END OF SORROW






 キイ、と小さな音を立てて、リビングのドアがゆっくりと目の前で開けていった。
 廊下はまだフローリングがひんやりと足に涼しく感じられたが、カーテンを開け放したまま一ヶ月以上も閉め切っていたリビングは、やはりと言うか生温い空気が籠っている。
 身体に纏わりつく温さに小さく息をつきながら、アキラは久方ぶりに目にした部屋を端から端まで見渡して目を細める。
 中へと足を踏み入れ、ドアを閉めて、ガラステーブルの上に置いたままだったクーラーのリモコンを手に取る。スイッチを入れると、ブーンと控えめな機械音が無音だった室内に響き始めた。
 再びリモコンを置いた拍子に肩からずるりとショルダーバッグが下がり、床に落ちた。拾い上げようと腰を屈めたアキラは、テーブルの下にぽつんと転がっている銀色の欠片をふと目に留める。
 落ちた鞄をそのままに、アキラは銀色に向かって手を伸ばした。
 ――この部屋の合鍵。
 あの日から止まったままの時間を摘み上げ、手のひらに横たわる鍵を静かに見下ろし、そっと握り締める。緩い拳に注がれる視線は柔らかく、アキラの表情は穏やかだった。
 そうして、アキラはリビングの隅へと顔を向けた。
 主のいない部屋で寂し気に放置されていた、足付きの碁盤がひっそりと鎮座している。
 アキラはゆったりとしていながらも確かな足取りで、碁盤の元へと歩み寄った。
 碁盤の前で静かに膝をつき、空いた左手でその表面に触れてみる。
「……ただいま」
 指先に吸い付くような滑らかな木肌が、アキラに応えてくれているようだった。
 アキラは口角を軽く持ち上げ、優しい目で久しぶりに触れる碁盤を見つめた。


 アキラがマンションに戻って来たのは、もうすぐ八月も終わりを迎える残暑の頃だった。







 ***







 長年使い込んだ碁盤の前に正座して、精神を統一させるべくアキラは目を閉じる。
 過去が詰まった折り畳み碁盤は、元通りの実家の押し入れに仕舞って来た。もう、充分役目は果たしてくれた。また少しの間、眠っていてもらおう。……いつかは迎えに行けるといい。
 今ここにある足付きのどっしりとした碁盤は、本格的に父の弟子として塔矢門下に入門した時に蛤の碁石と一緒に揃えてもらったものだ。新しいスタートに相応しく、全てを一新して臨んだプロへの道。
 あの時と同じ気持ちで、もう一度碁に向き合いたい。
 そして、ヒカルとも。
 アキラは目を開き、十九路の迷宮を見下ろした。


 ――棋院では、来月行われることになった本因坊リーグの挑戦者決定戦の話題で持ちきりのようだった。
 書類提出のために訪れた事務局を出てから棋院を去るまでに、すれ違う棋士たちや出版部の記者たちが一様にそのことを口にしている光景をアキラは何度も目にした。
 緒方はリーグ第七戦に手堅く勝利し、五勝二敗。ヒカルも同じく七戦目を勝ち取って、緒方に並ぶ五勝目を手にした。
 残りの六名はすでに三敗以上を記しているため、緒方とヒカルの決定戦の結果で現本因坊・桑原への挑戦者が選ばれることになった。
 片や貫禄の三冠、片や成長目覚ましい若手棋士。実績のある緒方が踏み止まるか、勢いのあるヒカルが押し切るか、これは面白い一戦になりそうだと周囲の期待は俄然高まっているようだった。
 そんな話を、何処か冷静に、しかし何処か歯がゆく受け止めている自分がいることを、アキラは実感しなければならなかった。
 ヒカルと別れてから負け続きで、一度も満足いく碁を打つことができていない。本因坊戦ではすでに四連敗。今月末にラスト一戦が残っているが、勝とうが負けようがリーグ残留にさえすでに関係なくなっている。
 ――こんな状態ではヒカルに会わせる顔などない。
 一から叩き直さなければ。鈍った頭を働かせ、すっかり身を潜めてしまったかと思われた闘志を今一度。
 第一線で戦うヒカルに恥じない自分を取り戻すまで。
(――ボクが、自分の碁を取り戻すまで――)
 それまでヒカルには逢わない。
 ヒカルもきっと、同じように考えているはずだ……





 静かなマンションの一室は、実家とはまた違った静閑さがあった。
 他に人の気配のないこの部屋。少し前までは遠くに感じる人の息吹に安堵していた。今は、離れていても多くの人の心が近くに在ることが分かっている。
 碁石の音だけが耳を抜けて行く。高らかな音が一手一手響くたび、眠っていた身体が少しずつ覚醒していくような感覚を覚える。
 二度と立ち上がれないと思い込んでいたあの日から、どれだけ無駄な時間を過ごして来ただろう。
 考えて考えて、考えたフリをして、実際に分かったことなどほとんどなかった。
 動き出さなければ何も始まらなかった。ぼんやり座り込んで、失ったものを思って打ち拉がれるだけで、一体何が得られると言うのだろう。
 今なら、何度もヒカルが示してくれていたシグナルを見落としはしない。抜け殻のようだった頃が嘘のように、昨日のことみたいに思い出す声――



『俺とはいつでも逢えるだろう!』

『俺となら出せる本気を、どうして他の相手に出せないんだ!』

 ヒカルはずっと危惧していた。
 ヒカルだけを見つめるようになったアキラが、どんどん道を逸れて本来の目的を見失って行くことを。
 そうと気付かず、ヒカルの呼び掛けに耳も貸さないで、一人で突っ走って行ったのだ。
 縛り付け、他の何者も立ち入ることができない檻の中が愛情だと勘違いして。
 何故自分達が求め合ったのか、そんな大切なことも忘れて。



『……俺は。お前が本気を出せば、どんなヤツにも負けないと思ってる。』

『俺も、社も……お前の力を信用してる。お前の強さを信じてるから、何も言わねえんだよ』

 絶対の信頼を得ながら、その思いに応えることができなかった。
 彼らの中に生きている「塔矢アキラ」は、自分一人で育てて来たものではない。
 囲碁を打つ上で出会って来た全ての人との経験の元に、培って来た大きな力だ。
 確かだった力を、自分のエゴでここまで貶めてしまった。
 信じてくれていた彼らに対して、これほどに不義理で恥ずかしいことはない。



『俺としか本気を出せないお前の碁が、遊びじゃなくて何だってんだ!』

『お前は、何のためにプロになった!』

 思えば、辛い台詞ばかり言わせていた。
 ヒカルはずっと落ちて行くアキラから目を逸らさなかったのに、アキラは現実から逃げ続けた。
 全てをヒカルのせいにして。愛情故だと理屈をつけて。
 だから、離れて行ったヒカルに「何故」ばかりをぶつけて、その意味を少しも理解しようとしなかった。
 分からないのは、お前が分かろうとしないからだ――その通りだ。
(ボクは、何一つ分かろうとしなかった)
 ヒカルがどんな思いでアキラに別れを告げたか。
 どれだけ、ヒカルが伝えようとしてくれていたか。
 何度も何度も、あんなに辛い顔をさせたのに。


『このままじゃ俺まで駄目になる』


 あの言葉は、アキラを信頼してこそのものだったのだ。
 惰性の関係に慣れ切って、二人でずるずると堕ちていく前に、先にヒカルが大地を蹴った。
 アキラが後に続くことを信じている。
 今ならそう言い切れる。
 ヒカルは……待っている。
 これ以上長く待たせる訳にはいかない――






エンド・オブ・早漏……
(ってまさかこのネタがやりたかっただけ……?)
いや、早漏は終わりじゃない!終わりなどない!
(もう何がなんだか)