electric man






「決まったようだね。今年も塔矢君、進藤君、社君の三人か」
 渡辺の言葉が上から振って来て、まるでその一瞬だけ捩れていたような時間がその声で動き出したかのような、不思議な感覚が社の意識を現実に引き戻した。
 越智は淡々と白石を碁笥にしまい、碁笥をとん、と碁盤の上に下ろして、向かいのアキラをきつく睨み付けた。
 おい、と社が声をかける前に、
「――僕も舐められたものだね」
 短く言い捨てた越智は、すっとその場から立ち上がり、そこにいる全員に背を向けて風を切るように対局室を出て行く。社はその背中を顰めっ面で見送って、思わず咎めるような表情でアキラを振り返った。
 越智が怒るのも無理はない。アキラにはどう考えても真剣さが欠けていた。勝ちを確信した驕りがあったと言われても仕方のない一局だっただろう――
 ところが、社の予想に反してアキラはきょとんと越智が消えた方向を眺めていた。不思議そうなその目に、自分のほうが上であるという昂りのようなものは見られない。
 悪びれない様子に毒気を抜かれた社は、お前、とアキラに声をかけようとした。途端、ヒカルがすっと前に出て社を遮るようにアキラに話しかけた。
「……お疲れ。俺、この後社と打ってくけど」
「ああ、ボクは家に戻るよ。社、久しぶり」
 対局前に言葉を交わせなかったためか、ヒカルの影からひょいっと顔を出したアキラは今頃社に再会の挨拶を投げかけて来る。ごく普通の笑顔だった。
 社はなんだか気が削がれてしまって、ああ、と間の抜けた返事を返すことしかできなかった。
 そうして今日はこれで何度目になるだろう、ヒカルの顔をまじまじと見た。ヒカルもその視線に気付いたのだろう、意味ありげな眼差しでじっと社を見つめ返して来る。
 その目は、社に「何も言うな」と訴えているようだった。
(どーいうことや、これ)
 先ほどの一局の不自然さに、ヒカルが気付いていないはずがない。
 しかしヒカルはあえて社の追求を遮ったようだった。分かっていて、黙っていろと言っているのだ。
 しかし黙っていろと言われて黙っていられる性格ではない。社がついヒカルを押し退けようとした時、入り口が騒がしくなって数人記者風の男が顔を出した。どうやら代表決定に伴い、出版部の取材を受けなければならないようだ。
 にわかに賑やかになった対局室で、カメラのフラッシュを浴びながら、アキラもヒカルもにこやかにコメントを返している。社はうまく切り替えのきかない自分の顔をぺちぺちと叩きながら、幾分強張った笑顔でファインダーに収まった。
 ――ええわ。この後進藤とっ捕まえて問いつめたる――
 予選の後に打つと言った昨日のヒカルの言葉を信じて、社は取材の質問に無難な返答をしつつもそわそわと身体を疼かせた。




「じゃあ、また来月」
 アキラの最後の言葉は社に向けられたものだった。
 日本棋院のロビーでアキラと別れた社とヒカルは、その毅然とした背中を見送ってから一般対局室へと向かう。ちらちらと一般客の視線を浴びながら、一番奥の席で椅子を引いたヒカルに、社は待っていたとばかりに口を開いた。
「進藤。……なんやあれ。塔矢の碁は」
「……座れよ。目立つぜ」
「……」
 ヒカルに促され、口唇を尖らせた社はどっかり椅子に腰を下ろす。ギシ、と簡素な作りの椅子が軋んだ。
 ヒカルは碁笥を手に取りながら、社にニギれと白石の碁笥を押して寄越した。しかし僅かに伏せた目は飽くまで穏やかで、社の問いかけを拒絶するようなものではないことに社は気付いた。
「……、まだ、他のヤツらには言うな。」
 ぽつりとヒカルが呟いた言葉に、社は「え?」と聞き返す。
 ヒカルは碁笥のフタを取り、中の黒石をじっと見つめながら、静かに言葉を続けた。
「アイツ。自覚ないから。」
「……自覚ないって……」
「自分が手を抜いてる自覚がない。……だから、まだ気づかないフリしててくれ」
 社は耳を疑った。
「……どういうことや」
「ニギれよ、社」
「あ、ああ」
 社は慌てて碁笥の中に指を突っ込む。白石を掴んだ手のひらを碁盤の上で広げ、対するヒカルがふたつ黒石を落としたことで、ヒカルの先番が決まった。
 碁笥をそれぞれ自分の手元に引き寄せて、二人は頭を下げる。ヒカルが初手を打ち、社が二手目を打った後、再びヒカルはぽつぽつと口を開き始めた。
「アイツは、普通にやってるつもりなんだ。少なくとも、今日の一局だってアイツなりに真剣だったはずだ」
「真剣て……俺には冗談っぽく指導碁やっとるようにしか見えんかったで」
「最近、そうなんだ。アイツ、まるで本気の出し方忘れちゃったみたいに」
 ヒカルがいい位置に黒石をツケてくる。
 喋りながらとは言え、隙のない攻めに社はぐっと声を詰まらせた。
「なんでや。何かあったんか」
「……」
 ヒカルは押し黙り、微かに眉間に皺を寄せた。
 昨夜のぎこちないヒカルの様子と薄ら被る雰囲気に、社もまた眉を顰めた。
「何かが……あった訳じゃない。まだ、周りにはそれほど気付かれてねえ。たぶん」
「たぶんて、あの調子でずっと打ってたら嫌でも気付くやろ。それこそ北斗杯だって全力出して勝てるかどうかも分からん相手ばっかりやってのに――」
「分かってる」
 パチ、とヒカルの黒石が小気味良い音を立てた。
 中央を睨んだその一手に、社は長考を強いられる。
 ヒカルは険しい表情で碁盤を見つめながら、静かに、しかしはっきりと呟いた。
「ちょっと荒療治になるかもしれねぇけど。……俺が何とかする」
 社は顔を上げた。
 ヒカルの目には翳りは見られない。
 きっぱりとした口調を耳にして、社はふっとため息をつく。
「……分かった。いや、ほんまはよう分からんけど、お前に任すわ。……大丈夫なんやな?」
 尋ねながら、渾身の一手を打ち込んでやった。
 ヒカルがぴくりと片眉を持ち上げ、社を見て不敵に笑った。
 やってくれたな、と言いたげなその顔には躊躇いや戸惑いのような負の感情はない。
「ああ、大丈夫だ」
 力強いヒカルの返事に、社は口角を釣り上げて頷いた。
 そして、即座に打ち返されたヒカルの一手に、すぐに顔を歪ませるハメになってしまった。





 日本棋院でヒカルと別れ、一泊分の荷物を肩に担いだ社は一人駅への道を歩く。
 ヒカルの碁は相変わらず、いや前以上にキレがあった。着実に棋力を上げているヒカルに対して悔しい気持ちがある反面、仲間として嬉しくも思っている。
 そしてヒカルが好調となると、やはりアキラのことは気になった。
『アイツ。自覚ないから。』
 淡々としたヒカルの言葉。
 詳しいことを根掘り葉掘り聞き出したいところだったが、ヒカルは静かにそれを拒絶していた。
 どうやらアキラの変化の原因には、ヒカルも一枚噛んでいるようだ。
 大丈夫だと答えたヒカルの言葉を信じたいが、果たして本当に大丈夫なのだろうか。
「……しっかりせえよ、塔矢」
 呟きはアキラには届かないだろう。
 アキラの目には、今も昔もヒカルしか映っていない。どのみちヒカルが頑張るしか方法はなさそうだ。
 社はぱんぱんと両手で頬を叩き、時間帯を選ばず混雑している東京駅で口元を引き締めた。
 代表権は手に入れた。社にも目指す場所がある以上、他人のことばかりにかまけている暇はない。
 いよいよ最後の北斗杯。今年こそ悲願の全勝を! ――社はゆっくりと深呼吸して、喧噪に満ちた東京の空気を身体に馴染ませた。
 再びこの地を踏むその時まで、今よりもっと強くなってみせる。
 まだまだ肌寒い三月の夜、社は元気良く人込みを擦り抜けながら改札に向かって駆け出した。
 北斗杯まであと二ヶ月――






なんかアキラさんがどんどん酷いことに……
この後の展開、期待は裏切るかもしれませんが
予想は裏切らないと思います。
あんまり明るい話続かないのでギャグが恋しいなあ。
(BGM:electric man/Mansun)