ERASE






「もー、くすぐったいって……やめろよ、こら」
 制止を指示する割にはちっとも嫌がっている様子はなく、それどころかくすくすと笑い声を挟みながら、もぞもぞと絡み付いてくる腕の動きにヒカルは身を捩らせた。
 すでに夜明けを迎えて明るくなっている部屋に置かれた大きなベッドの上で、頭からすっぽり毛布をかぶったアキラが昨夜の余韻を求めてしつこく身体を引っ付けてくる。
 眠る前にかろうじて穿いたトランクスさえずり下げようとする不埒な手を掴みながら、ヒカルは説得力のない蕩けた声でアキラに自制を促がした。
「やめろってー。何朝からサカってんだよぉ」
 言葉の意味よりも声の調子を重視するなら、ヒカルの要求は「もっと」ととしか受け取ることはできないだろう。そしてアキラもそう判断したらしい、ずるっと強引に下ろしたトランクスの下の、薄っすらと毛に覆われている足の付け根辺りに吸い付いた。
「あっ! こ、こらっ!」
 さすがにあからさまな攻撃を受けてヒカルは身を起こしかけたが、皮膚の弱い部分を舌で強く刺激されると抵抗する力がへなへなと抜けていってしまう。
「もぉ……、お前、マジサイアク……」
 観念したようにぼすんと頭を枕に落とし、軽く顎を仰け反らせて、ヒカルは完全に服従の姿勢になった。
 毛布の中、ヒカルの下半身にへばりついている塊が小さく揺れ、くぐもった笑い声混じりに掠れた声を響かせた。
「最高、の間違いだろう?」




 ***




 早朝の眩しい太陽の下で、爽やかさとは程遠い艶めかしい一戦を開始した二人は、身体つきこそ大人であるが中身はまだ二十歳前の少年である。しかし、一般的な未成年と違うのは、彼らがすでにちゃんとした職につき、一人前以上の収入を得て独立していることだった。
 ありふれた八畳程度の部屋面積のほとんどを占領している大きなダブルベッドの上、朝っぱらから睦み合っているヒカルとアキラは碁を打つことを生業としている。いわゆる同業者で、しかも二人は周囲から一目置かれるライバル同士だった。
 そして、親にも友人にも先輩にも、誰にも言ってはいけないトップシークレットだが、二人は恋人同士でもあった。
 検討に便利だという理由で同居を始めてからすでに二年、本人たちだけがこれが同棲だということを理解している。周りには散々ライバル同士で一緒に暮らすなんてやめておいたほうが、と窘められたが、二人はうまく躱し続けていた。

「お互い仕事が忙しくて、就寝前の時間くらいしか合わないんです。後の生活パターンは全く違いますから、同居という感覚さえあまりありませんよ」

「やっぱアイツと打つと刺激になるからさ。一日ほんのちょっとでも向かい合ったほうが引き締まるんだわ。ま、自分のことは自分でやるって約束だから、碁以外はほとんど顔も合わせないぜ」

 しかし外の顔に対し、実際の状況はこの通り。
 ちょっとした気分の盛り上がりから昨夜は若い身体にすっかり火がついてしまって、一眠りした後に体力を取り戻して朝からこんなふうに絡まっていたりする。
 床の広さにそぐわないダブルベッドが置かれているこの部屋は、本当はアキラの部屋として割り当てられていた。今は、主に二人の寝室として使われている。
 その代わり、粗末なパイプベッドの他にはあまり物のないヒカルの部屋でもっぱら対局や検討が行われた。二人の部屋の他に控えめなリビングがある2LDK、暇さえあればべたべたとくっついている二人にとって、このマンションは誰の侵入も許さない城だった。
 だから、アキラは「進藤が散らかしているから」と知人を部屋に招いたりしないし、ヒカルも「塔矢がうるせーんだ」と友人を呼び込んだりしない。
 この部屋は二人だけのもの。外では完全なライバルを演じている彼らが、誰の目も気にせずに遠慮なくいちゃつける大切な場所だった。
 そんな二人の同棲生活はとてもうまくいっていると本人たちも思っていたし、周りも意外にトラブルの起こらない同居生活に理解の目を向けるようになってきた。事実、二人が共に暮らし始めてから更に戦績が上がったのだ。
 これから先もずっとうまくやっていけると、二人を含めた誰もがそう思っていた。しかし、何が起こるか分からないのが世の常である。




「外に車待たせてるから! ごめん進藤くん、ちょっと走って!」
 棋院の職員と共に慌しく廊下を駆け抜けるヒカル。時計を見ながら、次の取材先であるホテルにギリギリの時間で向かうところだった。
 一方、
「塔矢先生、打ち合わせ上の階です! もうみんな揃ってますから、申し訳ないですけど急いで!」
 同じく廊下を小走りに渡るアキラもまた、分刻みどころか秒単位で行動を判断しなければならないような忙しさに息をつく間もなかった。
 こんなことも日常の一部であり、それで根をあげるような二人ではない。日々のスケジュールをこなしながら、一流の棋士と呼ばれるべく邁進しよう、そんなポジティブな精神を持っていたため、仕事には常に全力投球だった。
 それが災いしたのか、次の仕事先へと足を速める二人は全く前を見ていなかった。手元の時計、打ち合わせに使う資料、そんなものに目を走らせながらほとんど全速力で駆けていたのだから、咄嗟のブレーキなど効くはずがない。
「し、進藤くん! 前!」
「塔矢先生っ!」
 二人の後をマネージャーのようについてくるそれぞれの職員が悲鳴を上げた。
 え、と思って顔を上げた時には、愛しい恋人の顔が間近にあって――それからごつんという派手な音と激痛がいっぺんにやってきて、世界が暗転した。
「進藤くん、進藤くんっ!」
「と、塔矢先生っ! しっかり!」
 遠くで喚いている声が聞こえる……。
 二人は真っ暗な視界の先を取り戻すことができず、額に感じる痛みと共にそのままずぶずぶと闇へ落ちていった。






 関係者は困惑した。
 額に大きなたんこぶをこさえて病院に運び込まれた二人は、それから三時間一向に目を覚まさなかったのだ。
 アキラの両親は先週韓国に旅立ったばかりで、あと一、二週間しないと帰国の予定がない。そして不運なことに、ヒカルの両親もつい昨日から夫婦水入らずで旅行に出かけているらしく、二人の親には息子が病院にいることを伝えることができないままだった。
 その代わりに集まった塔矢門下の緒方・芦原、ヒカルの友人代表和谷・伊角。
 頭を強く打ち付けただけで脳にも異常はないから心配ないだろうとの診断で、最初こそ安心していた彼らもだんだん不安の色を見せ始めた。
「いつになったら目を覚ますんだ? 派手に正面衝突しただけなんだろう? こいつらの頭はそんなに硬いのか?」
 苛々と足を踏み鳴らすタイトルホルダーの緒方にびくつきながら、和谷がこわごわ口を挟む。
「その、俺ら看てますから、目ぇ覚めたら連絡入れますんで、緒方先生はもう……」
 帰っていいですよ、と続ける前に緒方の怒号が飛ぶ。
「馬鹿を言うな! 俺は塔矢先生からアキラを任されているんだ。何かあったら先生に申し訳が立たん」
 隣の芦原は肩を竦め、気にするなというように和谷に軽く手を振ってくれた。
 和谷は不慣れな塔矢門下の重鎮を前に、すっかり萎縮して伊角の後ろに身体を引っ込ませる。
 そんなやりとりをしばらく続けていた時、ふとガサガサとシーツの擦れる音が聴こえて来た。
 全員がはっとして目を向けた白いベッドの中で、うーんと小さな唸り声を上げながらアキラが寝返りを打ち始めたのだ。
「アキラ!」
 緒方と芦原が駆け寄る。和谷と伊角も続き、四人で見下ろしたベッドの上、アキラが薄っすら目を開く。
 病室に安堵のため息が広がった。
 芦原はナースコールを押し、緒方はまだぼんやりとした表情のアキラを覗き込んで満足げに頷いた。
「気分はどうだ? 頭が痛むだろうが、脳に問題はないそうだ。まあ、何事もなくて良かったな」
 緒方の言葉にアキラは軽く小首を傾げ、寝ぼけたような顔ではあ、と頼りなく頷いてから、再びもう反対側に小首を傾げてこう言った。
「確かに頭は痛みますが、あの、それよりもまず、あなたはどちら様でしょう?」
 びしっと病室が凍りつく。
 緒方の顔があからさまに強張ったのを見て、芦原が慌てて間に入った。
「あ、アキラ! 寝ぼけてんのか? お、お前疲れてるもんな、この際だ、今日はゆっくり休んで……」
「あなたも……失礼ですがどこかでお会いしたことがあったでしょうか?」
「アキラ!?」
 芦原の目が今にも飛び出ん勢いで見開かれた。
 アキラは冗談を言っている素振りを見せず、心底不思議そうに二人を見て、それから呆然と突っ立っている和谷と伊角に顔を向けた。
「あなたたちは……ボクを知ってるんですか? ここは病院……? ボク、どうかしたんでしょうか……」
 一時は石化した緒方も、事の重大さを悟ったらしく、ごほんと大きな咳をして気を引き締め、改めてアキラと向かい合った。
「アキラ。……俺が分からんのか?」
「ええ、全く。というより、「アキラ」というのは誰のことです?」
「何?」
「そもそも……、ボクは、誰だ……?」
 四人は同時に口を開けた。そこからは動揺のあまり何の音も発せられることはなかった。
 呆けた顔の四人に囲まれ、アキラがひたすら不思議そうに首を傾げる中、隣のベッドからももぞもぞと人が動く気配がした。
 四人は飛びつくようにヒカルが眠っていたベッドに移る。ヒカルは眉間に皺を寄せ、渋い表情を作ってから、そろそろと瞼を開いて覗き込む四人をとろんと見上げた。
「進藤! 大丈夫か!」
「進藤、俺が分かるかっ!」
 伊角と和谷の声にヒカルは目を向け、少し間を置いてから「……誰?」と呟く。
 四人の顔が蒼白になった。
「え、ここどこ……? てかあんたたち誰? うわオデコ痛ぇ……あれ、俺って誰だっけ?」
 疑問符を飛ばし続けるヒカルと、そしてアキラを前にした四人は頭を抱えることになった。





ギャグというか、(またも)品がありません……。
二人とも変態入ってます。
真面目な二人がお好きな方はストップで。