DRIVE ME CRAZY






 翌日、帰宅するなり居間に飛び込んだ社は、夕食の支度をしていた母が驚いて目を丸くしているのも構わずに電話に駆け寄った。しかし電話が吐き出しているはずのファックスはすでに千切り取られている。
「なんや、騒々しい。ただいまくらい言ったらどうなん」
 エプロンで手を拭きながら呆れている母親を振り返り、社は大袈裟な身ぶり手ぶりを加えつつ「ファックス届いとらへんかった?」と聞いてみる。母親は思い出した、といった様子で頷いた。
「ああ、あのよう分からん紙? あんたの部屋に置いといたわ。どうせ碁のなんかなんやろ?」
「部屋やな、サンキュー! ただいま!」
 社は慌しくそう告げて、どたどたうるさい音を立てながら二階の自室へと向かう。部屋のドアを開けると、碁盤の上に一枚の紙が置かれていた。
 社は鞄をどさっと部屋の脇に投げ、逸る気持ちを抑えて制服を脱ぐ。ゆったりしたスウェットに着替えると、深呼吸して棋譜を手にとった。
 どうせなら、並べながら見てみたい。碁盤の前に腰を下ろし、二つの碁笥を手元に引き寄せ、左手に棋譜、右手に黒石を持ち、社はしばし十九路の迷宮へと完全に心を飛ばした。




「……なんや、このスミ……」
 石を並べる指が僅かに震えている。棋譜と碁盤を行ったり来たりする目が徐々に泳ぎ始めた。
 ここのツケも、ここで押し込んだ絶妙な手も、力強く堂々としているのに何故か無理がない。
 どれだけ相手の手を読んだら、こんなに美しい模様が描かれるのだろう。あまりに綺麗で薄ら寒気がするほど。
 これは本当にヒカルが打った碁なのだろうか? 確かに、先々を考えた慎重な一手などはヒカルの好みそうな手だが、その他の打ち回しがあまりに完成されている。僅か一年で、ここまで腕を磨いたとでも言うのだろうか。
「いや、待てよ」
 僅か一年ではない。社は年末頃に入手した、ヒカルの王座戦本戦の一回戦の棋譜を思い浮かべた。あの時の一局も手堅く決めたとはいえ、ここまで整然とした碁ではなかったように思う。少なくとも、今のように微かな戦慄さえ抱いて背中に冷や汗をかくほどではない。
 あれから一ヶ月ほどしか経っていない。この急激な成長は一体?
(……なんやろ、この感じ)
 何故だか嫌な予感がする。
 一年前のように、碁の状態が悪いわけではない。寧ろこの棋譜は賞賛されるべき一局だ。何が嫌なのか、どうして不安を覚えるのか、自分でも分からない。
 しかし、何か危うさを感じるのだ。この碁は今までのヒカルに比べて完璧すぎる。ヒカルらしさが完全に失われているわけではないのに、ヒカルの存在感がこんなに薄く感じるとは……
 そう、存在感だ。「らしさ」があるのに存在感がないなんて、そんなことあるのだろうか?
「……」
 社は棋譜を睨み続けた。
 はっきり言って、こんな碁を打つ相手に勝てる気がしない。ヒカルがごく自然にこんな碁を打つようになっているとしたら、社にとって脅威であるのは間違いない。
 倉田もまた、結果として敗北したとはいえ、ヒカルの緻密な攻めをことごとくやり返す様は見事だ。左辺の割り込み方はさすが倉田と言ったところだ。強烈な二人の力がぶつかりあって、圧倒されるような一局が出来上がっていた。
 素晴らしい一局。恐らく誰もがそう褒め讃えるだろう。
 倉田相手にこれだけの碁を打つヒカルに対して、自分は何を心配しているのだろう?
「……考えすぎやろか」
 ぽつりと呟き、ヒカルの傍にあるはずのアキラの顔を思い浮かべた。
 今はアキラがいる。一年前のようなことにはなるはずがない。
 もしヒカルが何かに迷い悩むことがあっても、アキラが気付いて解決しようと乗り出すはずだ。アキラにはそれだけの度量がある。それに、あの男がヒカルの抱える問題を黙って見過ごすはずがない。そう、社が棋譜を見て何か勘付いたというなら、傍にいるアキラこそヒカルの変化に気付かない訳がない。
 だからきっと、自分の考えすぎなのだ。ヒカルは素晴らしい碁を打った、その事実に変わりはない。
 ……それなのに、胸騒ぎが消えない……
「……」
 社は携帯に手を伸ばした。時刻を確認し、昨日かけたばかりの番号を再び呼び出す。
 コールが途切れて相手が出た時、妙にほっとした。無機質なコール音を聞いている間、無意識に軽い緊張を覚えていたらしい。
「もしもし? 和谷か?」
『おう、ファックス届いたか?』
「届いてた。サンキュー。ほんま感謝しとる。でな、ちょっと聞きたいんやけど」
 何だ? と尋ねる和谷のいつも通りの声を受話器越しに確認し、社は一旦ごくりと唾を飲み込んだ。
 やはりここは単刀直入に行こう――社は下手な詮索を捨て、いきなり本題に入ることにした。
「……最近、進藤の様子どうや?」
 一瞬、受話器の向こうで和谷が息を飲んだ気がした。
『……なんで?』
 社の出方を見るような問いかけ方だった。社はその声色にピンとくる。
 社は少し考え、それでも正直に妙な予感を伝えることにした。
「棋譜、見たんやけど。なんか……俺の知ってるあいつの碁と違うような気がしたんや。確かに物凄い一局やと思うけど。うまく言えんけど、なんや不安になってな」
『社……』
 和谷の声が微かに震えている。
 その微妙な空気の乱れに気がついた社が、なおも聞き質そうとすると、それより先に和谷がなんだか泣きそうな声で話し始めた。
『アイツ……なんか、最近変なんだよ』
「変?」
『なんていうか……アイツが腕上げてたのは前からなんだけど、今のアイツは怖いくらいで……ギリギリまで自分追い込んで、無理して強くなってるって言うかさ……。見てて余裕ねーんだ。いつも疲れた顔してるし』
 途切れ途切れの和谷の言葉はやけにリアルに、社に今のヒカルの様子をありありと想像させた。
 やはりヒカルは何かおかしいのだ。嫌な胸騒ぎは気のせいではなかった――社は無性に焦りたがる気持ちを宥めて、ひとつひとつ事実を確認していこうと努める。
「いつからや。いつから、変なんや?」
『気がついたのは……今年に入ってからだよ。去年、あいつが王座戦のトーナメント入り決めた一戦も、確かにすげえと思ったけど……でも今回の倉田さんの時とは違う気がするんだ』
 社もその時の棋譜は知っていた。そして和谷と同意見だった。
 ヒカルの本戦一回戦は手堅く攻めた感のある落ち着いた碁だったが、トーナメント入りをかけた九段との一局は相当に見ごたえのあるものだった。
 相手が力技で攻めてくるタイプだったため、それに負けじと応戦するヒカルの技巧が光った一局。押さえがちと思われた前半、どうということもなかったはずの中央への一手が後半で威力を発揮した。
 鮮やかに畳み掛けた終局までの道程は爽快ですらあり、ヒカル自身楽しんで打っているだろうことがよく伝わってきた。それもまた、確かな強さだった。
 しかしこの倉田との一局は、その時に受けた印象とは何かが違っていた。
 美しい棋譜。緻密に計算された石の並び。ヒカルであってヒカルでないような不可思議な感触。碁のスタイルが変わったと、そんな単純な言葉で表してよいものだろうか。
 また、何かあったのだろうか。スタイルを変えなければならないような、ヒカルにとってのきっかけが。
「なあ、……その、塔矢はどうしとる?」
『塔矢? なんで?』
 和谷のきょとんとした声に、社はしまったと舌打ちする。なるべく自然に話を持っていこうとしていたのに、焦りのせいか不自然極まりない唐突な質問になってしまった。
 和谷はヒカルとアキラの関係に全く気づいていない。余計なことを言って変に勘ぐられないようにしなければ。
「まあその、ライバルがこんな凄い碁打って、アイツはどう思っとんのかなーって……」
 ちょっと苦しいだろうか。いいや、何とか繋がっている気がする。
 社の心配をよそに、和谷は『塔矢は棋譜見てないと思うぜ』なんて言葉をさらりと告げた。
『社、知らないのか? 塔矢先生が中国で倒れたんだ。あいつ確か、一週間くらい前から中国行ってるって話だよ』
「そうか……そうやったな。あいつ、中国まで行ったんか」
 関西でも行洋が倒れたというニュースはちょっとした話題になっていた。
 現役を引退してもなお、碁界の中心にいる行洋の棋力は変わらずどころか更に進化している。まだまだ活躍を期待されている行洋に二度目の発作が起こったとなると、最悪の事態を心配する声が出ないはずがない。
 社も気にはなっていたが、恐らく対応に追われているだろうアキラに連絡をとるのも悪いかと、一般的に入ってくる情報だけで様子を見ていた。そのため、アキラが中国に発ったというのはこれが初耳だった。
 まさかアキラがいなくなったから急にナーバスになった、なんてことはないだろうが、アキラさえ帰って来れば事態は緩和するかもしれない。社は少しほっとしていた。
 アキラのことだ、ヒカルの心に余裕がないというのなら、目敏く気づいてヒカルのケアをしてくれるだろう。
 自分がでしゃばることはなさそうだ。ヒカルに下手なことを言ってアキラに睨まれるのは勘弁したい。今でも時々おかっぱの幽霊が腹の上で正座する夢を見る。去年の夏の忌わしいアキラとの思い出は忘却の彼方へ封印したい。
(アイツ、進藤のことになると見境ないからなあ)
 それにしても、あの忙しい男が中国まで行ったということは。
「塔矢先生、具合悪いんかな」
『ああ、心配だよな。やっぱりまだまだ頑張ってほしいし……』
「俺もいっぺんでええから手合わせ願いたいわ」
『俺だって』
 少し、二人の声が明るくなった。
 そう、世の中にはまだまだ強い棋士がいる。行洋を筆頭に、未だ若手と呼ばれる社や和谷にとっては追うべき背中が足りなくて困ることはない。
 ヒカルもまた、そんなふうに自分の壁を越えようとしているのかもしれない。ヒカルの碁は確かに凄かった。鳥肌が立つような美しい棋譜は、並大抵の努力じゃ完成しないはずだ。
 そうなのだ。これ以上、何を不安がることがある? 一年前のような出鱈目な碁ではない。寧ろ完璧な碁だ。驚嘆している場合ではない、ぼやぼやしていたらあっという間に突き放されてしまう。
「俺らも、頑張らないとな」
『ああ。今年の北斗杯予選、気合入れていくよ』
「俺もや。いつまでも塔矢と進藤に差ぁつけられてる訳にいかん」
 和谷の小さな笑い声が聞こえてきた。俺もだよ、と呟いた声に自嘲気味に絡めた笑いが、なんだか淋しそうに響く。
『……あのさ。さっきの話だけど。進藤、今凄く必死で碁に食らいついてるって感じがする。何がアイツをそうさせてるのか分からないけど、妙に神経尖らせて……なんか、あんまり……楽しそうじゃないんだ』
 社は眉を顰めた。
『俺もプロになってもうすぐ三年だからさ。甘ったれんなって自分でも思うけど……でも、やっぱり俺らって碁が好きで碁打ちになったからさあ。楽しくないのに無理して碁を打つなんて、辛いなあって……』
「和谷……」
『勝負かけて金もらってる身で、楽しく打ちたいなんて……贅沢なのかな。甘いかな、俺……』
 何だか夢を見ているような、そんなぼんやりした和谷の言葉を伏せた目で聞いていた社は、微かに息をついて口唇を引き締める。
 その目には確かに未来を見据える光が宿っていた。






社がsaiを知ってたらまたちょっと展開も
変わったかもしれないですね……