FLAME






 アキラの目がふわりと広がった。
 ヒカルは頭の中で「ヤメロ」と囁き続ける最後の足掻きを振り切って、堰を切ったように喚き始めた。驚くほど言葉がずらずらと出てきた。
「お前だって、打ちたいはずだ! ネットでのアイツとの対局、今でも覚えてるんだろう!? お前、自分で言ったよな。三年前の名人戦の一時予選、俺の碁で佐為を思い出したって! 碁会所で最初に二度打った、あの時の俺が佐為だって!」
「進藤、よせ!」
「あの時の俺を見たから、お前は俺を追ってきたんだろうが! もし初めてお前と俺が出会ったのが、囲碁部の三将戦だったら……、お前は俺のことなんか見向きもしなかったくせに!」
 声を限りに振り絞ったら、代わりに涙が滲んできた。
 そう、アキラは最初から佐為を追い続けてきた。消えた佐為の面影を利用して、ヒカルがそれに摩り替わった。
 ずっと、ずっと! ――アキラが打ちたがっていたのは佐為で、「ヒカル」はその身代わりだった。
 それでもいいと、自分だけは思っていた。いつか佐為を越えて、アキラの心に完全に自分が居座る日が来るようにと、したたかな希望があったのも本当だ。
 だけど、佐為の碁はあまりに遠くて――あの世界を引っくり返せるほどの力がすぐには手に入らず、耳に入る佐為を熱望する声にどんどん心は縛られて……
 ……いつの間にか、「佐為になる」ことに逃げ込もうとしていた……

(……そうだ……俺は逃げていたんだ……)

 誰もが佐為の碁を望んでいたからと理由をつけて。
 価値のある佐為の碁を遺すべきだともっともらしいことを言って。
 結局、自分の力が適わないと諦めてしまったから。佐為の後に残ったものが、望まれていない自分の碁だと咎められる前に。
 そうして、佐為との勝負から逃げたんだ……


 佐為の碁に魅せられてヒカルを追ってきたアキラ。
 囲碁部の三将戦、ヒカルの碁に失望して一度は背を向けたアキラ。
 そんなアキラを追いかけたヒカルに、アキラが振り向いてくれたのは――佐為の碁が忘れられなかったから。


「碁会所で二度打った……あの碁がなければ、お前は俺のことなんか頭の端っこにも置いてくれなかっただろう?」
 語尾に自嘲めいた笑いが滲む。苦い笑みだった。
 誰かのために一生懸命になっている間は、こんなことは考えずにいられた。
 行洋のために、緒方のために、佐為を待つたくさんの人々のために、佐為になろうとすることだけに集中していれば、こんな醜い部分に気づかずに済んだ。
 自分勝手に追い詰められて、悩んで、苦しんで、それでも本気で佐為になろうとあの高みを目指したのに、指先さえも届かない美しい黒と白の世界。
 佐為になりたかった。――佐為になれば、誰もが喜んでくれる。
 佐為になりたくなかった。――佐為になってしまえば、「自分」は本当に用済みになってしまう。
 相反する二つの思い。佐為になりきれないのはそのせいだろうか? 佐為の碁を打とうとしても楽しめない。自分の碁を打ちたいという欲が頭を擡げる。
 佐為が一番打ちたかった時に、その声を聞いてやらなかった自分への報いだろうか? 佐為があの頃、どれだけ悲痛な思いで触れられない碁盤を見つめていたか、今更思い知っても時間は戻りはしないのに。
 ヒカルはいつしか俯いていた頭を静かに持ち上げ、目の前で絶句しているアキラを見た。
「……打たせてやりたかった」
 視界がじわりと歪んでいく。目の奥に力を込め、瞼をしっかり見開いて風を呼び、湿りかけた表面を乾かそうと瞬きをする。
「打たせてやりたかった。……佐為と。塔矢先生や……緒方先生や……お前を……」
 風が染みて、再び滲んできた目からヒカルはとうとう小さな滴を落としてしまった。
 アキラの姿が濡れてぼやける。その身体が微かに震えてみえるのは寒さのせいだろうか……それとも……
「……ふ……」
 ふと、風に紛れてアキラの呟きが耳に届いた気がした。
 思わず耳を澄ませたヒカルは、その数秒後に顔を顰めて耳を塞ぎたくなるとは気づかなかった――

「ふざけるな!!」

 ヒカルは濡れた目を見開いた。
 目の前で肩を怒らせて、切れ長の目を極限まで吊り上げて、興奮のせいか顔を真っ赤にして大音量で喚いた男を凝視する。
 たじろぐヒカルの両肩を、再びアキラの手が捉えた。そのまま握り潰す気かと思うほどの酷い力だった。
「キミは……、キミは、本気でそんなことを言っているのか!」
 アキラの勢いに気圧されて、おまけに涙腺が刺激されたままの状態で、迂闊な声を出せない。戸惑うヒカルを置いてきぼりにして、アキラはなおも喚き続ける。
「確かに! キミと碁会所で二度打った、あの対局がなければ、ボクがキミを追うことはなかったかもしれない……! でも、今目の前にいるキミは! ボクが必要としているキミは、あの日のキミではないっ!」
 ヒカルは瞬きを忘れて、ヒカルの身体を揺さぶりながら口角に泡を飛ばすアキラを呆然と見つめていた。
 ――なんでお前が泣くんだ。そんな間抜けな呟きをうっかり漏らしてしまいそうになるほど、目の前のアキラがあまりに必死で空恐ろしさを感じる。なんだか魂が抜けてしまいそうになるくらいに。
「ボクが打ち続けたいのは、ボクが愛してるのは、ボクらが出会ってから、一緒に泣いたり、笑ったり、何度も打ってきたキミだ! 他の誰でもない、saiなんかじゃない、ボクと一緒に時間を過ごしてきたキミだ……ッ!」
 アキラの顔がぐしゃりと歪む。
 こんなに涙にまみれてくしゃくしゃになっても、走ってきたせいで普段は真っ直ぐな黒髪が乱れに乱れていても、アキラの激しさはいつも綺麗だとヒカルは目を細める。
 細めた瞼の隙間にこんもり溜まった水滴が邪魔で、アキラの姿がよく見えない。喉に引っかかって声が出せないのだから、せめて彼の目を正面から見つめ返したいと思っているのに。
「今、目の前にあの日のキミが現れたとしても! たとえ、saiが現れたとしても……! ボクが手をとるのは、今ここにいるキミだ! 進藤ヒカル、キミだ!」
 応えたいのに、ひく、と喉はおかしな音を鳴らすばかりで、アキラの必死の問いかけに何も言葉を返せない。せめてこの目を見開きたいのに、溢れ出る水が鬱陶しくて瞬きすらろくにできない。
「ボクを見損なうな……!」
 アキラが振り絞るような呟きを漏らし、ヒカルの肩を掴んだままがくりと視界を下げた。
 ――ああ、顔を上げて。その黒髪に隠れてしまわないで。震える肩を抱き締めてあげたいのに、金縛りにあったみたいに身体に力が入らない。
 とうや、と口唇だけを動かしてみた。でも音が上手く出てこない。
 変な息を漏らしながら何度も塔矢、塔矢と呼んでいたら、アキラがゆるゆると顔を上げた。涙が至る所を伝った顔はやっぱりぐしゃぐしゃだったけれど、それが気にならないくらいに激しい炎を湛えた瞳が真っ直ぐにヒカルを見つめてくれる。
「……キミは誰だ」
 アキラはまだ震えの収まらない口唇で、ヒカルを覗き込むように顔を近づけて尋ねる。
 声がうまく出せないヒカルは、それに答えられない。
「キミは……、ボクの目の前にいるのは、……ボクが愛しているのは、誰だ! キミは、誰だ! 答えろ……!」
 泣き声混じりに怒鳴られて、ヒカルはとうとう堪え続けた何もかもを手放した。
 懇親の力を振り絞って口を開いたら、ヒカルの顔もアキラに負けず劣らずぐしゃりと崩れる。
 でももうそんなこと構っていられなかった。
「……進藤……ヒカル……」
 ともすれば嗚咽に負けてしまいそうなヒカルの呟きは、アキラが確かに拾ってくれたらしい。
 アキラは掴んでいたヒカルの肩から手を離し、代わりにきつくその身体を抱き締めてくれた。アキラの熱を強く感じて、気づかないうちに身体がすっかり冷えていたことを思い知らされた。
「……ヒカル……」
 耳に触れた低い囁きが、アキラのものだと分かるまで少し時間が必要だった。
 初めて呼ばれた名前の響きに、甘くくすぐったい感触が胸の中を通り過ぎていく。
「ヒカル……!」
 息が出来ないくらいに回された腕の中で、その強さに負けないくらいにヒカルは声を張り上げて泣いた。
 アキラも同じくらい泣いていたかもしれない。アキラがこんなに大泣きしているのを見るのは初めてだなんて、涙と寒さで麻痺してしまった頭でヒカルはぼんやり考える。
 土手のど真ん中、周りには人影の欠片も見えず、冷え冷えとした月と星の輝く黒い空の下で、二人は馬鹿みたいに抱き合ってわんわん泣いた。
 濡れた顔を刺すように風が撫で、アキラと触れ合っていない身体の部分がやけに寒くて、ヒカルはアキラの熱を全て奪いつくさん勢いでしがみついた。しかしアキラも同じだけの強さでヒカルを抱き締めていたから、きっとおあいこだろう。
 空気が澄んでいるからだろうか、無性に星がきらきら煌いて見える――アキラの肩越し、涙に崩れた視界に映る夜空を見上げながら、ヒカルはいつもよりはっきり輝く星を気にして、また大声で泣いた。






ああもう何やってんだこの二人は。
最初の予定では凄くしっとりした話になるはずだったんですけど……
アキラさんのカッコイイ台詞を期待していた方がいらしたらゴメンナサイ……
やはりまだ二人ともがきんちょでした。

このお話のイメージイラストをいただいてしまいました!
とっても素敵なイラストはこちらから
(2006.12.24追記)
(BGM:FLAME/BUCK-TICK)