fight






 翌朝、社よりも早く目を覚ましていたアキラは、すでにスーツに着替えて身なりを整えていた。
 この日ばかりは美冬もどすどすと床を踏み鳴らして兄の部屋へ襲撃してくることはなかった。社は若干調子が狂いながらも、寝起きのはずなのに乱れのないアキラの黒髪を不思議そうに眺めつつ一階へと下りて行った。
 いつもは社が起きてからずっと後に顔を出す母親が、すっかり着替えて化粧まで完璧に施し、ルンルンと朝食の支度をしていた。
「あらおはよう塔矢くん。よく眠れた?」
「おはようございます。ええ、ぐっすりと」
「息子に朝の挨拶はなしかい……」
 不服そうに呟く社を無視し、母は鼻歌混じりに食器を並べ始める。食欲をそそるこの香りは味噌汁だろう。
 支度が簡単だという理由でここ数年ずっと朝食はパンだったというのに、アキラが来た途端に和食の朝ご飯を用意するとはさすが現金な母だと社は呆れた。
 いつもこれだけ早起きしてくれていれば、自分が妹の弁当を作ることもないのに……
 恐らく明日からはまたいつもの日常が帰って来るのだろう。社は少しだけ、アキラにもう少し居て欲しいと願ってしまった。

 弟だけは相変わらずの寝起きだったので社が叩き起こし、社家五人とアキラは揃って朝の食卓についた。出かける時間がバラバラのため、あまり五人が揃うことはない。お客様の威力は抜群だな、と社は味噌汁を啜る。
 来年家を出てしまえば、こんなふうにこの家で食事をとることも少なくなる。
 このやかましい親や弟妹と離れることが、せいせいするのか寂しくなるのか。
 やってみなければ分からないな、と味の染みた根野菜の煮物に軽く眉を持ち上げた。
 ――オカン、やればできるやないか。


「んじゃいってきます」
「お世話になりました。いろいろとお気遣い頂きましてありがとうございます」
「塔矢くん、また遊びに来てね。この馬鹿息子とこれからもよろしくしてやって」
 微笑むアキラとは対照的に社は下口唇を突き出した。
「塔矢、時間ないから行くで」
「では、失礼します。本当にありがとうございました」
「ほんまにまた来てね〜! 気をつけて、対局頑張って〜」
 隙あらばすぐに引き止めようとする母親からアキラを引き剥がし、社は強引に家を出た。
 今日は社も手合いがあり、アキラと一緒に棋院に向かう。
 時間がないという社の言葉は嘘ではなかった。もう家を出なければ遅刻してしまう。
 駅へ向かう道々、アキラは口唇に指を当て、くつくつと笑いながら歩いていた。
「キミの家、本当に賑やかだね。キミとお母さん、そっくりだ」
「それ褒め言葉と思ってええんか? ……よう言われるわ」
「いや、楽しかったよ。帰ったらご家族によろしく伝えておいてくれ」
「ああ、言っとくわ」




 その日の対局、社は三目半で、アキラは中押しで勝利を手にした。
 アキラのほうが早く終局したため、最後に言葉を交わすことはできなかったが、対局室を出ようと立ち上がるアキラにちらりと社が視線を向けると、アキラもまた振り向いて目配せで挨拶をくれた。
 次に会うのはいつになるのか分からないが、そう遠くではないのだろう。
 気付けば北斗杯からすでに五ヶ月。あと半年もすれば、再び次の北斗杯の予選がやってくる。
 その時までに、アキラやヒカルとの間に感じている絶対的な棋力の差をもう少し縮めておかなくては。
 ――いや、いつか追い越したる。
 社は深く決意した。





 ***





「ただいまあ」
 社が帰宅すると、すでに居間からは夕飯の良い匂いが漂って来た。どうやらもう食事を始めているようだ。
 荷物を置く前に居間を覗くと、美冬が「ごちそうさま」と頭を下げていたところだった。使った食器をシンクに下げた美冬が、社の脇を通り抜けて自室へ向かおうとする。
 昨日からやけに大人しい妹ににやりと笑った社は、その肩をぐいっと掴んだ。
「何すんねん」
「どや、ええオトコやったやろが。碁打ちなんてみんなオッサン言うとったの誰や?」
 社の言葉に美冬は僅かに頬を赤らめ、ふて腐れた顔を向ける。
「……確かにあの人、カッコええけど。……でも……」
「でも?」
 意外な接続詞が最後について、社はおやっと目を見張った。
 美冬は社から目を逸らし、気まずそうに呟く。
「カッコええけど、なんか危険な気ぃする。よう分からんけど、なんとなく……」
 社は呆然と手を離した。美冬はその隙に兄から逃れ、たたたと軽やかな足音を立てて階段を駆け上って行く。
 腕組みした社は、う〜んと唸って消えた美冬の背中を目で追った。
 さすが我が妹……直感で塔矢アキラの内なる部分を嗅ぎとったのだろうか。
 まあ、美冬がアキラにまいってしまうなんてことがなくて良かったと、社は内心胸を撫で下ろしていた。来年は高校生になるとはいえ、まだまだガキなのだから。オトコに興味持つなんて十年早い!
「清春、何突っ立っとんの。晩ご飯どうすんの?」
「あ、食う食う。荷物置いてくるわ」
「ちゃんと手も洗いや」
 へいへいと生返事をして、社はうーんと背伸びしながら階段を上がって行く。
 アキラは無事に東京へ帰りついただろうか。そんなことを考え、夕べのアキラとの会話をぼんやり思い出していた。




 夕食を終えて部屋に戻った社は、迷ったあげく携帯電話を耳に当てていた。
 コール音が途切れ、快活そうな『もしもし〜?』という声が響く。
「進藤か? 俺や」
 他愛のない話題から始まり、夕べアキラが家にやって来たことやその間のエピソードなんかを面白可笑しく話した社は、気になっていたことをヒカルに尋ねることにした。
 すなわち、アキラが言っていた「ヒカルに避けられている」という言葉の真相。声を聞いた限りではまったく悩んだ様子のないヒカルだが、何かを内に秘めているのだろうか。
 しかし、社の質問にヒカルはあっけらかんと答えを出してくれた。
「なんや、お前秘密にしとったんか」
『そうだよ、びっくりさせてやるんだから。アイツ、絶対俺は落ち着きないから免許なんて取れるはずがないって言うぜ。だから内緒にしてたんだよ』
「そんなくだらんことやったんか。アイツ気にしてたで、お前が避けてる言うて」
『避けてるったって会う回数減っただけなんだけどなあ……あの根性無し。でも今もう仮免だから、あとちょっとなんだよ。だからお前も黙ってろよ』
 社ははあ、とため息をついた。
 ヒカルの誕生日の翌日、お祝いに電話をした時も確かにヒカルは「教習所に通う」と言っていたが、それをアキラに内緒にしていたとは。
 そうなると、話の弾みにでもヒカルが免許を取りたがっていたことをアキラに言わなくてよかったとほっとする。
「早いとこ取って安心させたれ。でないと、アイツ……」
 言いかけて、社は口を噤む。
 微かに感じたアキラの危うさを、うまく説明できる自信がない。
 それに、アキラもまたヒカルに隠し事をしているのだ。あまり余計なことを言って、社からボロが出たことがアキラに知れると、どんな仕打ちを受けるか分からない。
「まあええ、とりあえず頑張りや」
『ああ、そのうち俺の車に乗せてやっからな! 楽しみにしてろ!』
 どっちかと言うと「覚悟してろ」が正しいんじゃないかと社は思ったが、あえて口には出さなかった。
 それから後は今行われている棋聖戦に話が移り、しばらく盛り上がってから通話を終えた。
 ヒカルの明るい声を聞いて幾分安心する。
 ――塔矢もきっと大丈夫やろ。
 自分に言い聞かせるように呟いて、おしっと気合いを入れて腕をまくった。
 昨日アキラと行った対局をもう一度並べて、自分なりに検討してみよう。
 碁盤に向かう社の目は鋭く、すでに頭からはおせっかいな心配事が消えたようだった。
 そうしていつもの夜が更けて行く。
 明日になれば、また同じ太陽が昇って来る。






6周年記念リクエスト内容(原文のまま):
「なんということはない社の一日、とか、
真剣勝負中の棋士社の姿・・・とか。」

真剣勝負は書けずに終わりましたが、社の日常の一部でした。
まあおかっぱ追加されてるので全くの日常でもないですね……
社母の方言については、いろんな方から「大阪弁は引っ張られる」との
コメントをいただいたのでそのままで行くことにしました。
(教えて下さった皆様ありがとうございます!)
社父は頑固で寡黙そうだから標準語のままで……。
社たくさん書けて楽しかったです。またやってみたいなあ。
リクエストありがとうございました!
(BGM:fight/Tourbillon)