FLAME






 永遠に続くかと思われるコール音を耳にしながら、アキラはひっそりとため息をついた。
 電話に気づいていないのだろうか、それとも気づいていながら聞こえないフリをしているのか……
 規則的な機械のコール音がぶつりと途切れて、躊躇いがちでもいい、ヒカルの声が聞こえてくるのを切望しているのに、先ほどからもうどのくらいこの音を聞き続けているのか分からない。
 やはり今日、碁会所で気まずく別れてしまったせいだろうか。それとも本当に眠ってしまったのだろうか。
 本当に、とアキラが穿った見方をしているのには理由があった。ここしばらく、ヒカルに一度で電話が通じた試しがない。大抵、電話でもメールでもすぐには反応がなくて、しばらく経ってからかけ直しなり返信なりが届けられる。
 そんな時、ヒカルは「さっきはちょっと寝ていて」なんて言い訳をすることが多いのだが、アキラはそれは嘘だろうと確信していた。そうそう何度も同じ言い訳が通用するはずがない。恐らく、電話やメールにすぐ反応できない理由があるのだろう……あまり良くない言い方をすれば、邪魔されたくない時間があるのだろうと。
 だから今日は、ヒカルが出るまで根気強く電話を鳴らし続けるつもりだった。碁会所でのことがあるため、ヒカルも電話に出ることをより渋るかもしれないが、根競べならアキラは負ける気がしなかった。
 しかし、ヒカルは一向に電話をとらない。もうかれこれ五分以上は鳴らしているのではないだろうか? ひょっとして、電話の着信そのものに気づいていないのだろうか?
 あと十回、もう十回などとささやかな期待をかけて悪あがきしてみるが、いつまで待っても結果は同じだった。
 仕方ない、自宅にかけてみようか――アキラはそんなふうに考え直した。まさか今の時間でまだ帰宅していないなんてことはないだろう。碁会所でヒカルと別れてから四、五時間経っている。
 ついにアキラが耳から携帯を離し、名残惜しげに電源ボタンを押そうとした時――

『……もしもし?』

 携帯電話の液晶画面が、呼び出し中から通話時間と通話料金の表示に変わった。
 手の中で聴こえてきた声は、ヒカルのものよりずっとか細い高い声で――アキラはそれが女性の声だと分かり、動揺で頭が真っ白になりかける。
 しかしすぐに正気を取り戻し、電話口の相手が誰なのか突き止めようと、携帯を耳に引き戻した。
「もしもし……?」
 問いかけると、電話の相手からほっとしたようなため息が漏れた。
『もしもし、塔矢くん? 驚かせてごめんなさいね。ヒカルの母です』
「あっ……」
 アキラはそう声をあげたきり、すぐに次の言葉を続けることができなかった。
 かあっと頬の奥から熱が沸き出てくる。女性というだけで、一瞬でも妙な想像をした自分が酷く恥ずかしくなった。
「あ、あの、こんばんは、すいません、こんな時間に……」
 別に自宅の電話を鳴らし続けたわけではないのだが、ついアキラは条件反射のように謝罪してしまった。
 何故ヒカルの母親が携帯の電話に出るのだろう? そんなことが頭をぐるぐる回るが、それを整理する余裕がない。
『いいえ、こちらこそごめんなさいね。ヒカルの電話に勝手に出たりして。あの子、携帯置いたまま部屋にこもっちゃってるの。いつもはそのまま放っておくんだけど……あんまり何度も鳴っていたものだから』
「す、すいません……」
 アキラは火がつきそうに熱い頬を、空いていた左手で押さえた。
 なんとまあ、常識外れな回数を鳴らし続けてしまったものだ。もしかすると、十分近くも鳴らしていたかもしれない。さぞやヒカルの母も呆れたことだろう……
『先日は結構なお茶をお土産に有難うございました。お見舞いもお渡しせずにかえってお気遣いいただいてしまって。お父様のご様子はどうかしら?』
「あ、いいえ、ご心配おかけしました。もうすっかり落ち着いて、今は自宅で療養しています」
 アキラは額に薄ら浮かんだ汗を拭いながら、余所行きの声で答えた。まさかこんな形でヒカルの母と電話することになろうとは。言葉の端々に緊張を滲ませて、アキラは狂ってしまったペースを取り戻そうとやっきになる。
 すると、ふと和やかだったヒカルの母の声色が一段低く落ちた。
『あのね、塔矢くん……突然こんなことを言い出して申し訳ないんだけど……、塔矢くんはヒカルと仲良くしてくださってるみたいだから、少し聞きたいことがあって。……いいかしら……?』
「は、はい、なんでしょう?」
 アキラは驚きに瞬きし、そして誰も見ていないのに元々伸びていた背筋を更に伸ばした。
 思いがけずヒカルの母と話すことになってしまった。ヒカルの母とは、去年のヒカルの誕生日に進藤家に招かれてから、数回顔を合わせた程度である。その後、クリスマスの一件などがあり、恐らくヒカルの口からも頻繁にアキラの話題が母親に伝わっているものと予想できるが、改まって話とはなんだろう……
『ヒカルのことなんだけど……あの子、最近棋院ではどんな様子かしら……?』
「棋院で……ですか?」
 驚いた口調のままアキラが聞き返すと、ふっとため息のような空気の触れる音が耳を掠める。
『あの子、なんだか最近おかしくて……』
 アキラが息を飲んだ。
 ヒカルの母の言葉にすぐに反応できずにいると、彼女がぽつぽつとヒカルの様子をアキラに尋ねた理由を語りだした。
『先月くらいから、帰ったらすぐに部屋に閉じこもって碁を打ってるの。毎晩毎晩……本当に夜遅くまで起きてるみたいで……。最近は特にそれが酷くて、ろくに食事もとらないのよ……』
「それは……本当ですか……」
 声を喉に引っ掛けながらも、アキラはやっとのことでそう尋ねた。
 いくら自分が親しい友人としてヒカルの母に信用されているとしても、少し碁の勉強に根を詰めたくらいでこんな相談をするとは考えにくい。
 思わず息子の友人に様子を尋ねてしまうほど、ヒカルの状態が深刻ということだろうか?
『なんていうんだったかしら、棋譜? それを部屋中にばら撒いて、黙々と碁盤に向かってるみたいなの。まるで何かに取り憑かれたみたいに』
「取り憑かれた……」
 ヒカルの母の言葉通りの光景を想像して、アキラは身震いした。
 棋譜だらけの部屋の中で、一人碁を打つヒカル。碁のみで閉鎖された空間に身を置くヒカルは、またあんな目をしているのだろうか。
『だからね、この前ヒカルが塔矢くんのお宅にお邪魔した時、ちょっとほっとしたのよ。あんなふうに遊びに出かけるのは本当に久しぶりだったから』
 その言葉に、アキラの胸がチクチク痛む。
 ヒカルの母は自分を信じ切っているが、あの夜ヒカルとしていたことは決して健全なものではない。
 しかし、あの夜のヒカルは穏やかな寝息をたててぐっすりと眠っていた。疲れによるものか、それとも安堵なのか……。どちらにせよ、あの一晩だけでもヒカルを休ませてあげられたことは間違いなさそうだ。
『あの子、棋院でもあんな感じなのかしら。何だかいつも苛々して……すっかり窶れちゃって……』
「あ、あの……」
 アキラを意を決して口を開いた。
「今も、進ど……ヒカルくんはずっと部屋に?」
『ええ、きっと声をかけても出てこないわ』
 ほんの数秒、アキラは考えた。
 しかし迷っている暇はない、と頭の何処かで囁かれた声に、アキラは素直に従うことにした。
 ――これ以上、ヒカルを放っておけない。
「でしたら、夜分遅くにご迷惑だとは思うんですが……これからお伺いしてもよろしいでしょうか」
『えっ?』
「ヒカルくんと、話がしたいんです……」






こっ恥ずかしい男です……。
ちなみに午後10時くらいの設定です。迷惑な。