END OF SORROW






「失礼します」
 控えめな声に顔を上げた芹澤は、静かに扉を開いて現れたその人がアキラであることに気付いて、日頃冷静なその表情に少しだけ驚きの色を浮かべた。
「塔矢くん」
「御無沙汰しています」
 バツが悪そうに苦い笑みを見せるアキラに、芹澤はすぐに落ち着きを取り戻したようで、穏やかな顔には薄ら微笑さえ称えてくれた。
 他の棋士たちが物珍しげに、好奇な視線をアキラへ向けるのに対し、芹澤は淡々としていながらも柔らかい声色で「久しぶりだね」と歓迎の意を示す。
 芹澤に促されて、数十人の見知った棋士たちが碁盤に向かう室内へ足を踏み入れたアキラは、畳に膝をついて正座すると、挨拶にしては大袈裟な程に芹澤に向かって頭を下げた。
 顔を上げたアキラの前で、芹澤は黙って頷いてみせてくれた。
 その静かな眼差しに感謝しながら、アキラは背筋を伸ばして口元を引き締める。
 芹澤の研究会にアキラが出席したのは、実に一年振りのことだった。






 ***






 研究会終了後、食事への誘いを丁寧に断り、アキラは足取り確かに棋院の階段を降りる。
 本因坊リーグ第七戦は来週。今週は他にも手合いがあり、気を抜いてはいられない。
 ヒカルは今も忙しく地方の仕事に飛び回っているらしく、しばらく休みらしい休みがない状態が続いているようだった。
 モタモタしていたら差は開くばかりだ。
 自然と表情を硬く厳しくさせていたアキラは、早足で辿り着いた棋院のロビーで、ふと鞄に突っ込んでいた携帯電話が震えていることに気がついた。
 それほど長いバイブレーションではないことから、メールの着信だと見当をつけたアキラはゆっくり携帯を取り出す。開いてみると、メールの差出人は芦原だった。
『今どこ? 棋院なら近くにいるんだけど、暇あったら飯でも食いにいかないか〜』
 少々気の抜ける内容に、アキラは知らず力が入っていた肩をとん、と下ろした。
 そうして苦笑する。力みがちな自分を、いつもリラックスさせてくれるのは意図的なのか、それとも天性か……
 そういえば、あの日芦原の車を飛び出してから話す機会がないままだった。
 謝らなければと意気込んではいたが、芦原のことだ、きっと気にするなと躱してしまうつもりだろう。
 ひょっとしたら、それでも良いのかもしれない。
 芦原になら、素直に甘えても良いのかもしれない。
 彼はいつも自分の近いところにいる、特別な人だった。
 あの日は芦原を傷つけることを怖れたけれど。――それだけじゃない、そのまま芦原が離れて行ってしまうことを怖れたのだ。だから彼を拒否し切れなかった。

 ――お前はもっと人に甘えていいんだ、アキラ――

 弱さを見せることを躊躇うなと言ってくれた。
 アキラが何を晒そうと、受け止めてみせる。そんな強さを感じさせてくれた。
 彼の前でなら、我慢しなくたっていい。どれだけ情けないこと弱音を吐いても、呆れずに話を聞いてくれるだろう。
 芦原は居場所を作ってくれた。――アキラが子供に戻れる場所を。
 アキラは微笑みながら返信を返した。
『分かりました。ちょうど帰るところでした。棋院で待ってます』
 それからほとんど間を置かずに、『あと五分くらいで着くから!』と慌ただしいメールが返って来る。
 何処にも行ったりしないよ、と返事を打ちかけて、やめた。
 ロビーでのんびりと、急いで駆け付けてくる兄弟子をアキラは待つことにした。
 自動ドアの向こうに見える景色は暗く、すっかり陽は落ちている。その闇の中からぼさぼさの頭で走って来る芦原の姿を見つけたアキラは、あまりの髪の乱れっぷりに思わず吹き出した。



 乗り込んだ芦原の車の助手席で、アキラはシートベルトに手を伸ばす。
「何食いたい? まだ暑いからスタミナつけるために焼肉でもいいな〜、あっでもこの前うまいおでん屋見つけたんだよな」
 にこやかな芦原は普段と何ら変わりなく、先日気まずく別れたことなど気にもしていないように振る舞ってくれる。
 その確かな優しさをはっきりと感じたアキラは、自分の澄んだ気持ちが揺らがないうちに、思いを言葉にすることを選んだ。
「芦原さん」
「ん? アキラはどっち食べたい?」
「ありがとう」
 ぴた、と芦原の顔が笑顔のまま凍る。
 アキラは緩く細めた目で芦原を見つめながら、もう一度「ありがとう」と告げた。
「ずっと……ボクのこと心配してくれて。もう、大丈夫ですから。……この前はごめんなさい」
「アキラ……」
 途端に顔に戸惑いを表した芦原は、がりがりと頭を掻きながら困ったように視線を泳がせている。
「な、何急に改まってんだよ。気にするなって。友達だろ?」
 薄暗い車内だが、芦原の頬はほんのり赤く染まったのは目の錯覚ではないだろう。
 アキラは微笑んだまま、ゆっくり首を横に振ってみせた。
「友達じゃないよ」
「え?」
 芦原の顔が強張った。
 そのあからさまな落胆が可笑しくて、アキラは思わず歯を見せて笑ってしまった。
「……家族だと思ってる」
 アキラの言葉に、芦原がみるみる瞳を丸く大きく膨らませて行く。
 その表情がやけにコミカルで、アキラはまた笑った。
「あ、アキラぁ」
「さ、行きましょう、お腹すいてるんですよ」
「あ、あうう」
「ほら芦原さん、運転しっかりしてくださいよ?」
 芦原は袖口で目元を拭きながら、分かったぁと頼り無い返事をくれる。
 本当に分かったのだろうか。眉を垂らして苦笑いしたアキラは、七つも離れたこの青年の隣に確かな居心地の良さを感じていた。
 鼻を啜りながらハンドルを握った芦原は、情けなくも照れくさそうな笑顔を見せた。
「よっし、行くか! そんでアキラは何食べたい?」
「豆大福」
「へ……」
「……なんてね」
 悪戯っぽく笑ったアキラに、芦原は再び目尻に涙を浮かべて泣き笑いの顔になってしまった。
「も、もうあの店閉まってるよ〜」
「冗談ですよ。じゃ、焼肉行きましょう」
「アギラ〜〜〜」
「もう、こんなことで泣かないでくださいよ」
 賑やかな車はゆっくり発進し、夜の街を軽やかに走り去った。
 もしまた落ち込むことがあったら、芦原に話を聞いてもらおう。
 そして、もう少し大人になったら、今度は自分が芦原の話を聞いてあげよう――
 そんなことをぼんやり考えるアキラを乗せて。






 ***






 リビングに置きっぱなしだった携帯電話が耳障りな電子音を立てている。
 キッチンでグラスに氷を放り込んでいた緒方は煩わしそうに眉を寄せて、その割にのんびりとウイスキーを注ぎながら、琥珀色のグラス片手に悠々とリビングへ戻って来た。
 相手が根気強いのか、未だしぶとく鳴り続ける携帯を手に取った緒方は、液晶画面に表示された名前を見て軽く眉を持ち上げる。
 通話ボタンを素早く押して耳に当てた。
「もしもし」
『緒方さん?』
 聞こえて来た声には意外にもしっかりと芯があり、先月、不躾な明け方に今にも死にそうな様子で助けを求めて来た時とは別人のようだった。
 これは山を越えたのだろうか――緒方は携帯片手にソファにどっかり腰を下ろして、グラスに口づける。カラン、と大きな氷が揺れた。
「何か用か?」
『……まずはお礼を。あの時は、すいませんでした』
 緒方はふっと口唇の端を釣り上げた。
「ほう、悪いことをしたという自覚はあったか」
『あまり虐めないでください。……みっともないところを見せました。もう……泣き言は言いません』
「……分かったのか?」
『――ボクなりの、答えが出ました』
 緒方は笑った口のまま、ちびちびとグラスを傾ける。
 口内に流れ込んで来る液体がいつもより熱く感じるのは気のせいではないだろう。
「なら、急ぐんだな。モタモタしてたらアイツは待ちくたびれてどんどん先へ行っちまうぞ」
 からかうように告げた言葉に対して、
『全力で追いかけます』
 力強く返して来た弟弟子との通話を終えた緒方は、携帯をテーブルに置いてふうと息をついた。
 あの声を聞く限り、立ち直ったのは本当だろう。
 死にかけていた龍が頭を擡げ、いよいよ天を目指して雲を突き破る時がもう間もなくやって来るのだろうか。
 手の中のグラスはひんやりと冷たいが、掴む指先にも、アルコールを取り入れた胸の奥にも、じわりと内側から羽を広げるような熱が棲んでいる。
「さあ、どちらが先に「sai」になってくれるのか――」
 細めた瞳はどこか遠くを見つめていたが、その中枢に宿る炎は燃え上がる時を今か今かと待ちわびているように、ゆらゆらと小さな光を躍らせていた。






地底編の総まとめも終わりました。
ようやく次の一歩に進める〜!
締めが緒方さんってなんかヤラシイな。
(BGM:END OF SORROW/LUNA SEA)