FALLOUT






 ずっと落としていた携帯電話の電源を入れた時、愚かにも無意識にメールの問い合わせをしたアキラは、一通だけ届いたメールが芦原からのものだと分かると途端に表情を歪ませた。
 メールの中身も確認せず、何年もかけたことがない電話番号をもどかしく呼び出して、半ば自暴自棄にコール音を聴く。なかなか途切れないコール音は、アキラが何も考えずにかけた時間帯のせいだろう。およそ普通の人間が起きている時間ではなく、しかしアキラからそんな感覚はとっくに失われていた。
 苛々と震える身体を縮こまらせ、強く携帯を握りしめる指先が白く冷たい。
 何故すぐに出てくれないのだろう。筋違いな苛立ちを募らせて、アキラは再び込み上げて来る熱を我慢しきれずに携帯を耳に当てたまましゃくりあげ始めた。
 その時だった、コール音が途切れて低い声が響く。
『……もしもし』
 やけに不機嫌な声だったが、アキラの耳には随分と久しぶりに聴いた他人の声でもあった。
 途端に身体の力ががくりと抜けて、アキラはしゃくり泣きながら一言告げるのが精一杯だった。
 「助けて」と。






 ***





 後から時計を見ると、すでに明け方に近い時間だったようだ。
 それでも緒方は要領の得ないアキラの説明を黙って聞き入れ、愛車を相当に飛ばしてマンションへと駆け付けて、何も言わずに車へとアキラを押し込んでから、再び車通りの少ない道を弾丸のように突っ切って帰宅した。
「外へ連れ出したほうがいいと思ったんでな」
 まだ震えの止まらないアキラの両手にしっかりとカフェオレの入ったカップを握らせて、緒方は小さくあくびをしている。
 アキラは背中を丸めたまま、渡されたカップを両手で包んで落とさないように力を込めた。すると余計に震える手の中でブラウンの液体が波紋を作る。震えを止めなければ、と思う程に波は大きくなっていった。
 ぽん、と肩に手を置かれた。
 びくりと跳ね上がったアキラは、反射的に緒方を見上げて怯えたように首を竦める。
 緒方は何も言わず、ただアキラの肩に手を置いていた。
 大きな手から衣服越しにゆっくりと熱が伝わって来て、アキラはやがてゆるゆると肩の力を抜いて行った。
 随分と久しぶりに感じた他人の熱だった。
 アキラの震えが少し治まったことを確認した緒方は手を離し、ガラステーブルを挟んで対面に座る。
 いつかもこんな光景があった、とアキラはすっかりぼやけた頭で過去の景色を思い出していた。
 景色も構図も何ら変わらない緒方の部屋。テーブルを挟んで向かい合って、相変わらずリビングには余計なものが一切無くて。
 あの時は、全てに自信が溢れていて。
 自分の手で、迷うヒカルを引き戻そうと必死になって。
 できないことは何もないと信じていた。彼を守りたいと願う思いがそのまま心の強さになった。
 でも今は。
「少し飲め。胃に何か入れろ……」
 緒方に言われて、機械的にアキラはカップへと口をつける。
 いつもなら鼻をくすぐる香ばしい香りが、やけに喉の奥を刺激する。
 眉間に小さな皺を寄せたアキラを見て、緒方は慌てるふうでもなく静かに声をかけた。
「コーヒーは辛いか? ミルクだけのほうがいいか」
 アキラは黙って首を横に振った。
 舐める程度にカフェオレを口に含むと、もう何日も味のついた食べ物に触れていなかった舌がぴりぴりと痺れる。一瞬胸の底から吐き気が込み上げて来る気配があったが、ぐっと波をやり過ごすと少し身体は楽になった。
「無理はするなよ」
 再び黙って頷く。
 緒方は余計なことは何一つ聞こうとしなかった。
 恐らく、アキラが数日仕事をサボタージュしていることは緒方の耳にも入っているだろう。芦原からのメールだってその件に違いない。
 それなのに緒方は何も言わない。
 こんな明け方に呼びつけて、それでも黙ってアキラをここまで連れて来てじっと様子を見守っている。
 ――緒方は何もかも知っているのではないだろうか。
 それは予感であり、確信でもあった。
 これまでも思わせぶりなことを何度も口にしていた緒方は、アキラとヒカルの関係を全て分かっていたのではないだろうか。
 そして、今アキラがこれほどまでに憔悴している理由も、ヒカルが絡んでいることを緒方は認識しているのではないだろうか。
 かつては考えないようにしていたその推理を、受け入れる方向で頭に思い浮かべていると、アキラの口元は再び震え、目の奥がジンと痺れるように熱くなっていく。
 今まで誰かに相談しようだなんて考えたこともなかった。その必要はないと思っていたからだ。
 でも今は、何でもいいから縋るものが欲しかった。目の前の人が自分のことを理解してくれているのではないかと思った瞬間、これまで封じ込めていた寂しさが涙になって溢れ始めた。
 カップを握り締めたままはらはらと泣き出したアキラを、緒方は何も言わずに見つめている。
 珍しく煙草も持たず、ソファに腰掛けて広げた膝の上に肘を置き、ゆったりと組んだ指には落ち着いた大人の貫禄があった。
 おがたさん、とアキラは泣きながら呼び掛けた。
「何だ」
 ぶっきらぼうな声がこの時ばかりは酷く優しく感じられて、アキラはもう一度おがたさん、と名前を呼ぶ。
「分からないんです」
「何が、分からないんだ?」
 ひく、としゃくりあげ、アキラは辿々しく言葉を紡ぐ。
「何故、彼が離れていったのか」
「……」
「ボクは、彼さえいればそれでよかったのに」
「……」
「彼だけがいてくれればそれでよかったのに」
 緒方は小さく息をつき、眼鏡の奥から泣き続けるアキラをじっと見つめる。
 そしてゆっくりと薄い口唇を開いて告げた。
「――「アイツ」は、そうじゃなかったんだろうな」
 アキラははっとして顎を上げた。
 緒方は先ほどと変わらない静かな表情で、アキラに細い目を向けている。
「そうじゃ、なかった……?」
「アイツは、お前だけじゃ足りなかったということだ」
「そんな……」
 掠れた声を震わせるアキラを見て、緒方はふっと小さく笑みを浮かべた。
「分からないのは、お前が分かろうとしないからだ」
 瞬きをするアキラの目から涙が次々にこぼれ落ちる。
「お前は分かるための努力をしたか? ――どうせ、何もかも失ったような気になって萎れていたんだろう。だが、お前は本当に失ったのか?」
「え……?」
「存在そのものが消えた訳でもあるまい。……取り戻す努力はしないのか」
 アキラは濡れた目を見開いて、呆然と口を半開きにしたまま緒方を眺めていた。
 緒方は不敵な笑みを浮かべたまま、組んだ指を解いて背凭れに背中を預け、今度は長い足を組む。
「考えるんだ。アイツが何故離れていったのか。何故今のままでは駄目だったのか。思い出せ。アイツは意外に物事をきっちり考えている。あまり余計なことは言わず、真理を突いて来る。……アイツの言葉を思い出せ」
「進藤の……言葉……?」
「ああ。アイツが今までお前に何を言い続けてきたのか。思い出せ。そして考えろ。アイツの言葉だけじゃない、今までお前が聞いて来た、周りの人間の言葉全てを思い出せ。お前がそうと気付かずに聞き流して来た言葉にも、大事なことがきっとある」
 アキラは首を横に振る。涙に濡れた顔を顰めて何度も首を振った。
「覚えていない。ボクは彼以外の人のことなど気にかけたことはなかった」
「それはどうかな?」
「え?」
「では何故お前は俺を呼んだ?」
 アキラは息を呑む。
 緒方は緩く口角を持ち上げたまま、色素の薄い目を更に細めてアキラをからかうように見つめていた。
「人間ってのはな、何かしら感動を受けた言葉は案外頭の隅に記憶しているもんだ。喜怒哀楽、何だっていい。しかし何も心が動かされなかった言葉は、あっさり忘れちまう……欠片も残らない」
 アキラは再び瞬きをした。
 しかしいつの間にかとまっていた涙は、もうその動きに合わせてこぼれることはなかった。
「お前が俺を呼んだのは、俺に言われた言葉を覚えていたからじゃないのか?」

 ――いいか、忘れるなよ。

 アキラは目を見開いた。
 緒方は満足げに笑って、軽く身を乗り出し、アキラが呆然と握りしめるカップを倒してしまわないように優しく取り上げる。
 コトン、とガラスのテーブルにカップが置かれる音はアキラの胸へも響いた。
「お前の中に、残っているはずだ。たくさんの人の言葉がな。もちろん、アイツの言葉もだ。思い出して、よく考えるんだ。アイツがお前に本当に言いたかったことを」
「ボクに……?」
「アイツはバカじゃない。ずっとお前にヒントを与えていたはずだ」
「……ボクに……」
「全てはそれからだ」
 薄地のカーテンの向こうから、徐々に明るい光が差し込み始めている。
 もうすぐ何度目かの朝がくる。
 アキラは緒方と向かい合って、今し方諭された言葉の意味を頭の中でリピートさせながら、呆けた顔で瞬きを繰り返していた。






 朝日が昇りつつある街中を走り抜け、再び緒方の車でマンションへ送られたアキラは、相変わらずの一人きりの空間にぽつんと立ち尽くした。
 戻って来た時には部屋はすっかり明るくなっていて、今日は天気も良いのだろう、窓から穏やかな光が燦々と差し込んでいる。
 そう、日当たりの良い部屋を選んだのだから。太陽の光はヒカルをいっそう明るく輝かせてくれるから。
 リビングの中央で佇んだまま、アキラは緒方に言われた言葉を思い出した。
 ――アイツの言葉を思い出せ――
 ヒカルの言葉。
 ヒカルは何を言っていただろう。
 最後に会話した時、ヒカルはどんなことを言っていただろう……


『てめえ一人で生きて来たようなこと抜かしやがって……!』

『俺としか本気を出せないお前の碁が、遊びじゃなくて何だってんだ!』

『こんなとこに閉じこもってるから、余計に酷くなるんだ』


『……お前、一度帰ったほうがいい』


 それはすとんとアキラの胸に降りて来た。
 ――ああ、そうだ。ヒカルは確かにそう言った。『帰れ』と。

 思い出した途端、アキラはすんなりと「帰ろう」と呟いていた。
 ヒカルの言う通りにしてみよう。
 そうして、考えてみよう、少しずつ。
 何故離れて行ったのか。何故駄目だったのか。
 少しずつ、考えてみよう。


 太陽の光を浴びながら、アキラは未だうつろな表情でそんなことを思っていた。






微かな兆しをちらつかせつつ。
振り出しに戻ってもらおうと思う訳です。
(BGM:FALLOUT/LUNA SEA)