DAY DREAM BELIEVER






 二日目、日本対韓国戦――

 その日、大将席に座ったのはアキラではなくヒカルだった。
 これまでも何度かヒカルが大将を務めたことのある韓国戦ということで、発表されたメンバー表はそれほど訝しがられることはなかったようだが、中には昨日のアキラの敗北が理由だと噂する者もいた。
 中国との大将戦は、ヒカルや社が考えていた以上にアキラが善戦したと言って良い内容には仕上がっていた。前夜の言葉通り、アキラなりに全力を尽くしたのは本当だったのだろう。
 しかし競り合いの部分で勝つことへのこだわりを失っているアキラが一歩及ばず、相手につけいる隙を与えてしまった。
 実力に差はなくとも、精神力で劣る。――まさか塔矢アキラにそんな評価が下される日が来ようとは、誰も、ヒカルだって夢にも思わなかった。
 二勝一敗でチームとしては勝利を収めたというのに、心から喜べない。息苦しいしこりのようなものが胸に閊えている。
 それは社も同じだったのだろう、中国戦に引き続き韓国戦でも三将を務めることになった彼は、心配そうに何も語らないアキラを見守っていた。


 韓国の大将は予想通り秀英が出て来た。
 高永夏が年齢制限のために出場不可となった今大会、しかし永夏がいなくとも韓国は充分怖い存在だということを知らしめるように、秀英は昨年よりもずっと鋭い手を打って来る。
 ヒカルも応戦し、それ以上の手をと何度もやり返すが、ひやりと嫌な汗を掻いたことは一度や二度ではない。
 気の抜けない応酬の末、何とか半目の差で勝利を手にしたのはヒカルだった。
 ヒカルが長い夢から覚めたかのように深い息をついて顔を上げた時、すでに副将戦も三将戦も終局した後だった。
 碁石が片付けられた碁盤を見て、状況が分からず辺りを見渡したヒカルに、終局を待って近付いてきた社が静かに結果を呟いてくれた。
 日本チームの対韓国戦の結果は昨日に引き続き二勝一敗――副将戦を落とし、三将戦はかろうじて一目半で勝利した日本が二年連続で優勝を決めた。
 しかしヒカルにも社にも喜びの表情は見られなかった。




 ***




 追い立てられるように閉会式に参加させられ、ようやく解放されたヒカルは焦りのままに会場を見渡す。
 誰でもいい、関係者に会いたい――倉田でもいい。恐らく韓国戦の様子を見守っていただろう中国チームのメンバーでもいい。韓国戦の棋譜を並べてみせてくれる相手なら誰でもいい――
 そう思って閉会式の興奮が静まり切らない会場で、勝利を称えて声をかけてくる人々を戸惑いの覗く笑顔で掻き分けながら、誰か、誰かと探していたヒカルの視線の端に、会場の隅に佇む白い人影がちらついた。
「――……」
 思わずその方向に顔を向けて立ち止まったヒカルは、人影がするりと会場を出て行くのを目にして咄嗟に走り出す。
 途中肩がぶつかった人たちに短い謝罪を告げながら、ヒカルは会場の外へと飛び出して、廊下の向こうですでに小さくなりかかっている背中に声をかけた。
「――緒方先生!」
 背中がぴたりと止まる。
 足音を吸い取る絨毯敷きの廊下を蹴り、ヒカルは緒方の元へと駆け寄った。ゆっくり振り向いた緒方は、ヒカルを認めて軽く目を細める。
「よう。優勝おめでとう」
「先生……来てたんだ」
「まあな。前から興味はあった。今年は運良く暇があったもんでな」
 緒方は薄ら口元に笑みを浮かべ、ゆったりと腕組みをした。
 切羽詰まったようなヒカルの表情を読み取ったのか、その体勢は話を長く聞くためのポーズにも見えた。
 ヒカルはごくりと唾を飲んで息を整え、口元を引き締めて改めて緒方に顔を向ける。
「緒方先生……韓国戦、見てた?」
「ああ」
「……、塔矢の、棋譜……分かる?」
「そりゃあな」
 その言葉を聞くや否や、ヒカルは緒方の腕を掴んでいた。緒方が傍目には分からない程度に瞳をふわりと広げる。
「俺の部屋、マグネット碁あるから……見せて」
「進藤」
「お願い」
 緒方はふっとため息をつき、空いた手で緒方の腕を掴んでいるヒカルの指をとんとんと叩いた。その優しい仕種に思わずヒカルは手を離してしまう。
 再び目を細めた緒方は、改めて腕を組み直して静かにヒカルを見下ろした。
「今、俺が見せてやらなくともすぐに目にするだろう。棋院でも、記事でも」
「でも、俺は今知りたい!」
「よすんだな。せっかく勝ったってのに、それ以上暗い顔になるのは嫌だろう?」
 ヒカルは目を見開き、緒方の言葉の意味を悟って眉を垂らした。
 緒方の腕から離したまま宙に浮いていた手を、力なくぱたりと落とす。
 そのまま俯いてしまったヒカルの前にして、緒方は胸元を探る仕種を見せた。が、すぐに廊下が禁煙だと思い出したのだろう、動きを止めて手持ち無沙汰にポケットへと右手を突っ込む。
「……言ったろう。アイツはお前よりバカだと」
 ヒカルの肩がぴくりと揺れる。
「タチの悪いことに、本人はいたって真剣だ。……辛くなってきたか?」
 ヒカルは顔を強張らせて、驚いたように顎を上げた。
 緒方は廊下のライトが反射する眼鏡の奥から、じっとヒカルを見据えている。
 その物言わぬ目の雄弁さにヒカルは息を呑んだ。
 ――緒方は気付いている。
 ヒカルは直感した。
 そう、彼だってずっと昔からアキラを見守ってきた人なのだ。
 アキラの変化と、その理由に気がついている――
 ヒカルは情けなくも震え出そうとする口唇をきゅっと結んで、目の前でヒカルがどう反応するか伺っている緒方に対し、真直ぐに見返すことでその視線に応えようとした。
 昨年の王座戦本戦、緒方にかけられた言葉を思い出しながら。
「……もう少し。もう少しだけ、俺に任せて」
「……」
 ふっと口元を柔らかく緩めた緒方は、軽く手を上げてヒカルに背中を向けた。そのまま廊下の向こうへと消えて行く緒方を、ヒカルは黙って見送った。








 夜を迎える前に、アキラは明日のパーティーに出るつもりがないことを倉田に告げ、一人ホテルをチェックアウトして帰宅した。
 できればヒカルもパーティーなんて面倒なものは遠慮させてもらいたかったのだが、社一人に全てを任せるのも申し訳なく、また倉田にきつく参加を言い渡されたこともあって、ホテルに残ることを余儀無くされた。
 一人きりのホテルの部屋で、何をするでもなくぼんやりと窓際に近付き、閉めてあったカーテンの合わせに手を差し入れてそっと開く。
 見上げれば、空の月は薄ら雲がかかってぼんやりと光っている。
 昨年同じ月を見上げた時とは違う気持ちで、黙って空を見つめて目を凝らす。

 ――俺、まだ迷ってる。

 優しい月の淡い光が雲の影からヒカルへと降り注ぎ、表情の晴れないヒカルを嗜めてくれているようだった。
 あれから四年。ヒカルを見下ろす月のように美しくて優しかったあの人は、今のヒカルを見たら何と声をかけるだろうか。
「まだ、迷ってるよ、俺」
 小さな囁きは静寂に溶けて消える。
 大きな雲が流れ、月の光をヒカルから隠して行く。ふいに広がる闇の中で、ヒカルは彼の人の面影を求めてひたすらに空を見上げ続けていた。






ようやく貼り続けていた伏線が消化されつつあります……
緒方さん=伏線みたいなものですね<安易