ファンタジア






 地震だと気がつくのに時間はかからなかった。
 ヒカルと芦原の部屋は七階。十一階建てのこのホテルでは、多少の揺れでもそれ以上に大きく感じるだろう。
 二人は一瞬慌てたが、体感震度ほど大きな揺れではないことが分かると、徐々に冷静さを取り戻し始めた。最初こそぐらりと揺れたものの、大きめの揺れはほんの数秒だっただろう。
 ヒカルは掴まっていたテーブルの端から手を離し、ふうっと肩の力を抜く。
「あーびっくりした。俺地震嫌いなんだよなあ」
「何度くらいだろ。ここ七階だから、きっと本当の揺れより大きく揺れたよね。進藤くん、テレビつけてくれる?」
 芦原はヒカルの傍にあったテレビのリモコンを指差した。ヒカルは頷いて、対局の邪魔になるために消してあったテレビの電源を入れた。
 チャンネルを回して、地震情報が入っている局を探す。バラエティー番組の画面上部分にテロップが流れ始めたのを見つけ、その表示に二人は目を見張った。
「えーっと……え、東京震度4!?」
「マジ!?」
 今自分たちがいる名古屋より、東京のほうが揺れが大きかったことに二人は驚き、顔を見合わせた。
 そして、ヒカルは次に芦原が口にした言葉に目を見開いた。
「アキラ、一人で大丈夫かな。あの家は頑丈だからちょっとやそっとじゃ崩れないけど、何か物とか落ちて怪我でもしてたら……」
 真顔でそんなことを呟く芦原に、ヒカルが狼狽える。
「や、やめてよ芦原さん……」
「俺、ちょっと電話してみるよ」
 ヒカルが反応するより早く、芦原は携帯電話を取り出して電話をかけ始めた。いつもぼんやりほんわかしている芦原に似つかわしくない、その機敏な行動を呆然とヒカルが見守る中、芦原は「あ、もしもし?」と電話に出たらしい相手に語りかけ始める。
「アキラ? 今地震あったろ? 大丈夫か?」
 まるで家族のようなその口調を聞いて、ヒカルはどきんと胸が震えるのが分かった。
 嫉妬ではない。暖かい疼きである。
 ヒカルは東京の自宅で、芦原に答えるアキラの姿や表情をぼんやり想像した。
「あーそっか。よかったよ〜震度4ってテレビで言ってたからさあ、何かあったら大変だからな! 今? うん、進藤くんと一緒。代わる?」
 芦原の何の気なしの振りにびくっと身体を竦ませたヒカルは、慌てて手をぶんぶん振って「いい、いい」と口を大きく横に広げた。
 芦原は軽く笑ってみせて、人差し指と親指で円を作り、了解のポーズを見せる。
「いいってさ。まあ、無事でよかったよ。余震とかあるかもしれないから気をつけろよ。うん、サンキュー。じゃあ、またな。おやすみ〜」
 ぷつりと通話を切った芦原は、ヒカルに向かってにっこり笑顔を見せてくれた。
「無事だった。検討中の碁石がずれたってため息ついてたよ」
「あはは、塔矢らしいな……」
 ヒカルは笑って、それからテーブルに肘をつき、だらりと垂れた手の甲に顎を乗せて、上目遣いで嬉しそうに芦原を見上げた。
 芦原は穏やかな表情で、今し方切ったばかりの携帯を見つめていた。
「……芦原さん、塔矢のこと大切なんだね」
「ん? まあ、先生や明子さんから留守を任されているからねえ……。でも、俺にとってはアキラは弟みたいなものだからね。やっぱり何かあったら心配だし、大人びてるけどアキラはまだ子供だから」
 芦原の優しい目にヒカルは微笑んだ。
 なんとなく、胸の疼きの理由が分かった気がする――芦原の目は、まるで自分の母親がヒカルを見る時の眼差しによく似ていたからだ。
「アイツ、幸せだね。芦原さんみたいなお兄さんがいて」
「そうかな?」
「そうだよ。何かあった時に心配してくれる人がいるって、幸せだよ」
 芦原は照れ臭そうにこめかみを掻いた。
 それからぐいっと缶チューハイを口に含み、先ほどのようにふっと気持ち良さそうな息をつく。
「小さい時からアキラを見てきたからなあ。俺だけじゃない、実は緒方さんも相当アキラのこと可愛がってるんだよ」
 照れ隠しのように芦原は早口で緒方へと話題を逸らす。
 そんな芦原が何だか可愛らしいと思いつつ、ヒカルはかつて緒方にかけられた言葉を思い出して、そっと目を細める。
「うん……、俺も、そう思う」
 ――アキラを頼む、と低く呟いた緒方。
 あの言葉にどこまでの意味があるのか、正直今のヒカルには計りかねる。
 緒方がどこまでの期待をかけてヒカルにそんなことを言ったのかは分からないが、アキラのためにも自分はもっともっとしっかりしなくてはならない――ヒカルはそんなふうに受け取っていた。
 確かなのは、緒方がアキラのことを兄のような気持ちで心配しているのだろうということ。
 気恥ずかしそうに笑っていた芦原が、ふいに少しだけ真面目な顔をして、それでも笑顔を絶やさずにヒカルに優しく語りかけた。
「進藤くん。アキラはいつも囲碁一直線だったからさ、友達らしい友達もずっといなかったけど、進藤くんみたいに物おじしないでアキラとつき合ってくれる子がいて俺、本当に安心してるんだ。これからも、アキラのこと頼むよ」
 その言葉の端々が少しだけヒカルをどきりとさせたが、芦原に言葉以上の他意がないことはヒカルにもよく分かっていた。
 恐らく、緒方が言った「アキラを頼む」とは少しニュアンスが違う言葉。
 ヒカルは、芦原の願いを素直に受け止めようと微笑んだ。
「うん。任せて」
 ヒカルの頼もしい返事に、芦原がまた嬉しそうに笑った。ヒカルもそんな芦原を見て、自分が無性に嬉しくなっていることに気付く。
「アイツ一人っ子だけど、二人もお兄さんいるんだね。いいなあ。俺も芦原さんみたいな兄貴だったら欲しかったな」
「またまた。俺なんかおだてても何も出ないよ〜。」
「本当だって〜」
「ははは、ありがとう。進藤くんも一人っ子だっけ? 小さい頃どんな子供だったの?」
「俺? 俺はチョー我がままでねえ……」
 芦原は身を乗り出し、面白おかしく子供の頃の話を始めたヒカルにフンフンと相槌を打ちながら、時に一緒に笑い、時に怒ったり悲しんだりして最後まで昔語りに付き合ってくれた。
 ヒカルは、まだアキラと想いを通じ合わせる前に、ほんの少しだけアキラの子供時代を尋ねたことを思い出していた。

 ――小さい頃、一人ぼっちの時ってどうやって遊んでた?
 ――碁を打ってた。

 あの時はなんてアキラらしいんだろうと笑ってしまったが、今思えば、アキラには芦原や緒方のような存在があったから、淋しさを感じずに碁を打てたのかもしれない。
 きっとアキラすらも気づいていない部分で、彼らに深く支えられている。その事実がヒカルには酷く嬉しかった。
 自分の大好きな人が、大切にされているのが嬉しい。そう、愛されて育ったから、アキラはあんなに優しいのだ。
 お前、幸せだよ――ヒカルは微笑を浮かべて小さな頃のアキラの姿を想像する。
 可愛らしい笑顔を振りまいて、両親や、門下生たちに愛されていたアキラ。
 素直で、純粋で、負けず嫌い。大人たちに囲まれて育ったせいか、芦原の言う通り同年代の青年たちに比べてずっと大人びているけれど、たまにふと素に戻ったアキラが酷く子供っぽくなることをヒカルは知っている。
 芦原も、緒方も、そんなアキラだと知っていてずっと見守ってきたから、今でも本当の家族のように想っているのかもしれない。
 いいな、そんな関係。……少しだけ、自分と佐為の関係にも似ているような気がする。
 ヒカルは暖かい胸の疼きをそっとさすって、穏やかに微笑んだ。
 アキラの声が聞きたいと、そう思った。


 やがて芦原にも酔いが回ったのか眠たそうなあくびを見せ始め、二人だけの宴はそこでお開きとなった。
 それぞれのベッドに潜り込んだ後、芦原を起こさないようにそろりと部屋を抜け出したヒカルは、廊下で声を潜めながら電話をかける。
「……あ、もしもし? 俺」
 受話器の向こうから聞こえる優しい声に顔を綻ばせ、おやすみの挨拶を囁きあった。
 今日はなんとなく、メールだけじゃなくて声が聞きたかった。そんなヒカルの気持ちが伝わったのだろうか、電話に出たアキラの声は穏やかで甘い。
 今度、アキラからも小さな頃の思い出を聞いてみよう……
 そんなことを思いながら、電話を切った後のヒカルは心地よく眠りについた。






芦原さんとヒカルってなんとなくウマが合いそうというか、
意気投合しやすそうなイメージがありました。
他のヒカ碁サイトさんの影響かなあ……
ヒカルが純粋にアキラと兄弟子たちの関係をいいなと思えるのは、
佐為という存在があったからだろうなあと思います。
(BGM:ファンタジア/山下久美子)