DRIVE ME CRAZY






「そんなことない」
 きっぱりとした自分の声に自信を持たせるよう、社は誰も見ていないのに胸を張った。
「碁を打つのは俺らの夢や。打つのが好きでしゃーない碁馬鹿がこの商売やっとんのや。楽しんで打って何が悪い」
 はっきりとした言葉で告げると、その言葉が熱を持って身体の奥に溶け込んでいくような気がする。
 それはただの理想でも希望でもない、現実としての宣言だった。
 碁打ちとしてプロを名乗る以上、常に勝ち負けの世界に晒される。
 実力勝負のシビアな空間で生き残るには、それなりの努力を伴わなければならない。
 悩み苦しみ、出口の見えない迷路を彷徨うこともあるだろう。深い歴史を持つ黒と白の石は、今なお進化を続けて碁打ちを永久に惑わせる。
 その道を選んだのは自分たちだ。
 碁を打つこと、それを生きる糧とし、その道を追求し続けることを選んだのは、碁を愛しているからだ。
 碁を打つ喜び。それを噛み締めてこその苦痛の時代。ヒカルも今、そんなところにいるのだろうか。
「進藤、今壁に当たっとるのかもしれへんな」
『壁……』
「壁を越えたら、きっと碁の楽しさも取り戻すやろ。アイツ、碁が大好きやから」
『……そうだよな……』
 和谷の、どこかほっとしたような柔らかい同意に社も安堵した。
 顔が見えるはずないのに、社は何度も頷いた。ひょっとしたら、東京の空の下で和谷も同じように頷き合っていたかもしれない。
 不安は誰にでもある。碁打ちの目指す場所は同じ。高みに向かって飛び続けるしかない。
 その途中で襲ってくる迷いや怖れを振り切って、それでもなお碁を愛した者が上に立つのだ。
 ヒカルはきっとより高い場所を目指している。
 遅れをとる訳にはいかない。
(……大丈夫や。アイツ、きっと越えてくる。)
 こんなふうに余計な心配をするより、少しでも棋力を上げてヒカルを迎え討つくらいの気構えでいるべきだ。北斗杯の予選まであと二ヶ月切った。和谷の言う通り、気合を入れてかからねば。
 ヒカルが完璧な碁を打ったのなら、自分はそれ以上を目指すのだ。そう、せっかく手に入れたこの貴重な棋譜を見て、尻込みしているだけなんて情けない。時間はいくらあっても足りない、これからこの棋譜を徹底的に検討しよう。社は沸々と胸の内に滾る情熱の炎を感じて、心地よく目を閉じた。
 和谷とお互いに檄を飛ばしあい、最後は二人とも明るい声になって、社は静かに電話を切った。目の前の棋譜は、今や社の不安を煽るものから闘争心を燃やすものに変化していた。
 今夜はとことん碁の勉強したる! ――そんな宣言と共に社が拳を握り締めた途端、階下から自分を呼ぶ母の声が聞こえてきた。気合いを入れた傍から出鼻をくじかれて、誰もいない部屋でも社はガクリとコケることを忘れない。
「なんやねん、盛り上がっとるのに」
 ぶつぶつ不満を尖らせた口唇で呟きながら、居間へ降りていった社を、正座をした両親が揃って待ち構えていた。二人が黙って並ぶ様子に社は一瞬ぎょっとする。
 父はいつの間に帰ってきていたのだろうと少し驚いたが、何より父親の無言かつ厳しい視線がじっと社を捉えているのに気づいて僅かに尻込みする。
「清春。座れ」
 父に短く命令され、社はその場に恐る恐る膝をつく。なんとなく胡坐をかく雰囲気ではなく、背中を丸めながら正座した。
 上目遣いで父親の様子を伺う。父が改まるなんて、そう滅多にあることではない。
 思い出すのは、囲碁のプロになりたいと話し合った時。高校に進学するかどうかでもめた時。そんな時、いつも父はこんなふうに正座をして社と向かい合った。
 あまり声を荒げない父に対して社はすぐカッとなるが、寡黙な父が淡々と正論を語り始めると社は反論できなくなってしまう。これまでの話し合いは、そんな状況で若干社の分が悪いまま終了していた。
 言葉でうまく説明できないなら、と力で示そうとしたものの、囲碁はともかく高校生活はすっかりおまけのようになってしまっている。もしや成績のことで何か言われるのだろうかと、社は口唇を噛んで身構えた。
 ところが、父の口から出てきた言葉は社の予想外のものだった。
「清春。お前、十八になったらこの家出ろ」
「……は?」
 ぽかんと、大口を開けた間抜け面で社はまじまじと父を見た。
 父は真顔を少しも歪ませることなく、真っ直ぐ社の目を見て今の言葉を告げたのだ。
「出ろって……、十八って……」
 たった今、言われた言葉の意味を混乱する頭で考えてみる。
 五月生まれの社が、十八歳になるまであと四ヶ月もない。
 唐突に家を出ろとは何事だろう。今までそんなこと、言う素振りも見せなかったというのに。
(……まさか……)
 社の頭にある仮説が浮かんだ。
 その仮説が本当なら、とても受け入れ難いものだった。
 しかし他に理由が考えられない。出ろと言ったきり口を閉ざした父親が、本当にそんなことを考えているのだろうか――それは碁打ちとして社会に出ていながら、学生でありこの家の長男でもある社にとっては屈辱的なことだった。
 社は震え出す口唇を叱咤するように引き締め、顔を上げて正面から父親を睨んだ。
「俺を見限ったっちゅうことかい」
「……」
「いつまでも囲碁に現抜かしとる長男なんて、とっとと出てけっちゅうことかい!」
 思わず立ち上がった社を母親が諫める。父は何も言わず、社の目をじっと見ていた。
「そりゃ、きっちり卒業するって約束した高校の成績はいまいちや! 両立させる言うたけど、碁のほうに熱傾いとるのは認める! せやけど、俺なりに認めてもらおう思って、仕事でクタクタなってもちゃんと学校行っとるやないか! それでも不満か、このクソオヤジ!」
「清春! あんたお父さんになんてこと言うんや」
「おかんは黙っとれ! いいか、俺は絶対出ていかへんからな! お前らが俺を認めるまでこの家居座ったる!」
 乱暴に吐き捨てて、怒りで顔を真っ赤にした社は両親に背を向けた。清春、と呼ぶ母の声を振り切って、階段を駆け上がり自室へ飛び込む。
 ――なんやクソ、馬鹿にしよって!
 社は碁盤の横を通り抜けて、これまでは形ばかりだった勉強机に向かってどすんと腰掛けた。
 こうなったら、何が何でもあのクソオヤジに自分を認めさせてやる。囲碁と勉強との両立は口だけではないことを証明するのだ――社は鞄で眠っていた教科書や埃を被っている参考書を次々と机の脇に積み上げ、片っ端から開き始めた。
 苦手な国語、もっと苦手な英語、もっともっと苦手な数学、もっともっともっと苦手な……
 次の期末、十番以内に入ってみせる。いや、二十番……待てよ、五十番……まあ、百番以内くらいでもいいか……
 要するに、赤点さえ取らなければいい。無事に卒業できればそれでいい!
「今に見とけーっ!」



 一方、社が鼻息荒く出て行った居間では、母親がため息をついていた。
「まったく。あんた、何で何も言わへんの」
「……」
「十八言うたら、結婚も出来る年やもんねえ。お前のやりたいこと認めたるからもう一人立ちしろって何で言えへんの」
 父は相変わらず口を噤み、テーブルに置きっぱなしの冷めた茶に手を伸ばした。
「頑固なんやから」
 母は冷たい茶を啜る父を呆れた表情で眺め、再びため息をつく。
「それにしても、清春も早とちりの阿呆やなあ」
「……」
「頑固なあんたとええ勝負やわ」
「……」
 もう知らんで、と立ち上がった母親は、それでも無言の父のために暖かいお茶を淹れようと台所へ足を向けた。
 すぐに頭に血が昇る長男は、父親がとっくに彼の夢を認めていることに全く気付いていない。普段は妙なところで勘がいいのに(「今日のおかずはハンバーグやろ」とか)、どうしてこんな時に鈍感なのだろう。
 父親は父親で、そんな息子の鈍感さを放置してしまっている。肝心なことはひとつも口に出さない。寡黙と言えば聞こえはいいが、要するに口下手なのだ。あれだけ反対していた手前、正面切って認めてやるというのが恥ずかしいのかもしれない。
 どちらも素直じゃないんだからと、母は呆れた男達に三度目のため息をついた。
 まあ、清春の阿呆は今に始まったことじゃない。頃合を見て、そのうち本当のことを伝えればいいだろう……
 そんな呑気な母の考えは露知らず、社はその晩遅くまで机に向かい、翌日軽い知恵熱を出して学校を休むハメになってしまった。卒業への道のりは前途多難である。






和谷は和谷の、社は社の道を行きます。
ヒカルとアキラにもそれぞれの道があるんですよね。
(BGM:DRIVE ME CRAZY/山下久美子)