いのほか衝撃的だった。
 ヒカルから体調がよくないという理由で森下門下の研究会を休むと、白川に連絡があったというのだ。研究会にやってきて初めてそれを耳にした和谷は、何ともいえない悔しさのようなものを感じて歯噛みする。
「アイツ、俺に言えばいいのに……」
「君に心配かけたくなかったんだろうね」
 さらりと告げた白川を、思わずまじまじと見てしまった。
 白川は表情こそ穏やかだが、その目は真っ直ぐ和谷を見据えている。
「そういう気の使い方をするようになったよ、彼は」
 和谷は息を飲む。その深い瞳の色に、心の弱さまでも見透かされているような気がした。
 大丈夫か、ちゃんと食べてんのか。――そんな声をかけるたび、ヒカルは曖昧に微笑んで、大丈夫だと答えてくれていた。大丈夫じゃなくても、そう答えざるを得ない状況を自分が作り出していたとしたら?
 そう、いつもなら何も言わずに研究会をサボったのかもしれない。でもそうしたら、自分が「何故休んだ」と問い詰めるだろうことが予想できたから、あえて白川に連絡を入れたとしたら……
 喉の奥に何やら苦いものが染みたような気がする。
「昨日の一戦が堪えてんじゃないのか。凄い一局だったからなあ」
 ふと、力の入りかかった和谷の肩を解すような冴木の声が、二人の間に割って入ってきた。
 途端に白川の眼差しがいつものように柔らかくなる。
「冴木くん、見ていたの?」
「ええ、何度か対局覗きに行きましたから。後半はずっと見てましたよ。なんていうか、息をするのも躊躇うくらいの緊迫感があって、凄かった」
 冴木は目の前の碁盤に腰を下ろし、黒石と白石をパチパチ並べて昨日の一局を再現してくれた。
 白川に続き、和谷も恐る恐る覗き込む。
「ここで……こう! 俺なら、この一手で投了しますね」
「それでも巻き返しを図った倉田くんもさすがだね。この後のこれ、進藤くんもちょっとやりづらそうだ」
 白川と冴木の手が碁盤の上で目まぐるしく動く。和谷はその様子をぼんやり眺めながら、もしここにヒカルがいたらどんなふうにこの碁盤を見つめるだろう、なんて考えたりした。
 ――一緒に検討、したかったなあ。昨日凄かったぜって、アイツの背中叩いてやりたかったなあ……
『君に心配かけたくなかったんだろうね』
 ――馬鹿だな、アイツ。アイツは周りに心配かけるくらいで丁度いいってんだ……
 和谷は軽く眉を寄せ、黒石と白石が並ぶ碁盤を見下ろしながら、小さな声で冴木に尋ねた。
「冴木さん……アイツ、どんな感じだった?」
「ん? どんな感じって?」
「打ってる時。アイツ、……楽しそうにやってた?」
 冴木は顎に指を添え、考えるように視線を天井へ向けた。
「うーん、やっぱり張り詰めてる感じしたなあ。対局前、俺声かけたんだけど聞こえてなかったみたいだし。物凄い集中力で、ちょっと怖いくらいだったな」
「……そうなんだ」
「打ってる最中もずっとピリピリしてたよ。長孝中なんか息してるのかってくらい微動だにしなくて。相当気合入ってたんだろうな。終わった後、精根尽き果てたみたいにぐったりして、アイツ検討もしないで先に帰ったんだ。残った倉田さんと、その場にいた俺らで少し検討したんだけど」
 和谷は口唇を噛む。
 気合? ……本当に、そんな簡単な言葉で表すことができるようなものだろうか?
「まあ、タイトル戦になったらみんなそんなもんだぜ。五番、七番勝負で体重がごっそり落ちる人もいるって言うし」
 冴木の言葉に口元だけ笑みを返して、和谷は再び碁盤を見つめた。
 一手一手、ヒカルが全身全霊を込めて打った碁。
 対局以外でも張り詰めた空気。疲れた表情。勝ち続けることの代償がそれだというのだろうか。
(……なあ、お前、今……楽しんで打ってるか?)
 誰もが痺れるような碁を打っても、賞賛される勝利を続けても、お前が楽しくなかったら何にも意味がないんじゃないかなんて……今俺がそんなこと言ったら、お前は怒るかなあ……






和谷なりの思いはいつも報われていないような。
和谷って極端な性格揃いのヒカ碁メンバーの中で
物凄く普通の人間臭い男の子ですよね。