朝が来て夜が来て、白と黒の入れ代わりは時間の経過の認識と共に対の碁石を思い出させて、アキラの胸を酷く刺激した。 何もせずに転がり続けて何度その対の景色を目にしただろう。 相変わらず身体に力は入らずに、アキラは目を開けている時も閉じている時もリビングで過ごし続けた。 その頃になると空っぽになって久しい胃がじくじくと不規則な痛みを訴えるようになった。 膿んだような痛みは時に吐き気を引き起こし、耐え切れずにトイレへ身体を引き摺っても、胃液が込み上げてただ噎せ返るばかりだった。 ずっと表情をなくしてぽかんとしていた顔が、その時ばかりは苦痛で歪むため、しばらく使っていなかった顔の筋肉が引き攣れて不自然な皺を作っていた。 身体の不調が如実に現れ始めると痛覚が刺激されて、皮肉なことに何も考えずに転がっている訳にはいかなくなってきた。 身体を横たえても、絶えず纏わりつく痛みやむかつきに苦しめられる。 トイレに行く回数が増えた。度々キッチンに立つのが億劫で、ミネラルウォーターは出しっ放しになった。 手足を動かし始めると、忘れていた生の感覚が少しずつアキラの中に戻って行く。 同時に、それまで呆然としていることで気付かずにいられた負の感情が、じわじわとアキラを蝕み始めていた。 テーブルに置きっぱなしの携帯電話が何度か震えていた。 その都度アキラは機械仕掛けの人形のようにぎこちなく手を伸ばしていたが、全て棋院関連からの番号だと分かるとやがて電源を切ってしまった。 恐らく無断で欠席した手合いやその他の仕事についての問い合わせだろう。 どれだけ待っても、ヒカルからは電話もメールも何一つ来ない。 ヒカルはアキラを捨てたのだ。 「……」 ヒカルに捨てられた。 「……」 横たわる身体が重くて、床に沈んで溶けてしまいたい。 「……」 ただただ呆然と瞳を開き、気絶するように眠り、また目を開いて半開きの口を震わせる。 「……」 まるで木偶の坊のようになってから、一体どれだけ時間が過ぎただろう。 「……っ」 ヒカルがいない。 ヒカルがいない。 ヒカルがいなくなってしまった。 かつてアキラを見つめていた、あの熱を帯びた瞳が消えてしまった。 二人だけでいたかった。 それは自分のためでもあり、ヒカルのためだとも思っていた。 ただ、守りたかっただけだ。 ヒカルを、ヒカルの笑顔を守りたくて築き上げたこの場所で、アキラは独りになってしまった。 枯れ木のように転がり始めてから数日、ようやくアキラの瞼の奥から久方ぶりの熱が生まれて来た。 喉と鼻を刺激しながら込み上げて来る熱い塊は、水滴になって眼球を包み込むように溢れだして来る。 一筋涙が頬を伝うと、その後はあまりに止めどなく湧き出て来て、乾き切ってパサパサになったアキラの頬がくまなく濡れそぼって行った。 はらはらと落ちる涙は決して美しいものではなく、それが引き金となってアキラの表情はぐしゃりと潰れてしまった。 喉の中を痛みが暴れ回り、ひくひくとしゃくりあげる。鼻の奥からはどろりとした液体が今にも流れ落ちそうで、それがアキラの呼吸を塞いで更に苦しめた。 涙は次々と溢れ出て、肩を跳ねさせながら堪えていたアキラは、とうとう声を上げて泣き出した。 哀しい。哀しい。 そのくせ哀しみとは何なのかもよく分からない。 とにかく、身体の欲求に従ってひたすらに泣いた。 泣きたいのだから、その通りに泣けば良いのだと無理な理屈で泣き続けた。 泣き続けてからどれほど時間が経ったのかは分からない。 *** 世界から遮断されたこの場所で、身体の感覚がなくなるほどにぼんやりとして、泣きたいだけ滅茶苦茶に泣き続けた後、アキラは今度は全身が震えるのをどう抑えたら良いのか分からなくなった。 考えることを放棄することで、ただ転がっている時はまだマシだった。 込み上げてくる欲求に逆らわず、喉が苦しくても胸が痛くても泣き続けている間はそれで良かった。 全てが治まって、だんだんと「思考」というものが戻りつつある今、アキラの身体を再び恐怖が支配し始める。 怖い、と自覚をした途端に震えは再開した。 頭の天辺から足先まで、全ての神経が震えているのではと思う程にがたがたと身体を揺らしたアキラは、その恐怖に顔を引き攣らせてもどかしく自らを抱き締める。 怖い。怖い。一人でいるのは怖い。 考えたことがなかった。――失うとはどういうことかと。 ずっと続くと思っていた。醜い嫉妬や周りの雑音に苦しめられながらも、二人だけの世界はずっと繋がっていると思い込んでいた。 分からない。手を離された理由が、見限られた理由が。 分からない。あの笑顔が消えてしまった理由が、見たことのない目で見据えられた理由が。 こんなに愛しいのに、こんなに苦しいのに、ヒカルはアキラに手を伸ばしてくれない。 怖くて怖くてたまらないのに、ヒカルは振り返ろうとしない。 ――もう、アキラのことなどどうでもよくなったのだ――嘲笑うような声が頭の中でわんわんと響く。 そんなはずがない。あんなに求め合っていたのに。あれほど分かり合っていたのに。 ――お前の思い込みかもしれないよ―― 違う、違う、確かに心は繋がっていた。 ――どちらにせよ、見放されたのだから―― 「――怖い」 怖い、と口にした途端。 ざわりと全身が総毛立った。 どれほど身体を掻き抱いても離れて行かない寒気が、アキラの震えを助長させる。 怖い。怖い。怖い。 ヒカルがいない、ヒカルがいない、ヒカルがいない。 怖くて怖くて震えが止まらない。どうしたら良いのか分からない。この苦しみからどうやって抜け出せば良いのか分からない。 怖い、怖い、怖い…… 「怖い」 震えが止まらない。 「こわい」 ――誰か…… 誰でもいいから、誰か。 誰か、助けて。 誰かここから救い上げて。 助けて。何でもいい。ここから解放してくれるのなら何だっていい。 助けて、助けて、助けて。 怖くて怖くてたまらない、誰でもいいから、誰か、誰か、誰か、 ――誰か! その時、眠っていた記憶の隅でふいにひらりと閃いた低い囁き。 ――いいか、忘れるなよ―― ――どうしようもなくなったら、誰かを頼れ―― アキラは泣き濡らして腫れ上がった目を愕然と見開き、震える口唇をわななかせて、やがてぽつりと声が漏れた。 「……緒方、さん……」 掠れた囁きはまるで夢の中にいるようで――アキラは自分の呟きが何処か遠いところで囁かれたかのように、その音を耳に拾い入れるのが精一杯だった。 |
ちょっと早かったかな?
でもこれで、やっとSTRANGERからの伏線を
消化できてほっとしました……長かった……