華やかな空気が立ち篭めるパーティー会場では人々の笑顔が絶えない。 そんな会場の端っこで、飲み物片手にぼんやりと目を泳がせているヒカルと社は、望まなくともやってくる来賓の大人達に時折囲まれては引き攣った笑顔で辿々しい挨拶を交わした。 昨年のように頼れる隠れ蓑は、今年は姿そのものがない。そのことについて口さがないことを言う連中もいたようだが、それがヒカルと社の耳に入らなかったのは幸いだっただろう。 並んでいる豪華な料理にがっつく気分もあまり起こらず、二人はため息混じりになるべく人目のつかないところで佇むばかり。 見兼ねた関係者が二人を中央へ連れ出そうとしてくれたことも何度かあったが、明らかに気乗りしない様子で頼り無い笑顔を見せるヒカルと社に、やがて周りが諦めたらしい。 微妙な空気に気付かずに話しかけて来る少数の大人の存在を除けば、二人はだんだんと賑やかな会場の隅で孤立していった。 「進藤……お前、何か食わんのか?」 「お前は?」 「俺は……なんか腹いっぱいや」 「……俺も」 思い出したように交す会話と言えばこんな調子だった。 昨日の韓国戦についてお互い触れることも躊躇われ、手持ち無沙汰な時間だけが刻々と過ぎて行く。 早くパーティーなどお開きになってしまえばいい――ヒカルがむくれた顔をグラスに映していると、 「進藤」 聞き覚えのある声が正面から振って来た。 顔を上げたヒカルの目に秀英の姿が映る。 「秀英」 「日本が優勝したってのに、何浮かない顔してるんだ? お前達さっきから全然動いてないな」 秀英はヒカルと社の顔を交互に見比べ、呆れたようにため息混じりでそう言った。 ヒカルは苦笑いを見せる。そして、もう一人の姿を探しているように首を回している秀英の仕草に気がついて、改めて聞かれる前にとぼそりと口を開いた。 「塔矢ならいないぜ」 「え?」 「昨日帰った。夜のうちに」 ヒカルの言葉に一瞬目を丸くした秀英は、何処か残念そうに肩を落とした。 「そうか……。どうも不調のようだからな」 ヒカルはぴくりと、社は寧ろびくりと大きく身体を揺らし、秀英の言葉に敏感に反応してしまう。そんな二人を秀英は不思議そうに眺め、首を傾げた。 「塔矢は一体どうしたんだ? 随分調子を落としていたようだが……」 触れられたくない部分に遠慮なく触れて来る秀英に対し、ヒカルが何と答えたものか考え倦ねていると、社が若干顔を引き攣らせながら場を繋ぐようにごまかし始めた。 「ま、まあな、ちょっと今調子悪いんや、アイツ。いろいろ、忙しいヤツやからな」 「そうなのか。夕べ、うちとの副将戦の棋譜も見たが……塔矢らしくない随分控えめな碁だったな。体調でも崩しているのか?」 「ん、んー、どーやろな。でも、アイツのことやさかいすぐに調子上げてくるやろ。たまたまや、たまたま!」 かなり苦しい社のフォローにヒカルは顔を顰めつつも、心の何処かで社の言葉を信じたい気持ちが根付いているのも否めない。 ――すぐに元に戻る。たまたまおかしいだけ。 そんなふうに思い続けて来たせいで、ここまで事態が酷くなってしまったというのに。 そしてこの望み薄な願いが、未だにヒカルを迷わせている。 秀英は様子のおかしい二人の不自然さにはあまり気付いていないようで、そうなのか、と相槌を返してから何かを思い出したように黒目を上へ向けた。 「ひょっとして、去年の話も不調だから断ったのかと思ったけど……そういう訳でもないのか。」 「去年の話?」 秀英の口から耳慣れない言葉が出て来て、ヒカルと社は口を揃えて聞き返した。 声の揃った二人に何度か瞬きをした秀英は、去年出た交換留学の話だよ、と続けた。ピンと来ていないヒカルと社は顔を見合わせて、呆けたように首をふるふると振り合う。どちらも知らないらしいことを理解した秀英は、驚きながらも説明を始めた。 「聞いていないのか? まあ、話が盛り上がる前に流れたからな。北斗杯に出場している三国で、交換留学みたいな制度を作らないかって話が一時期持ち上がったんだよ。若手限定でね」 「交換留学……?」 「ああ。費用は各棋院持ちだし、留学期間もそれほど長い訳じゃない。自分で休場の手続きをする面倒もいらないから、僕としても興味のある話だったんだけど。日本棋院一押しの塔矢があっさり断ったから、日本棋院側で調整に困って一旦話が流れたって――」 ヒカルは目を見開いた。 社がヒカルを振り向いた気配に、ヒカルも社と顔を合わせる。知ってたか、と目で尋ねて来る社に、ヒカルはただ首を横に振ってみせることしかできなかった。 「二人とも、本当に知らないのか?」 「秀英……、それ、いつの話?」 「うーん……去年の夏頃だったかな。話自体はもっと前からあったかもしれないけど。日本と言えば塔矢アキラだったから、仕方のない判断だったのかもしれないけど、僕にとっては残念だったよ。進藤や社だって日本に留まらずに充分やっていけると思うから」 ヒカルは答えられず、不自然なほどに瞬きを繰り返して半開きの口唇を震わせていた。 社がそんなヒカルの様子に気付いて、慌てたように秀英へ声をかけて彼の気を逸らしてくれる。 周りの音が少しずつ遠くなっていく――ヒカルは昨年から少しずつおかしくなっていったアキラを思い出して呆然と立ち尽くした。 ――そんな大きな話、知らなかった。 話が来ていたことも、それを断ったことも。 日本棋院の間でその話が明るみに出なかったところを見ると、随分早い段階でアキラが潰してしまったのかもしれない。 迷う隙さえ見せないで。 「進藤?」 秀英の呼び掛けに、ヒカルははっとして反射的に強張った笑顔を作った。 しかし返事が出来ない。頭の中で渦を巻くアキラの面影が苦しくて、秀英に顔を向けたまま固まってしまったヒカルに対し、秀英は訝し気に眉を寄せた。 「進藤……? 体調でも悪いのか?」 「あー、そやそや、こいつ疲れてんのや! 昨日かてお前と死闘やったやろ、ごっつ疲れてんのや! な、進藤、お前ここ出て休んどき。顔色悪いで」 不必要な大声で秀英を遮った社は、最後の台詞だけはヒカルを振り向いて優しく囁いた。 ヒカルは機械的に頷いたものの、足がうまく動かずにしばらくその場で立ち尽くすことになり、社のほうがまだヒカルと話したがっている秀英を連れて行ってくれた。 再び喧噪が遠ざかる。 少しずつ少しずつ、アキラがおかしくなっていったように思えたけれど。 本当はずっと前から、アキラはきっぱりと答えを出してしまっていたのかもしれない。 碁の追求よりも留まることを選んだ――恐らくはヒカルのために。 *** ホテルからタクシーで帰路についたヒカルは、自宅前で降りたタクシーが離れて行くのを見送って、昨夜と良く似た雲の蔓延る空を見上げた。 流れる雲に月の断片は覆われてしまっているけれど、その雲の向こうではいつもと変わらない輝きが地上を照らそうと光をたたえていることを、ヒカルは知っている。 どれだけ雲が夜の空を支配しても、雲を抜けて星を越えて果てなく広がる宇宙では、いつものように月が優しく地球を見下ろしている。 それは千年前の夜も同じだったに違いない。 「……俺、間違ってないよな。佐為。」 澄んだ瞳で雲に隠れる月を見上げたヒカルは、きっぱりとした口調で暗い空へ尋ねた。 空からの返事はなくとも、ヒカルの心は変わらないだろう。 もう、この足を止めない――ヒカルは空へ向けていた視線を下ろし、前を見据えて歩き始めた。 |
最後の北斗杯もこれで終了です。
ようやくヒカルの決心も固まったみたいです。
(BGM:デイ・ドリーム・ビリーバー〜DAY DREAM BELIEVER〜/THE TIMERS)