ERASE






 強い衝撃による一時的な記憶障害――多分。
 ……というのが、医者の苦しい見解だった。
 二人は周りの人間どころか自分自身のこともきれいさっぱり忘れ、名前、年齢や住むところの他、自分たちが囲碁の棋士であることも何も覚えていないと言うのだ。
 もちろん同居相手であるお互いのことも全く分からず、非常に困惑した様子を見せていた。この状況をそれぞれの保護者に伝えたくとも、すぐに連絡が取れないことに関係者は悩んだ。
「とりあえず実家に帰したほうが。何か思い出すかも」
「だが、面倒を見る親もいない実家に帰しても意味があるかどうか……」
「あいつら、同居してもう二年になるから、マンションのほうが身体に馴染んでるかも」
「前と同じ生活をさせたほうが思い出すのも早いかもしれないって言ってましたよね」
 とりあえず様子見――そんな便利な言葉と共に、結果として関係者は彼らを放り出した。要するにお手上げだったのである。
 そうして、二人は自分たちが今まで住んでいたのだと教えられたマンションに戻ってきた。彼らにとって、今や隣にいる相手は見知らぬ人間。それどころか自分たちのことも分からないのに、さあ今まで通りの生活をしなさいと覚えのない家に帰ってきたのである。
 マンションのエントランスで、二人は気まずく顔を見合わせた。
 これがお前らの持ち物だと手渡されたバッグの中には、住家の鍵らしきものも見つかった。取り出して比べてみれば丸きり同じもので、やはり同居しているというのは嘘ではないらしいことを悟る。
 とはいえ全く知らない人間同士。何をするにも遠慮が前に出る。二人とも顔をちらちらと見合い、躊躇いながら、結局アキラがその鍵を使ってオートロックを解除した。



 部屋に入ると、それほど長くもない廊下の向こうにドアが三つある。ひとつはどうやらリビングに繋がっているようで、とすると残り二つはそれぞれの部屋なのだろう。
 幸い、ドアの前には「ヒカル」「アキラ」と手書きのプレートがかかっていた。これで自分がどの部屋の主であるかは分かったが、すぐに部屋に逃げ込むのもどうかとお互いに気を使い、二人はひとまずリビングへ向かった。
 室内に見覚えはなかったが、空気がどこかしっくりくるような気がする――アキラがそんなことを思いながらきょろきょろと部屋の中を見渡していると、ヒカルが小ぶりのソファにどっかり腰を沈めた。
「あー、もうデコ痛くて最悪だよ〜。なあ、俺らホントに一緒に暮らしてんのかな?」
 その言葉が自分に向けられていると気づいたアキラは、馴れ馴れしい態度に戸惑いながらも曖昧に頷いた。
「どうも……そう、みたいだね。ドアの前にプレートがあったし、この部屋……覚えてないけど、何となく落ち着く」
「あ、俺も思った」
 たった今座ったばかりなのにヒカルはぴょこんと身体を起こし、アキラに負けじと部屋の中を物色し始めた。
 テーブル、テレビ、コンポ……ごく普通の家具が並ぶリビングには際立ったものはないが、キッチンに目を向けるとちらほら生活感を感じさせるものが見つかった。
 アキラが開けた冷蔵庫には、それなりにちゃんとした食材の他に何本かのペットボトルが入っている。全てが炭酸飲料で、フタにはご丁寧に「ヒカル」と名前が書いてあった。
 子供っぽいことをするんだな、とアキラが苦笑いをしている後ろで、ヒカルが奇妙な呟き声を上げた。
「なんだこれ……」
 神妙な声の様子にアキラが振り返ると、ヒカルは食器棚を見て腕組みをしているところだった。何かヘンなものでも見つかったのかとアキラも覗き込むと、並んでいるのは食器ばかり。
 ヒカルが何故眉を寄せているのか分からず、アキラもしばらく食器を睨んで――その理由に気づいた。
 食器はどれもこれもペアになっていた。しかもお揃い。色違い。二人用の茶碗、皿、カップ。箸までもがお揃いで、たった二本が仲良く箸立てに並んでいる。
 二人は思わず顔を見合わせた。――なんかこれ、気持ち悪くね? ――そんな目だった。
「……何故わざわざお揃いにしているんだろう……。どれもこれも、きっちり二枚ずつしか揃ってない……」
「俺ら、友達とか呼ぶことなかったのかな……。そういや和谷ってヤツがマンションには来たことないって言ってたな」
 完全に二人の世界だった食器棚に薄ら寒いものを感じて、ヒカルは慌てて扉を閉める。ぱたんという音で我に返ったアキラは、動揺を抑えつつ次に手がかりになるものはないかと部屋を見渡した。
 手がかりとは要するに、記憶を取り戻すためのきっかけだ。
 他人どころか自分のことも分からない状態で過ごすのは厳しい。同居している相手のこともよく分からず共同生活が送れるものだろうか……アキラははっきりと不安を感じていた。
 と言うのも、同居人の進藤ヒカルという人間がどうも自分に合ったタイプとは思えないのだ。
 姿格好はやけにちゃらちゃらしているし、前髪なんて金色で、先ほどから注意して聞いていると言葉遣いも荒い。
 物怖じせずアキラに話しかけてくる態度は何だか常に偉そうで、むっとすることもしばしばあった。
 こっちが初対面の相手に気を使っているのに! ――心の中で威嚇しても全くヒカルは意に介さず、ついにはアキラのことも「お前」呼ばわりだ。
 本当にこの男と同居していたのだろうか? アキラは首を捻り、解せない、と呟くのだった。
 一方ヒカルも、難しい顔をしている男にちらりと横目を向け、気づかれないようにため息をついていた。
 けったいな頭をしたこの塔矢アキラという男、いかにもクソ真面目で融通が利かない頭の硬いタイプ、と言ったところか。口調も何だか堅苦しいし、自分のことを「ボク」なんて呼ぶ旧時代のお坊ちゃまだ。
 ぴんと伸びた背筋、しゃきしゃき運ぶ足、その爽やかぶりが気に食わないというか、苛々する。アキラのような優等生タイプとは絶対に合わないと断言できるのだが、そんなアキラと同居しているなんて自分がどうしても信じられない。
 キッチンは綺麗に手入れされていた。掃除なんてやりたいという気持ちも湧かないから、きっとアキラが担当しているのだろう。
 対してテレビの傍。ゲーム機が何台か並び、AVボードのガラス戸の中にはヒカルが好みそうなアクションゲームがずらりと並ぶ。これはきっと自分のものだと、そういったことは納得できるのだが。
 ヒカルがそっと振り返ると、アキラはテーブルの上に置かれたままの碁盤をじっと見つめていた。
 お前らは棋士だ。囲碁を打つのが仕事なんだ――眼鏡をかけたヤクザみたいな白スーツの男にそう言われたが、自分が碁を打つなんて何とも奇妙な図だった。
 ――だって、囲碁ってアレだよな? 黒い石と白い石をなんか並べてくやつだよな?
 身震いするほど地味な構図だ。この落ち着きのない自分がそんなことをやっていたなんて、考えただけでむずむずする。
 しかしアキラなら、その年寄り臭いゲームもしっくり来るような気がする。じっと碁盤の前に座っている様がありありと浮かぶ……ああ似合う。ヒカルは嘲笑に近い笑みを見せた。
「……進藤」
 にやにや笑っていると突然名前を呼ばれ、びくっとヒカルは身体を竦ませる。
「な、なんだよ」
 進藤、というのが自分の名前であるというのもついさっき聞かされたのだから、こんなふうに名前を呼ばれるのは慣れない。
 まるで怒ったように返事をしたヒカルをちらっと見たアキラは、ため息混じりにテーブル脇を指差した。
「これ、キミのだろ。見苦しいから片付けてくれないか」
「え?」
 アキラが指す場所を覗いてみれば、テーブルとソファの間に絡まって脱ぎ捨てられているパジャマのシャツがあった。ヒカルはむっとして言い返した。
「俺のだってなんで分かるんだよ! お前のかもしんないだろ!」
「ボクがこんなところに服を脱ぎっぱなしにするなんて考えられない。事実、これを見た瞬間イラっとした」
 平然と言い放つアキラに激しい怒りを覚えたが、何故だか言い返せない。その証拠もないのに、――彼の言うとおりのような気がするのだ。
 腹が立つが、恐らくアキラが指摘したように、脱ぎ散らかしたのはヒカルではないかと思われる。だってこれくらい、別に気にもならない。自分の家なんだからどうだっていいだろなんて思ってしまう。
 ――ったく、うるせえヤツ! てめえが脱がしたくせに!
 心の中で毒づいて、ん?とヒカルは思考を止めた。
 ……今何か、おかしなことを考えなかっただろうか?
 無意識のうちに浮かんだ言葉を思い出そうとするが、どうにも頭がはっきりしない。まあいい、どうでもいいとぐしゃぐしゃのパジャマを乱暴に掴んで、ヒカルは今度は自分の部屋を見に行くことに決めた。
 アキラはリビングを出て行くヒカルの背中を睨みながら、ふっと短く息をつく。
 思ったとおり、だらしがない。見た目そのままだ――まるで違う生物を見るような目をして、アキラはこれからを思って途方に暮れた。
 こんな調子じゃ、この先苛々させられるばかりではないだろうか。大体、何故ライバル同士で同居なんてしているのだろう。普通、ライバルと暮らすなんて逆にやりにくいのではないだろうか?
 アキラが受けた説明は、自分たちは囲碁の棋士で、棋界でもかなり名前の通った期待の若手であること、龍虎とも称されるほどのライバル同士だが、二人で打つ時間が欲しいと言って二年前から同居をし始めたこと、それだけだ。
 一体何が悲しくて一緒に暮らすことを決めたのだろう? アキラは記憶の無い二年前の自分を恨めしく思った。
 ――きっと、ボクは日頃から相当我慢させられているんじゃないだろうか。そうに違いない。本当にだらしがなくて……、まあ、そんなところも可愛いのだけれど……
 あれ?とアキラは首を傾げた。
 ……今、奇妙な気持ちが生まれたような。
 何を考えていたっけ、とほんの少し前の記憶を探るが、ふわふわしてうまく思い出せない。まあどうせ大したことではないだろうと、アキラもまた自分の部屋へ向かうことにした。
 「アキラ」とプレートがかかったドアのノブを握り、ぐっと押し込むように開いて――アキラは悲鳴を上げた。






とりあえずは手探り状態で。
周りの丸投げっぷりがご都合主義で申し訳ない。