DAY DREAM BELIEVER






 夜中にふと目が覚めた。

「――……」
 薄ら開いた瞼を何度かゆっくり瞬きさせていると、闇の深さがまだ朝が訪れるまでには随分あることを知らせてくれた。暗がりに目が慣れ始めた頃、予想していた景色とは違う天井にヒカルは一瞬思考を止める。
(ああ……、そっか、塔矢の実家だっけ……)
 胸に絡みついている腕の重さを感じ、その温もりにほっとする。
 明日がレセプションということもあって、夜の交わりは避けた。客間に社がいた昨夜は尚のこと。夕べも今夜も布団はアキラの部屋に二組敷いていたのだが、結局眠る時は一つの布団でくっついて寝ている。
 戦い前夜に緊張感がないと言われてしまえばそれまでだが、ヒカルにとってアキラと眠るのは最早日常の一部に近い。もちろんアキラのマンションで夜を過ごすよりも、実家で寝泊まりすることのほうがずっと多い。それでも、一般的に想像される仲の良い友人同士としての範疇は軽く越える程あの部屋に出向いていることは事実だ。
 この腕の中は暖かい。優しさと激しさが隣り合わせに手招きしてくるアキラの愛情表現は強引で、不器用なところもあるけれどヒカルはとても好きだった。

 アキラが必死で築いた砦は全てヒカルのためなのだろう。
 一年前、進むべき道を見失ってもがいていたヒカルを、全力で引き戻してくれたアキラが作った甘美な檻。
 ヒカルが自分を取り戻した後も、もう二度とヒカルを迷わせないよう、彼なりに守ってくれようとしていた。言葉の端々、さりげない仕種や僅かな目の動き、その行動ひとつひとつが全てヒカルを包んでいたことにヒカルも気付いていた。
 アキラの様子が少しおかしい、と気付き始めたのもその頃だった。
 多方向に張られていたはずのアンテナが、ヒカルにしか向かなくなった。
 それも強い愛情故だろうかと情けなくも浮かれて、そのままにしていた自分にも責任がある――ヒカルは身体を緩く抱き締めているアキラの腕にそっと触れて、その寝顔を静かに見つめた。
 ――俺も溺れてしまえば。
 そうしたら、アキラはもう二度と外の世界に目を向けることなく、ヒカルとの愛に生きるだろう。何を失くすことも躊躇わず、怯まず、二人で過ごす刹那の時が全てなのだと。
 二度と棋士として碁石に触れられなくなっても。親しい人たちの笑顔を見ることが適わなくなっても。
 それもひとつの幸せなのかもしれない。
 しかし、排他的な幸せはいつか必ず終わりが来る。
 例えばヒカルが消えてしまったら。アキラが消えてしまったら。二人のどちらかが欠けたら成り立たない世界は、その瞬間に呆気無く崩壊する。
 当たり前に信じていたものが突然消えてなくなる、それは決して起こり得ないことではないことをヒカルは身をもって理解している。
 一瞬のきらめきは美しい。でもヒカルは、それよりももっと美しいものをその目で見つめて来た。
 悠久の時を隔てて、継がれゆく想いの強さ。託された未来への道と、そこに至るまでに関わったたくさんの人々との軌跡――
 それは二人だけでは創ることができない。
 まだ、ここが果てだなんて思いたくはない。
 アキラにそれを気付かせるには、どうしたら良いのだろう。
 ヒカルが越えた修羅をアキラが理解するためには、どうしたら。

 穏やかな寝息は耳に甘い。
 ヒカルを抱いて、安らかに眠っているアキラが愛しい。

 ――お前、俺を守ろうとしてくれたんだよな。
 俺が迷わないように、俺のための居場所を作ってくれたんだよな。
 でも、そうじゃない。そうじゃないんだ、塔矢。
 俺はお前と越えて行きたいんだ。
 遥かな高み――あの空をあの星を越えて、永久に引き継がれる未来のその先へ――

 アキラもきっといつか気付く。
 でも、失ってからでは遅いのだ。
 ――もう、あまり時間がない。
 周りもアキラの碁の変化に勘付き始めている。
 今回の北斗杯の結果次第では、取り返しがつかなくなるかもしれない。
 いつまでも、この暖かさに甘えている訳にはいかないのだ。――アキラも、……ヒカルも。
「……」
 まだ夜明けまでには時間がある。
 明日はレセプション。更に翌日は国際棋戦が幕を開ける。
 もう少し眠っておかなければ。
 ヒカルは目の前ですやすやと眠るアキラの鼻先に、触れるだけの小さなキスを落とした。
 目を覚ませば、容赦のない現実がそこにある。






 ***






 レセプション当日――


 ホテルのロビーでアキラと共に社を待っていたヒカルは、自分達の到着より二十分ほど遅れて現れた社に手を振った。
 去年同様、どこかげっそりしている社に訝し気な目を向ける。
「お前また徹夜したのか?」
「あー、いや二時間くらいは寝たで。今年もしんどい合宿やったわあ」
 目の下にクマを作り、苦々しく呟く社は、昨夜の様子を思い出しているのか顔を顰めた。
「今回はどんなメニューだったんだよ」
「脱衣囲碁」
「は?」
「門脇さんが言い出しっぺで始まったんや。フルチンで碁盤に向かう和谷は哀れやった……。ギリギリパンツ一枚崖っぷちで見せた越智の驚異の粘りは物凄かったで」
「お前ら、何でまともな合宿ができないんだよ」
 昨年に引き続き常軌を逸した彼らの合宿に、ヒカルは心底呆れた顔をしてみせた。
 学生ノリは楽しそうではあるが、大勝負の前夜にわざわざ行うようなものではない。
 ヒカルの問いかけに、社はだるそうな首を捻ってコキコキと音を鳴らしながら答えた。
「それが案外クセになるんやなー。越智なんか去年でかなり懲りたはずやのに今年もちゃっかり顔出しとったしなあ」
「無理矢理引っ張って来てんじゃねえの?」
 飄々とした社の言い種に思わず笑ってしまったヒカルだったが、傍で何も言わずに二人の会話を聞いているアキラの視線に気がつき、なるべく不自然にならないように社をフロントに向かわせた。
 すでにヒカルとアキラはチェックインを済ませ、荷物も宛てがわれた部屋に置いて来ている。社も無事到着し、後は倉田が来れば日本チームは全員揃ってレセプション会場へ向かうのみだ。
 そんじゃちょっくら行ってくるわ、とフロントへ足を向けた社の後ろ姿を見送り、それから半歩後ろに控えて来たアキラを振り返る。
「……あと、倉田さんだけだな。」
「ああ、そうだね」
 ごく普通の会話。なんて事はない言葉の端々に、アキラの強い主張が含まれている。
 まだ、相手が社だからこれだけで済むのだろう。アキラはヒカルが思っている以上に社のことを信頼しているようで、彼がある程度の深さで顔を突っ込んできたとしても、他の人間のように強い拒絶を示したりはしない。
 しかし、そんな社が更にアキラの内部に立ち入ろうとすれば、アキラは躊躇せず切り離そうとするだろう。
 社も恐らくそのことに気付いている――勘の強いヤツだから、とヒカルは軽く瞼を伏せた。
 きっと、社は今回の合宿でアキラの変化の理由を察したのだろう。倉田に向かってヒカルの口添えをしてくれた。アキラの力を認めてくれていた。力になると言ってくれた。
 社の存在にどれだけ助けられているか知れない。無償で二人を見守ってくれる大事な友人を、アキラがそうと気付かず手放してしまってからでは遅い。
 大切なものは失ってから気付くと言うけれど。
(俺は、失う前に気付きたい。……もう二度と後悔しないように)
 アキラにもそのことを伝えたい――






最後の北斗杯です。
結局四回ともこの三人で押し通してしまった……
芸がなくてすいません……
ちなみに今回の和谷宅合宿メンバーは、
和谷・伊角・越智・本田・門脇でした。
冴木さん去年で懲りて逃げました。