「ではご両親は外国に行ってらっしゃることが多いんですか。留守を預かるのも大変でしょう」 「ええ、でももう何年も続いているのですっかり慣れました。元々父も忙しい人間でしたので」 食卓を囲んでの父親とアキラの会話は穏やかだった。 普段に比べるとずっと品数の多い夕飯が、テーブルにこれでもかというほどに並べられている。 いくら育ち盛りの年齢とは言え、アキラの見た目から大食漢の要素は伺えないというのに、極端で単純な母親だと社は恥ずかしくなっていた。 アキラはすっと背筋を伸ばした体勢を崩すことなく、上品な箸捌きでおかずを口にしている。大口を開けてご飯をかき込むなんて真似はしない。おまけに話す時はきちんと口の中の食べ物を飲み込んでから、相手の目を見て話す。 母も妹も、社とはまるで別の生き物を見ているような目をしている。 こうなると面白くないのは社である。 見るからに優等生然とした男が同じ棋士で、しかも(先ほどは社を立ててくれたとはいえ)社よりずっと評価の高い紛れもない若手ナンバーワンだなんて、これは今後しばらく比べられることを覚悟しなくてはならない。 家に連れて来たのは失敗だったかな――社はあえて残ったおかずを乱暴に口に放り込み、ごちそうさんと立ち上がった。 「塔矢、部屋で打つで。はよ食っちまえ」 「なんやのこの子は、行儀の悪い」 母親の咎める声も聞かず、さっさと自分の使った食器をシンクへと運んで行く。背中に、アキラが「ごちそうさまでした」と告げる声が聞こえた。 「あら、塔矢くんもっとゆっくり食べてええのに。この子が急かすから、もう」 「いえ、もうお腹がいっぱいで。とても美味しかったです。」 そうして後片付けを、と立ち上がるアキラを、母親が慌てて制した。 「そのままでええわ。支度も随分手伝ってもらったし、この馬鹿息子につき合うてあげて」 「馬鹿は余計やわ」 社は不機嫌な表情のまま、居間の出口でアキラに早く来いと合図を送る。 アキラは未だ食卓に座っている四人に丁寧に頭を下げ、社の後をついてきた。 「お前なあ、あんまり俺との差を見せつけんなや。いくら来年は出る家やっつーても居心地悪なるやないか」 「来年は出る家?」 社の部屋で碁盤を挟み、ニギる社を確認してからアキラは黒石を二つ落とした。 先番は社だった。 「ああ、俺来年の春から一人暮らしすんねん」 「へえ……そうだったのか。それは奇遇だな……」 「奇遇?」 「まあいい、まずは対局しよう。言っておくが手加減しないぞ」 「それは俺の台詞や」 二人はお願いしますと頭を下げた。 北斗杯直前の合宿でも思い知らされたが、アキラの碁は相変わらず力強く、軽い脅し程度には決して怯まない。 それどころか小さな隙を見つけてはぐいぐいと割り込んできて、防戦一方になっているところにとどめを刺そうと奥の手を打ってくる。読みの深さも変わらない。 しかし、手加減しないと言った言葉の割にはどこか手ぬるい感がなくもない。 やはり自分ごときではアキラの全力を引き出すには力不足なのだろうか――社は恋人としてだけでなく、好敵手としてこの男と同じ位置に立つヒカルが持つ力を心底羨ましく思った。 せめて、アキラに冷や汗をかかせる程度には打つことができれば。 この涼しい顔を僅かでも歪ませることができれば…… 「で、引っ越し先は決まったのか?」 対局中に母親が運んで来たコーヒーに口をつけながら、アキラが尋ねてきた。 社は先程終局した碁盤を難しい顔で睨みつつ、「まだや」と答える。 「出るったって来年の四月やさかい、まだ動いとらんわ。まあ、家賃の相場くらいは調べとるけどな」 目線は碁石の流れから離さずに、ある一ケ所で止まったその目がじっくりと検討を始めている。社は眉を顰めたまま、黒石の逆転の余地を探した。 「そうか。まあ、確かに半年近くあるからな。」 「俺はそれよりまず無事に卒業せんとならん。……なあ、ここでこっちやなくてこっちにツケたらどうやろ」 「……うん、悪くないね」 社の指がそこら一帯の石を崩し、新たな局面を描き出した。アキラもそこに石を加えて、最善の流れを導き出す。的確な判断に淀みはない。社は唸った。 「あー、やっぱまだまだ適わんわ! いつんなったらお前らに勝てるんやろ、俺」 「何度か勝ってるだろう?」 「合宿の超早碁やないか。あんなんやればやるほど疲れも出るし、ミスも多くなるやろ。そんなんばっかで勝っても何も自慢にならん」 アキラは苦笑した。社は余裕の見えるアキラの様子に歯噛みする。 勝てない理由はあるのかもしれない。――アキラとヒカル。一番近いところにいる二人は、忙しい合間を縫って一番多く対局し合っているのだろう。 お互いを高めあうことが強くなる秘訣。社は力の拮抗した相手が傍にいることに羨望と嫉妬を感じる。 それでも、自分は自分に与えられた土俵で戦わなければならない。 碁盤から目を離し、社はどっかり床に尻をついて脚を投げ出した。脱力し、囲碁から頭を解放させてやると、どうにもアキラと二人という空気が不自然に思えて来る。 碁というものがこの世になければ、恐らくこの男と親しくなることはありえなかっただろう。 マイペースで極端で、時に理不尽で妙なところが恐ろしく素直なアキラ。 ヒカルはよく、この男を相手に恋愛感情を抱けるものだと心底感心する。 そんなことを考えて、社はふいに自宅に来るまでの電車内での会話を思い出した。 「そういやお前、なんか進藤に隠しとるって言わんかったか?」 尋ねると、アキラは少しだけ瞳を大きくした。 しかしすぐにいつも通りの涼やかな顔に戻り、わざとらしく肩を竦めてみせる。 どうやらその様子から察するに、アキラは頑に秘密を守ろうとしている訳ではなさそうだった。それならばと社が更に追求する。 「なんや、俺にも内緒か? 何面白いこと企んどるん」 「別に面白いことじゃあないけど……まあいい、キミにバレたところで害はないからな。その代わり、進藤には黙っててくれよ」 そんなことを言って再び悪戯っぽい笑顔を見せたアキラに、社はへいへいとのってやることにした。 「……一人暮らし? お前が?」 「そう。もう場所は大体絞ってる。今月末までには契約を済ませるつもりだ」 さらりととんでもないことを言ったアキラに、社は目を丸くしていた。 親が一年中海外を飛び回っているような邸宅に住みながら、アキラは今年の十二月から一人暮らしを始めると告げたのだ。 親に自立を認められて家を出る社とは理由の根本が違いそうだった。そもそも、あの家を出る必要がアキラのどこにあるというのか。 そんな社の思惑を読み取ったのか、アキラは社の顔を見て穏やかに苦笑した。 「……恐らくキミが今思っている通りの理由でずっと反対されていてね。先月、ようやくお許しをもらえたんだよ」 「お許しって……塔矢先生のか?」 「他に誰が?」 「先生の反対押し切ったんか……」 「言ったろ、お許しをもらえたって。ちゃんと納得させたよ」 社は絶句した。 この男、どれだけ時間をかけたのかは知らないが、あの堅物そうな塔矢行洋を説き伏せてしまったのだ。 ――それで浮かれてたんか。 社は全てを納得する。 ようやく出たらしい一人暮らしの許可によって、新しい家探しという楽しみができた訳だ。それでヒカルに放って置かれていてもそれほどダメージを受けていなかったということか。 おまけにそんな大事なことを、ヒカルには秘密にしている。 社は僅かに目を細めてアキラを見据えた。 「……原因は進藤か?」 「……」 「お前、ただ家出たいっちゅう理由で一人暮らしするようなヤツやないやろ。進藤なんやな? お前が一人で暮らしたい理由は」 「……さあね」 ふいと社から視線を逸らしたアキラの口元は、薄ら微笑んでいるようにも見える。 その表情が陶酔のそれにも見えて、一瞬社は背筋に寒いものを感じた。 どうやら社に明かしてもらえる秘密はここまでのようだ。アキラは再び碁盤に目を移し、何かの棋譜を並べ始める。 その石の並びに思わず気を引かれた社は、アキラが並べる黒と白の石を目で追う。どちらもかなりの棋力の持ち主だ。息をつかせぬ攻防が繰り広げられている。 「……これ、なんや」 「一昨日の棋聖戦Aリーグ、進藤の三回戦。相手は畑中先生」 「! マジか! ってことは……この白が」 「……ああ、進藤だ」 社としても是非棋譜を見たいと思っていた一局を、目の前でアキラが並べてくれている。これ以上の素晴らしいシチュエーションがあるだろうか。 結果だけは知っていた。白石、ヒカルの二目半勝ち。しかしこの盤面を見ていると、決して余裕の勝利というわけではなさそうだ。 「すげえな、進藤。ここで割って入る度胸が」 「畑中先生も冷静だよ。無難に切り返している。でも進藤は更に狙ってた」 アキラの指が再現するヒカルと畑中の対局に社は息を呑んだ。そして、そのせめぎ合いを肌で感じているように喘いだ。 そうして素晴らしい対局の模様を見つめながら、それでも社は先ほどアキラが見せた微かな翳りが頭から離れて行かないことを自覚していた。 何やら、良くない徴候があった気がする。その理由も何も分からないけれど。 漠然とした不安だった。アキラの中に、得体の知れない危ういものを見たような気がしたのだ。 それは、かつてヒカルがアキラへの想いに気付かずに迷っていた時に感じたものとは違う、もっと暗い、自分なんかに立ち入る隙のないような…… (――気のせいかもしれん) 社は無理にでもそう思い込もうとした。 そもそも自分は二人の問題に首を突っ込み過ぎる。 アキラが親の承諾を得て一人暮らしをするということに、何ら反論の余地はない。 だからこれは、きっと杞憂に過ぎないのだ…… |
今後に向けての伏線も貼りつつ。
社ってとことん苦労症だ……