END OF SORROW






 白と黒の碁石が次々に並ぶ。
 手元に置いた二つの碁笥から、アキラは迷うことなく交互に石を挟んで行く。
 忌わしいこの荒れた模様。見るに耐えない、先月行われたヒカルとの本因坊リーグ第六戦……
 とても碁と言えるものではないアキラの手に対して、ヒカルはよく最後までつきあってくれたものだと思う。
 後悔ばかりが残るこの一局を、アキラはその日あらゆる角度から検討することに没頭し続けた。


 この時は、自分が世の中で一番不幸な人間になったかのような気になっていた。
 ヒカルが本気で別れを告げたことを思い知らされて、惨めなほどに動揺し、結果は対局などとおこがましいことを言えるような内容ではなかった。
 端から勝負にならなかったのに、ヒカルの一手一手は辛抱強く、力強い。
 無意味に広く構えたアキラに対して、的確に要所を突いて来ている。無駄のない手で、荒れる一方の盤面を何とかまとめようとしているのがよく読み取れる。
 とっくに投了すべき段階でも、アキラはまだ効果のない隅にぽつぽつと石を置いていた。それでもヒカルは投げ出さずに石を導こうとする。
 この対局が辛かったのはアキラだけではない、ヒカルもどれだけ苦痛だっただろう。
 しかし、アキラの覚えている限り、ヒカルは決して真剣な表情を崩さずに打ち切ってくれていた。
 二度と、あんな思いをさせる訳にはいかない。
 今だって逢いたくてたまらない。顔を見たい。声を聴きたい。触れて、うんと強く抱き締めたい。
 だけど、まだ。
 まだ、ヒカルに逢えるほど自分を確立できていない。
 ヒカルに並ぶに相応しい力を取り戻すまで、正々堂々と向き合うための自信が戻って来るその時まで。
 今は自分を磨き、努力するしか方法はない。


 確実に地を作っているヒカルに対し、出鱈目に石を放り込んだせいで、アキラは僅かな陣地を繋ぐことさえできなくなっていた。ここで無闇な攻め方をせずに、もっと囲いを意識するべきだった。
 もしここで手堅く構えてヒカルが大きくはみだして来たら、均衡のズレに慌てることなく最低限の補強をしてやればいい。そうだ、こんなところで無意味に攻防を繰り広げるのではなく、あえて形を逸らして隙を作る手もあったはずだ。
 もっと広く伸ばせる。ヒカルは恐らく徐々に包囲網を狭めてくるだろうから、引き付けて飛び込む手もある。当然こちらの思惑にヒカルは気付くだろう。させまいとキリにきたら、弱い左辺を叩いてやる――


『でも中央の大石が狙われたら同じことじゃねえ?』

 左から中央までこう伸ばして、コウを使って競り勝てる。
 左辺を叩く前にここにツケていたこの石が活かされる訳だ。
 こちらから攻めてきても、一歩ボクのほうが足が早い。ここで、生き確定だ。

『そしたらこっちの薄い部分のバランスが悪いよな』

 逆にこちらの厚みを利用して連結させるというのはどうだろう。
 この石は位置が悪いから……嫌なツケを受ける前に地を固めたほうがいいかもしれない。
 これははっきり白が悪いな。左辺に手をつけるより先にこっちを守るのも手か。

『うん、そこが固まったらその先には手ぇ出せないな。じゃあ、その隙に俺が中央崩しにかかったら?』

 その時は、迷わず潰しに行くよ。
 下が欠けているから、キミも手抜きはできない。ここで注意を引きながら、回り込んで……こう、こう。キミがこう来ても最初に構えた部分が大きいから、ボクの眼が揺らぐことはない。
 たとえ下辺を取られても、これで充分立て直せる。

『……悪くねえな』

 ああ、悪くない。


 アキラはゆっくり顔を上げた。
 対面に座る人の姿はなく、室内は相変わらず静まり返っている。
 それでも確かに感じるヒカルの気配に、アキラはひっそりと微笑んだ。

 ――キミはずっと、そうしてボクの傍にいてくれた。

 気付こうとしなかったけれど、本当はずっと近くにあった存在。
 たとえ離れていたって、物理的な距離が気にならなくなるほど心を通わせていた存在。
 この胸の一番近くに、いつも生きている。その声が、その笑顔が、その眼差しが。
 それだけの関係に、自分達はなれていたのだ。
 それなのに、目に見えるものだけを信じ、怖れて道を過った。
 ただの恋人同士では生み出せなかった、形のない絆――それが確かに胸の中で生きている。



 ――俺が突然消えたらどうする?


 何故あんなことを尋ねたのか、分かった。
 キミが消えたら、ボクの世界はそれで終わり――キミはそんなことは望んでいない。
 ボクの、ボクらの世界はそんなに単純なものではなかったはずだ。
 出逢ってから今まで、ボクらが残してきたものが、そんなに簡単に消えてしまうはずがない。


 あの問いかけに、今は胸を張って応えよう。
 もしもキミが消えたら、キミが辿るはずだったこの道をボクが。
 もしもボクが消えたら、……キミと歩くはずだった道をキミが一人ででも。
 もしもボクらが消えたら、きっと……この道に気付いてくれた人たちが、後から意志を継いでくれる。
 たとえその過程で行先が変わっても、最初に抱いた想いの強さは最後まで受け継がれる。


『お父さん、……ボクいごやりたい』
 ボクにはボクの、この道を目指すきっかけとなった人がいる。

『アイツの碁は、残さなきゃなんねえんだ! 俺が!』
 恐らくキミにはキミの、碁を打ち続ける理由がある。

『俺、塔矢先生の対局見て囲碁始めました!』
 そして、自分の存在が誰かにささやかでも影響を与えている。


 この長い道のりの途中で、小さな世界に夢見て留まる必要などない。
 次から次へと人の流れは足を止めず、更に先へ、先へと道を急いでいる。
 目指すものは遠く、のんびり構えている間に後に続くものが容赦なく近付く。大きな流れに呑まれないようにもがく一滴の存在でしかない自分でも、波の一部であることに変わりはないのだ。
 二人だけの世界だなんてなんてつまらない。
 もっと、もっと高い場所から見下ろす景色は美しいはずだ。
 たくさんの人がひしめくこの世界で、支え合いながら人は生きる。
 当たり前のように隣で笑っている存在が、どれだけ自分の助けになっているか実感する機会はとても少ないけれど。
 皆……繋がっている。
 偶然にも、囲碁という繋がりが自分たちには生まれたけれど。
 囲碁を知らない大勢の人たちだって、彼らにとって一番大切なもので長く長く繋がっているはずだから。






『――遠い過去と』

『遠い未来を繋げるために』

『そのために俺はいるんだ』






 かつてのキミの言葉を、今素直に受け止めよう。
 ボクもまた、その大きな繋がりの一部だ。
 全ての必然と偶然に感謝しよう。
 ボクに与えられた繋がりに感謝しよう。


 キミという存在に出逢えたことを――心から感謝するよ……







うまく繋がったかなあ……?
こういうまとめ方は予定してなかったんですけど。
結局ヒカルの成長期間と同じこと言ってますね。
そして相変わらず碁の部分はでたらめですすいません!