electric man






「おはようございます」
「おはよう」
 日本棋院の対局室に、ぱらぱらと人が集まり始める。
 社が碁盤の並んだ対局室に足を踏み入れた時、すでにヒカルは畳の上にあぐらをかいていた。社を見つけて「よ」と腕を上げるヒカルに、社もにっと笑い返す。
 部屋の端には緊張の面持ちで小さく座る年若い棋士二人。自分の年齢を棚に上げて随分だとも思うが、実際彼らは社やヒカルよりも年下の少年だった。
 そしてヒカルから少し離れたところで正座をしている越智を見つけて、近付いた社はぽんと肩を叩く。
「久しぶりやな。元気やったか?」
「君も相変わらずみたいだね。へらへらして余裕じゃないか」
 棘のある越智の言葉に、社は肩を竦めてヒカルを見た。ヒカルも「な?」と言いたげに首を傾げ、苦笑を浮かべている。
 あと少しで予選開始時刻だ。社はそれほど広くない部屋を見渡したが、アキラの姿がない。ヒカルの傍で膝をつき、耳元でそっと囁いた。
「塔矢は?」
「来るよ。大丈夫」
 ヒカルの小声の答えに安堵した時、入り口に四年連続で予選の担当を勤める渡辺九段が顔を出した。その場にいる全員が思わず姿勢を正す。
「みんな揃っているかな?」
 渡辺は目線でひい、ふう、と人数を数え始め、一人足りないことに気がついたらしい。
 恐らく、塔矢君はと口を開きかけたのだろう、渡辺九段がぽかんと口を開けた瞬間、後ろから
「遅くなってすいません」
 と穏やかな声が響いて来た。
 口を開けたまま振り返る渡辺の後ろから、特に慌てて来たふうでもないアキラが落ち着いた様子で現れ、頭を下げている。
「ああ、いや時間丁度だよ。じゃあ、始めようか」
 アキラは渡辺に会釈をし、それから社を見つけて僅かに笑顔を見せた。その以前と変わりない仕種に社は何処かほっとして、頷きながら笑顔を返す。
 アキラは越智にも顔を向けるが、越智はじっと一点を睨んだまま顔を上げようとしない。部屋の隅で固くなっている少年ふたりをちらりと一瞥したアキラは、最後にヒカルを見た。
 ヒカルが何かアキラに目配せする。アキラは優しい眼差しでヒカルを見つめ返し、そうして二人は同時に目を逸らした。そのタイミングの鮮やかさに、近くで見ていた社のほうがどきりと胸を竦ませてしまう。
 そういえば、二人揃って社と顔を合わせるのは、去年行われた雑誌の撮影以来だった。あの時でさえ二人だけの独特の空気に散々当てられたというのに、時間が経ってますます濃度がグレードアップしているような気がする。
 適わんわ、と呟いた社に、ヒカルが不思議そうな顔をしていた。
「では第四回北斗杯予選、決勝を行います。ええと、塔矢君と越智君はそこ。進藤君と西田君はその奥に、社君と細川君はここ」
 渡辺がひょいひょいと指差す先に、それぞれ青年達は移動を始める。
 すでに組み合わせが決まっている決勝、持ち時間は本番と同じ一時間半の一発勝負。
 社は対局相手と向かい合い、渡辺の合図の後にお願いしますと頭を下げた。
 三台の碁盤の上で、パチパチと碁石の音が響き始める。




「……ありません」
 一時間を少し過ぎた後、社の前で細川初段が頭を下げた。
「有難うございました」
 頭を下げ返した社は、暗い表情でため息をつく細川とは裏腹に、無事に勝ちを手にした安堵のため息を漏らす。
 碁石を選り分けながら、ちらりと隣の碁盤の様子を伺うが、すでにそこには誰も座っていない。どうやらヒカルと西田二段の対局はとっくに決着がついていたようだ。
 どちらが勝ったのだろう、と後方を振り返り、膝をついてアキラと越智との一局を真剣な顔で覗いているヒカルを見つけて、その堂々とした様子から恐らくヒカルが勝者であることを感じ取る。ヒカルの対局相手である西田の姿は部屋から消えていた。
 碁笥に白石をしまい終えた社は、ヒカルの後ろから覗き込むように中腰でアキラ対越智の碁盤を見下ろした。その気配に気付いたヒカルが振り向いて、目で結果を尋ねているようだ。社が黙って親指を立ててみせると、ヒカルもにっこり笑って同じ仕種を返してくれた。
 再び見下ろした盤面、アキラの打つ黒石がゆったりとした流れでリードしている。越智の白石も的確に攻めて来ているが、やけに打ちにくそうにしているように見えるのは気のせいだろうか。
(……)
 社は石の並びを丁寧に目で追った。
 アキラの碁は何度も見たことがある。実際に打ったことだって数え切れないほどだ。その強さは肌で実感している。
(……?)
 それなのに、何故だろう。
 何か、これまでのアキラと雰囲気が違う気がする。
 いやにスローなペースだ。持ち時間をここまでゆったりと使う姿勢は珍しい。越智が打ちにくそうにしているのはそのせいではないだろうかと、社は眉を顰めた。
 アキラの表情は冷静なまま、静かに黒石を打ち続ける。
 これも新しい作戦のひとつなのだろうか。局面が少しでも動いた隙を見逃さず、一気に畳み掛けて来るあの力強さとは打って変わって緩やかな碁。珍しい、と社は思わずヒカルを横目で伺った。
(……!)
 ヒカルが厳しい目で碁盤を睨んでいる。
 その、声をかけるのも躊躇われるような険しい横顔に、社はごくりと息を飲んだ。
(……なんや……?)
 ぴくりとヒカルが目を細めた。社も釣られるように碁盤に目を向け、あ、と小さく口を開いた。
 明らかに最善と思われる一手があるにも関わらず、アキラの黒石はそこから外れて遠回りの地を描いていた。失着か、と目を見開いたが、アキラの様子からしてそうではない。
(……これは)
 見下ろす越智が口唇を噛んだようだった。
 越智の食らい付きを、アキラはじりじりと躱す。突き放さず、かといって優勢は失わせず、生殺しのような状態が続く。
 まるで指導碁だ、と社は我が目を疑った。すぐにまさか、とその考えを打ち消そうとする。仮にもこの対局は北斗杯の代表を賭けた大事な決勝戦。越智は四年連続でその権利を逃している。この予選にかける意気込みは相当なものだったはずだ。
 たとえ予選参加が初めてとは言え、アキラにそれが分からないはずがない。それなのに、何故こんな中途半端な迎え討ち方をするのだろう。本気を出し切っていない――そう、これではまるで……
(……「手抜き」……?)
 頭の中の囁きに、社ははっとした。
(そういや、アイツ)
 去年の十月、社の家に泊まりにきたアキラと一局打った時も、アキラは何処か力半分だったような気がした。
 あの時は自分の力がまだまだアキラに追い付いていないせいだと思っていたが、今目の前で繰り広げられている対越智戦は更に輪をかけてその傾向が表れている。
 社はもう一度ヒカルを見た。ヒカルは細めた目でじっと動かずに盤面を見つめている。
 ヒカルもまた気付いているだろう。気付いていないはずがない。社よりもずっと長く、アキラの傍にいるはずのヒカルがこの碁を見てどう思っているのか……聞いてみたい気持ち半分、聞くのが怖い気もする。それほど碁盤を見つめるヒカルの眼差しは鋭く厳しかった。
「……負けました」
 悔しさの滲み出た、絞り出すような越智の声がぽつりと対局室に落とされる。
 アキラは終始穏やかな表情で、「有難うございました」と丁寧に頭を下げた。
 社は言葉を失ったまま、ヒカルとアキラを交互に見比べていた。






またいろんなこと端折りましたね……
越智いっつもこんな役ばかりでごめんね……