FLAME






 戸惑っていたヒカルの母を強引に押し切り、アキラは形ばかり丁寧な挨拶を最後に通話を切った。
 それからすでに眠る支度をしようとしていた母親に出かけてくることを告げ、こんな時間に迷惑だと怒られながらもアキラは家を飛び出した。
 ヒカルはきっと、あの湖の底にいる。思わず自分を見せてしまった夕方のアキラとの一局を振り切り、淋しい水の底へとその身を隠そうとしている。
 完全に姿が見えなくなる前に、明るい場所へ引き揚げてやらなければ――二月も終わりの午後十時すぎ、冷たい風を切ってアキラはわき目もふらずに走り続けた。

 電車を乗り継ぎ、ヒカルの自宅にアキラが到着したのはすでに午後十一時近かった。
 さすがに友人の家を訪ねる時間としては躊躇いがある。事前に連絡していたとはいえ、アキラがチャイムを押すためにはちょっとした勇気を必要とした。
 アキラが来ることが分かっていたからか、玄関前の小さな電灯にはオレンジ色の灯りが灯っていた。チャイムの後、それほど間もなく中から鍵を開ける音がして、ヒカルの母親が顔を出す。
「遅くに本当に申し訳ありません」
 アキラはなによりもまず頭を下げた。
 ヒカルの母は微かな苦笑いを見せた。その様子に、非常識な行動をとった自分への侮蔑が含まれていないことに、アキラは少し安堵する。
「こちらこそわざわざ来ていただいてすいませんねえ。塔矢くんもお忙しいでしょうに」
「いいえ、ボクもヒカルくんの様子が気になっていましたので」
 玄関に入り、ドアが閉まるとほっと頬が寛いだ。今更ながら、外気が酷く冷えていたことを思い知らされる。
 お邪魔します、と靴を脱いだアキラは、玄関に置かれたヒカルのごつごつしたスニーカーを見て目を細めた。そしてすぐ目の前にそびえる階段を見上げる。
「ごめんなさいね。塔矢くんが来るってこと、まだヒカルに伝えてなかったの。今呼んでくるから……」
「いえ、ボクが行きます。どうぞ下にいらしてください」
 柔らかくもきっぱりとアキラが告げると、ヒカルの母は少し戸惑った表情を見せ、それでも一歩下がってアキラに頭を下げてくれた。どうやら、アキラに任せてくれるらしい。
 ヒカルの母に一礼して、アキラが階段に足をかけた。
「あ、あの、塔矢くん」
 その時慌てたようにアキラを呼び止めたヒカルの母に、アキラは首を傾げながら振り向く。
「あのね……、あの子、部屋にいる時少し神経質になってるの。だから、ひょっとしたら不機嫌になったり、大きな声を出したりするかもしれないけど……気にしないでやってくれるかしら……」
 アキラは少しだけ目を見開き、すぐに笑顔を作ってみせた。
「分かりました。大丈夫です」
 ヒカルの母がほっと目尻を下げたのを確認し、アキラは再び階段の天辺へと目を向けた。その顔はもう笑ってはいなかった。
(……少し神経質になってる……?)
 不機嫌になったり、大きな声を出したり……、ひょっとして、ヒカルはこれまで母親に対してそういう態度をとってきたということだろうか。
 何処か怯えたようなヒカルの母の顔。しかしそれは、息子の変化にというよりも、息子の変化を目にしてアキラが動揺しないかを怖れているように見えた。
 静かに静かに、階段を上がっていく。何度か訪れたヒカルの部屋のドアが見える。ヒカルは今、あのドアの向こうで碁盤を睨んでいるはずだ。
 もういいだろうと、そう声をかけてやりたい。何に追い詰められたのかは推測の域を出ないが、saiになろうとしたヒカルは充分傷ついている。
 腕を広げるから、戻っておいでと。自分だけではない、ヒカルを心配している人は他にもいる。あんなに窶れるまで自分を追い込んで、自分の碁を犠牲にしてまでsaiになることはない。
 現に、「ヒカル」は打ちたがっているじゃないか――……

 アキラはドアの前に立ち、軽くノックをした。……しばらく待つが返事がない。
 いつの間にか乾いていた口唇を舐め、軽く深呼吸して、アキラはドアノブに手をかけた。
 えいっと勢いよく開いたドアの隙間から、何か白いものがはらりと舞うのが目に映った――




 アキラはその光景に目を見開き、言葉を失った。
 それはさながら白い海。
 棋譜で溢れた部屋の中央に、ヒカルはいた。
 まるで紙に埋もれるように、碁盤と向き合ってこちらに背中を向け、アキラが来たことにも気がつかずに……
 アキラが開いたドアが起こした風が、近くにあった棋譜をひらひらと飛ばしていた。
 そのまま、まるで導かれるようにアキラの足元へ飛んできた棋譜を、アキラはゆっくり腰を屈めて手に取る。
 その棋譜に書かれた対局者の名前に目を留め、アキラの顔が強張った。

 ――黒石・塔矢アキラ、白石・sai――

(……これは……)
 素早く目で石の並びを追う。間違いなく、かつてアキラがネットでsaiと対局したあの棋譜だった。
 プロ試験本戦初日。saiに指定された日時に開始された不思議な対局。目の前に立ちはだかった大きな壁……
 あの時、ネット越しに伝わる不気味な気配に見え隠れしていたヒカルの影。初めてヒカルと対局した時に見た、あの拙い手つきで石を置く様までもはっきりと見えたような気がして――アキラは正体を突き止められないままsaiに翻弄され、敗北した。
 あの一局は、確かにアマチュア選手権の会場でちょっとした話題になってしまったようだから、無関係な誰かが対局を見ていたとしてもおかしくない。
 しかし、ヒカルは。あの時はパソコンなど持っていなかったヒカルが、何故この一局の棋譜を持っているのだろう?
(……いくらでも解釈しようと思えばできるが……)
 例えば、「誰か」からこの対局の存在を聞き、棋譜に起こしたとか。例えば、「たまたま」対局を見ていたとか。苦しいながらも、ヒカルがこの一局を知ることになった可能性が全くないわけではない。
 しかしアキラは今、違う可能性を考えようとしている――すなわち、ヒカルとsaiとの関係を――そしてアキラはその可能性を払拭しようときつく目を瞑った。
 思考を閉じ、浮かびかけた考えを掻き消した。
 これ以上、ヒカルとsaiの場所に踏み込むことを自分から禁じた。
(ボクは何も聞かないと決めた――)
 ヒカルが話してくれるという「いつか」を、何年だって待つと決めたのだから。
 アキラの力の抜けた手から、はらりと棋譜が落ちる。ひらひらと、アキラがこの部屋のドアを開けた時と同じように、空気の中を優雅に舞った棋譜が……ふわ、とヒカルが向かう碁盤の上に乗った。
 ぴくりと、ヒカルの肩が動く。それから数秒の間を要して――ヒカルがゆっくりゆっくり振り向いた。


 ドアのところで立ったままのアキラを見て、ヒカルの目がほんの少し大きくなる。
 その瞳の中に、底が見えないほどに深い、冷たく哀しい水の青を見たアキラは、ざわりと背中を撫で上げた寒気に全身の血を吸い取られたような気がして――息をすることも忘れて、震えだす身体を抑えることが出来ず、かろうじて叫びだすことだけは堪えて――気づけばヒカルに手を伸ばしていた。


 ヒカルの腕を乱暴に掴み、ヒカルが立ち上がる体勢を整えたかどうかの確認もせず、そのまま強引に引っ張った。まるで引き摺るようにヒカルを部屋から連れ出した。
 棋譜だらけの白い海、こんなところにヒカルを置いてはおけない。ただただその一心で、力任せにヒカルの腕を引いて階段を下りる。転がるように二階から下りてきた二人に、ヒカルの母が驚いて居間から顔を出した。
「すいません、ヒカルくんをお借りしますっ……!」
 背中に何か声がかかるが、アキラは振り返らずに玄関へ向かった。革靴のアキラに対し、スニーカーのヒカルは恐らく足を突っかけたままで、そうして二人は寒空の下に飛び出した。
 早くあの部屋から離れなくては。何処かへ、早く。追われるように、逃げ出すように、早く、早く、何処かへ。
 ……一体何処へ?
(――何処だっていい)
 棋譜に囲まれた息苦しい白い海から、ヒカルを連れ出せるのなら何処だって構わない――







真夜中の拉致。
アキラいっぱいいっぱいです。