「では、失礼します」 柔らかく頭を下げ、優雅と称して申し分ない態度で事務室のドアから擦り抜けたアキラは、閉めたドアを背にふうっとため息を漏らした。 ――思ったよりしつこかったな。 そんなことを考えながら、アキラは左腕の時計で時刻を確認する。 約三十分。最初の五分で答えは出ていたのだから、残りの二十五分はアキラにとっては非常に無意味な時間だった。 そもそも今日棋院に立ち寄ったのは、あんな話を延々聞かされるためではない。ただの取材で出版部に顔を出し、取材が終わった頃を見計らって突然呼ばれた時から嫌な予感はしていた。 少々肩が凝った。アキラは十七歳らしからぬ仕種で首を軽く回し、眉間に皺を寄せたまま歩き始める。 今頃、ヒカルは名古屋に到着した頃だろうか――足早に事務室から立ち去りながら、アキラは先ほどのやりとりを思い出していた。 ――韓国留学……ですか? 『留学という単語は表向きには使わないがね。ここ三度の北斗杯以来、韓国棋院や中国棋院との繋がりが濃密になってきていて、まだ本決まりではないんだが、若手棋士の教育に力を入れたいと言う話が持ち上がっているんだ。日本から韓国へ、韓国から中国へ、中国から日本へ。しかし、日本は他の二カ国と比べて若手の層が薄いとされている……日本棋院としては、十代の棋士の中で推薦できるのは君しかいないと思っている。向こうには高永夏を筆頭に優秀な棋士が数多くいるから、良い刺激になるだろう。』 『……期間はどれくらいでしょうか』 『そうだな、決定事項ではないが……今のところは二、三ヶ月と言ったところだろう。物足りないかもしれないが、君のような棋士にあまり長く離れていられるとこちら側としても都合が悪くてね』 『……そうですか。大変有難いお話だとは思いますが……』 『塔矢くん?』 『タイトル戦もありますし、二ヶ月もの間日本を離れるのは今は……』 『え? し、しかし……』 アキラが断ることは想定していなかったのだろう。 ほとんど迷うことなく拒否の言葉を告げたアキラに、酷く狼狽した様子でお偉方の説得が始まった。 その後、散々粘られたが、アキラ自身がきっぱり行く気はないことを表明し、返答は今すぐではなくてもいいという提案まで跳ね除けてしまった。アキラの断りによって、この話そのものが流れてしまう可能性も承知の上だった。 本来なら、どれほど貴重な機会であるだろう。 世界のトップ棋士が揃う韓国で、自分の力を試すことができる。おまけに日本棋院の後ろ楯が確かなのだから、自身でスケジュール調整に苦慮することもない。どれだけの日本の若手棋士がこの申し出を望むことだろうか。確かに魅力的な話だと、アキラも心底思う。 いずれは、父のように日本に縛られることなく碁を打ってみたい。しかし、それは今すぐでなくてもいいとアキラは思っていた。 ……ほんの二週間、離れていただけでもあんなことになったというのに。 今は、ヒカルと離れていたくない。仕事ですれ違う日々が続いているとはいえ、努力すればすぐにでも顔を合わせることができる、この位置を留めていたい。 韓国のトップ棋士たちと打ち合うことも重要かもしれないが、アキラにとっては何よりヒカルと打つことのほうが余程有意義だ。誇張でもなんでもなく、そう確信しているアキラは口唇を噛む。 アキラの中心には常にヒカルの存在がある。そして、それでいいと思っている自分がいる。 ……誰にも、邪魔をされたくない。 もしかしたら、アキラが断ったことで話が流れてしまうだけならいいが、矛先が他の誰か――ヒカルに向くこともあるかもしれない。北斗杯であれだけの実力を見せつけたヒカルは、今や若手棋士ではアキラに次いで名を挙げられる存在になっている。 ヒカルが承諾するかは分からないが、もし断りきれなければそれでも構わない。 その時は、何とでも理由をつけて自分もついていくまでだ――アキラは黒髪を靡かせ、風を切って棋院の廊下を進んだ。 *** 「あー、食った〜、腹いっぱい〜。ごちそうさまでした、芦原さん!」 「いやいや。しかし見ていて気持ちいい食べっぷりだねえ〜進藤くんは」 腹をさすりながら上機嫌で歩くヒカルの隣で、そんなヒカルを興味深げに、しかし楽しそうに眺める芦原は感心したように言った。ヒカルは歯を見せて笑ってみせる。 名古屋棋院での手合いを明日に控え、名古屋に到着したのが数時間前。同じく明日、名古屋棋院で対局がある芦原と共にホテルの一室を予約してもらっていたヒカルは、芦原の奢りで夕食を満喫したところだった。 冴木から何度となく「芦原さんはつかめない人だ」との評価を聞かされていたヒカルだが、なんの、いざ話してしまえば少々能天気なところはあるものの悪い人間ではない。 ご飯も奢ってくれるし、にこにこしてヒカルの話を聞いてくれるし、ノリもいいし、ヒカルとアキラが碁会所でしょっちゅう打ち合っていることを知っているし、気兼ねがなくてやりやすい。 最初に棋院側から、芦原もその日に対局があるから、同じ部屋をとるといいと聞かされた時は多少げんなりしたものだったが、今ならそれで良かったと素直に思えるヒカルがいた。ヒカルにとっては初めての名古屋棋院での手合い、少なからずあった緊張が、芦原の存在によって解されているのは間違いがない。 「そろそろホテルに戻ろうか?」 「うん。俺マグネット碁持ってきてるからホテルで打たない? 芦原さん」 「あはは、進藤くんもアキラに負けず劣らず囲碁馬鹿なんだねえ。いいよ〜、でも手加減してくれよ」 二人は笑いながら、和やかにホテルへと足を向けた。 「へ〜、じゃ、まだアキラのほうがちょっと勝率いいんだ」 芦原が小さなマグネット碁石を摘みながら僅かに目を大きくした。ぱちん、と控えめな音を立てて、芦原の打った白石が碁盤にくっつく。 「うん、でも俺が勝つ回数も前に比べたらずっと増えたから、アイツが余裕面かましていられんのも今のうちだぜ」 ヒカルの黒石がぱちん、と応酬する。芦原はヒカルの手にうーんと唸りながら、新たな白石を打つ。 「もう、俺なんかとっくに追い抜かれちゃったな。進藤くんこの前四段になったんだっけ?」 「うん、やっと四段! 塔矢なんかもう六段じゃん」 「俺がまだ五段でうろついてるってのにねえ」 芦原は苦笑しながら、芦原の地に大きく割り込んできたヒカルの一手に頭を掻いた。 「負けました。いやあ、進藤くん強いなあ。ホント、冗談抜きで適わなくなっちゃったよ」 「でも芦原さんのここんとこのサバき方、ちょっと塔矢の打ち方みたいで面白かったよ。」 「俺も一応塔矢門下だからね〜。似たところもあるかもしれないなあ」 芦原は、ホテルに隣接されていたコンビニでさきほど購入したばかりの缶チューハイを手に取り、口をつけた。ヒカルもコーラを開けていたので、釣られるようにそれを飲む。 芦原はふうっと気持ち良さそうに炭酸混じりの息をつき、それからヒカルに向かって肩を竦めてみせた。 「後から後からどんどん強い子がやってくるから肩身狭いなあ。何て言ったっけ、進藤くんと同期の眼鏡かけた子」 「越智?」 「そう、越智くん。俺、この前彼にも負けちゃったんだよねえ。もー、完全に読みきられちゃって、まいったよ」 「越智は読みが深いからなあ」 負けた話をしているというのに、芦原はさして悔しそうでもなく、それどころか嬉しそうに話を続けた。 「でも、正直嬉しいよ。ちょっと前まではさ、アキラと同年代で同じくらいの力を持った子なんていなかったからさ。進藤くんみたいなライバルが現れてよかったなあって」 面と向かって賞賛され、ヒカルははにかんだように微笑んだ。 塔矢門下であり、アキラの実力をよく知っている芦原から「アキラのライバル」と認められていることは、ヒカルにとって何よりの賛辞である。 「芦原さんもそう思ってくれるんだ?」 「もちろん。俺はアキラを小さい頃から見てるからね〜。アイツ、つまんなさそうだったんだよ、いつも」 目を細めた芦原は、遠い昔の小さなアキラを思い出しているのだろうか、僅かに緩んだ口元がなんだか微笑ましくてヒカルも目を細めた。 「塔矢の小さい頃って、どんなだったの?」 「んー? あのままだよ。素直で、礼儀正しくて、可愛くてねえ。遊びと言ったら碁ばっかりで」 「はは、ホント今のまんまだね。アイツ昔からあの頭なの?」 「そうだなあ、アキラはずっとあの髪型だなあ。ずっとあの頭だからもう疑問にも思わないよ」 ヒカルが吹きだし、芦原も笑った。 元々人懐っこい笑顔が多い芦原だったが、アキラの話題になるとそれがもっと優しい笑顔になる。まるで、自分の家族のことを話しているような…… ヒカルは優しい目でアキラのことを語る芦原の話を、もっと聞きたいと思った。 |
出張費を浮かすために相部屋で……
実際そういうことあるんだろうか。