他には何もいらなかった。 あの存在が全てだった。 追いかけて、追いかけて、ようやく捕まえた腕の中から――するりと抜け出した愛しい気配が消えてしまった。 あの存在だけが全てだった。 *** ぴくり、と指先が揺れた。 視界の中央で輪郭のぼやけた肌色の指先が、意志に関係なくひくひくと動いているのを、アキラは黙って見つめていた。 正確には見つめていた訳ではなく、目の中に映っていただけだった。それでも、見える範囲で僅かながらも動くものを見つけて、アキラの意識が徐々に醒め始める。 身体が痛いとアキラは思った。うまく力の入らない足や肘を少しだけ動かしてみて、ようやくアキラは自分の身体が地に伏していることを理解する。 頬が床に圧迫されているのは、右肩を下にべたりと横たわっているためだろう。ラグのおかげで冷たさはなくとも、顔の半分が潰れたような嫌な感覚はそれに勝る程不快なものだった。 アキラが見つめていたものは、だらりと伸ばした右腕の指先だった。 血が通っているとは思えない青白い指先が、何かに触れたようにぴく、ぴく、と不規則に動く。 二の腕部分は身体の下敷きになっているためかじんわり痺れて、すでに感覚がない。 アキラは指先を意味もなく見つめ続ける。 どのくらい時間が経ったのか。 何度そんなことを考えただろう。 この部屋に閉じこもってから何日経ったのか。いや、本当は何日も経ったと思っているだけで、実はそれほど経過していないのか。 それでも少なくとも二度は朝日が室内を照らしたのを見たような気がするから、それだけの日数は経っているはずだ。いや、それすらも夢かもしれない――現との区別はとうに分からなくなっていた。 ずっと転がっている訳ではない。時折身体を起こして、ソファに腰を下ろしたりもする。手洗いにも立つし、腹だって減ったような素振りを見せるが、食べ物を口にしようかと想像しただけで何度か吐いてしまった。 仕方なく水だけを口に含み、思い出したように床に転がって、人は水だけでも数日は生きていられる、なんてことを他人事のように考える。 別に生には執着していないのだけれど。 それでも身体にはいつも通りの血が流れている。 胸にぽっかりと穴が開いた、とはうまい表現だと今更思う。 かつてアキラの胸に溢れていた、大切な存在を思う慈愛の気持ちがそっくり奪われてしまったようだった。 何をするでもなく、何もする気がなく、ただひたすらぼんやりと横たえているその身の中央で、小さく心臓が控えめな収縮を繰り返す。 穴が開いても、心臓は動いている。 この胸を高鳴らせる愛しい人がいなくなってしまったのに。 *** 胸の中に微かな期待が残っていなかった訳ではなかった。 こうして一人待ち続けていれば、ヒカルが手を差し伸べてくれるのではないかと。 呆れられても、失望されても、傍に来て欲しかった。 だからこうしてソファに呆然と座り込み、焦点の定まらない目でカーテンが開いたままの窓を凝視し続けている。 ずっと一人で閉じこもっていれば、いつか迎えに来てくれるのではないかと。 いつまでも外に出て来ないアキラを心配して、ヒカルが折れてくれるのではないかと。 恐らくはそんな甘い期待が、逆にアキラの理性をギリギリのラインで保ってくれていたのだろう。 ろくな食事もとらず、風呂にも入らず、起きている時は何もせずに、それ以外は気を失ったように眠る生活はアキラの体内時計を確実に狂わせた。 目が覚めた時に部屋が明るくなっていても、それが五分前と同じ明るさなのか、すでに一日経過した後の明るさなのかが分からない。 胃の中では蛇がのた打つような気分の悪さが波となってうねっている。 頭には時折両側面から脳を締め付けるような鈍痛が走り、常に薄く開いている口唇のせいで口内はすっかり乾いて喉が痛い。 そんな身体の状況を改善しようとする気も全く起こらず、アキラはただソファに座っていた。肩を落とし、両腕を力なく垂らして、膝を開いたまま背凭れに体重を預けて、据わらない首のせいで顎はやや上向きに。 ――どうしてこうなってしまったのか。 いつもの言い争いだったはずだ。あんな口喧嘩はしょっちゅうだった。 ヒカルが声を荒げることだって珍しくなくなっていたし、それでも腕を開けばいつもヒカルはその中に捕われてくれた。 でもあの日は違った。 アキラを見るヒカルの目に、アキラの知らない色があった。 それは初めてアキラが目の当たりにしたヒカルの本気だったのかもしれない。 あの目は実に雄弁だった。 だから、本当はこうして何もせずにぼんやりと時を過ごしても、僅かな望みという名の逃げ道を造ってヒカルを待ち続けていても、全ては無駄なのだということは頭のどこかで理解している。 しかしそれを完全に認めてしまえば、今度こそ本当に頭がおかしくなってしまうような気がして――アキラは深く考えることを放棄しようとしていた。 もしもこの先二度とヒカルが戻って来ないのなら、理性を保っていたってどうしようもないのに、そんな自虐的なことを薄ら思いながら。 壊れてしまわないのはまだ余裕が残っているからかもしれない。せめてもの景気付けに口唇の端を持ち上げようと小さな努力をしてみたが、麻痺した顔はアキラの指令を拒否してぴくりとも動かなかった。 窓の向こうに見える色が白から黒へと変わっている。 夜が来ると自覚した途端、いつも酷く心細くなった。 誰も来ないこの部屋に置かれたあらゆるものが作り出す影が、独りぼっちのアキラを追い詰める。 この部屋には誰一人訪ねて来ない。かつてヒカルが押した優しいチャイムの音色は、もう何日もアキラの耳に触れることがなかった。 そんなことを暗闇の中で一度思い出してしまうと、次々に優しい思い出が胸の中で浮かんでは弾けた。 柔らかい金色の前髪が太陽の光の下で揺れる。 無くなってしまうくらい細めた目と、無邪気に歯を剥き出してみせる屈託のない笑顔。 近頃随分と節が目立って来た指と、その指先が碁石を摘む仕草。 振り向いた時に軽く小首を傾げ、襟元から軽く覗く鎖骨のライン。 どれもこれも愛しすぎて、失われてしまったものだとは思いたくなかった。 でも、もうヒカルはアキラを振り向かない。 ヒカルには何の躊躇いも残っていなかった。 いつからかは分からないけれど、彼はとっくに決断していたのだ。 アキラが気付かないうちに、ヒカルは腹を括っていた。 ――どうしてそうなってしまったのか。 碁が打てなくなったからだろうか。勝ち続けていれば、ヒカルはずっと傍にいてくれただろうか。 ヒカルのためだけじゃなく、他の誰かに対しても全力を出せればこんなことにならなかったのだろうか。 ヒカルだけを見ていたことが何故いけなかったのだろう。ヒカルさえ居てくれればそれだけで良かったのに、どうして二人だけでは駄目だったのだろう。 分からないし、分かったところで無駄なこと。もう何もかもが遅い。ヒカルは戻らない。 ヒカルは迷いなく、恋人としてのアキラを振り捨てて行ったのだ。 たとえアキラが力を振り絞って追いかけても、あの目に一瞥されてしまったら二度と立ち上がれなくなる。 あんなヒカルは見たことがない。 室内から影が薄れ、空は白々と時の移り変わりを告げている。 ああ、朝だ。見開いたままの瞳には白い光が眩しいだけで、朝が来たことなど何の意味ももたらさなかった。 太陽が昇っても、この部屋に常に在った太陽は戻らない。 時間ばかりが過ぎて行く。 |
迷ったあげくにこのタイトルです。
迷った理由はfall outじゃなくて名詞のfalloutだからなのですが……
不謹慎かと思いつつもこの曲がぴったりな地底編です。
でもあんまり引っ張らないようにしますね。