FLAME






 どのくらい走っているのだろう。
 アキラに掴まれていた腕はいつしか自由になり、代わりにいつの間にかきつく手を繋いで、ヒカルはアキラの背中を見ながら走り続けていた。
 全力に近い速度で走っているためすっかり息が上がり、肺に入り込んだ冷気のせいで胸が苦しい。頬が風を切ってチクチク痛い。目尻には薄ら涙も溜まっている。
 ただ、繋いだ手と手だけが、まるでそこが心臓になったようにどくどくと脈を打ち、熱かった。
 きちんと履けていない靴が何度も足から脱げかかる。その度にバランスを崩すが、アキラに強く手を引かれて転げるように走らされる。
 こめかみに汗が滑り落ちる。まだ二月、吐く息が薄ら白くなるほどの寒さなのに、活動する身体の内側からどんどん熱を生み出されて、暑いくらいになっていた。
 土手に差し掛かり、なだらかな斜面の下に流れる川の音を聞いて、もうこんなところまで来てしまったとヒカルは眉を歪めた。
 一体何処まで走り続ける気なのだろう。もう、家を出てから何十分こうしているのか……
「……とう、や」
 冷えた空気が、頭の中を覚醒させていく。
 佐為に浸かり切っていたヒカルの心が、寒空の下でアキラに強く手を引かれ、「ヒカル」に戻っていく。
 何故アキラが自分の手を引いて走っているのか? そもそも、何故アキラがここにいるのか?
 様々な疑問が浮かび上がるようになった思考は、冬の空のようにクリアな色を取り戻した。
「塔矢、おい!」
 きつめに名前を呼ぶと、それまで前だけを向いてひたすらに走っていたアキラの足が止まった。
 あまりに突然の停止で、ヒカルは内臓がぐっと押し込められたような感触に吐き気を覚える。そのほんの一、二秒後に全身から汗がどっと吹き出してきた。
 開きっぱなしの口唇がひっきりなしに酸素を求め、カラカラの口内に舌が張り付いていた。迂闊に唾液を飲み込むと噎せ返りそうなほど。汗が伝う皮膚がむず痒い。濡れた身体に、二月の夜風は容赦なく冷気を吹き付ける。
 肩で息をするアキラの背中を、ヒカルは呆然と見ていた。静かな夜空の下で、二人の荒い呼吸だけが風に混じって耳に届く。
「……塔矢」
 上下するアキラの背中にその名を呼びかける。
「……塔矢!」
 振り向かないアキラに焦れて、ヒカルは掠れた声を荒げた。
 それでも振り向かないアキラに絶え絶えのため息をつき、ヒカルは乱れた金の前髪をぐしゃっと握り締める。
「……帰ろうぜ。お母さん、びっくりしてる」
「……」
「おい、塔矢……」
 アキラの肩に手をかけるより早く振り向いたアキラが、ヒカルの両肩を力強く掴んだ。
 呆気にとられるヒカルの真正面で、アキラは険しい表情を更に強張らせてヒカルの目を射抜くように見据えてくる。
「……帰さない」
 未だ整わない呼吸の合間に、アキラがそう呟いた。
「え……?」
 ヒカルが片眉を持ち上げると、両肩を掴むアキラの指がぎり、と肉に食い込んだ。鈍い痛みにヒカルが思わず顔を顰める。
「……帰さない。キミをあんな部屋には帰さない。あんな苦しい部屋に帰すもんか」
「な……に言ってんだ、お前……」
 ぎくりとヒカルの胸が音を立てた。
 苦しい部屋と言われて、否定できない自分がいる。
 あの部屋は酷く息苦しい。棋譜にまみれて、強引に佐為の意識を感じようとして、その空気が重くヒカルの心身に圧し掛かっていた。
 アキラは怒ったような泣き出しそうな複雑な表情で、戸惑いに揺れたヒカルの瞳を見逃すまいと目を光らせている。
「……キミはずっとあんな部屋にいたのか」
 ヒカルは黙って口唇を噛む。
 その仕草を肯定と受け取ったのか、アキラは眉間に深い皺を寄せて俯こうとするヒカルの顔を覗き込んできた。
「いつから? ボクが中国に発った時から? それとも、緒方さんと打った時から?」
 ヒカルは目を見開いた。
 先ほどに比べて緩やかにはなったものの、服の下で慌しく上下し続ける胸を汗が伝っていく。
「お前……緒方先生から何聞いた」
 思わず、早口にそう尋ねてしまっていた。
 まさか、佐為に関わる何かを聞いたのではないかと――あの夜、佐為が緒方と打った一局を並べて見せられたりしていないかと。
 そして、ヒカルが打った緒方との対局の内容を知られてはいないかと。
 佐為の勝利を引っくり返された、惨めな負けっぷりを……
 しかしアキラはヒカルの質問に答えず、肩を掴む手に力を込めるばかり。
「……何故?」
「え?」
「何故、saiなんかになろうとする?」
 その言葉を聞いて、ヒカルの額にさっと影が走った。
 それからすぐに、火照った頬に更なる熱が灯り、皮膚を突き破ろうと燃え上がる。

 ――佐為「なんか」?

 求めてやまないあの碁を? 焦がれ続け、追っても追っても追いつかない佐為の碁を「なんか」呼ばわり?
 その、佐為「なんか」になろうとして、でもなりきれなくて、出口の見えない迷路でひたすらもがき続ける自分は一体――?
 ヒカルは眉間がぶるぶる震えるほどに力の入った目で、アキラをきつく睨みつけた。アキラも怯むこと無くヒカルを睨み返してくる。
 寒空に、静かな火花が散る。
「……佐為なんかってどういう意味だ。佐為を馬鹿にしてんのか」
「そうじゃない。キミがsaiになろうとすることが無意味だと言っているんだ」
「無意味だと?」
 乾いた風が二人の間を通り過ぎていった。
 息切れは落ち着きつつある。風に晒された身体に纏わりついている汗が冷えて、寒気に震えだしそうになるのをぐっと堪えた。
「ああ、無意味だね。キミがsaiの碁を打って何になる?」
「俺が佐為に及ばないから、そんなこと言うのか?」
「違う! ……キミはsaiじゃない。キミはsaiにはなれない!」
「だから、俺の力が佐為に適わないってことだろ!?」
「そうじゃない!」
 声を振り絞ってヒカルの言葉を否定したアキラに、ヒカルもぐっと口唇を噛む。
 アキラもまた口唇の端を噛み、僅かに眉尻を垂らしてヒカルを見つめていた。やや上目遣いのその黒目が何かを訴えているようで、ヒカルはごくりと唾を飲み込む。
「……どうしてsaiになろうとするんだ……」
「……塔矢」
「キミにはキミの碁がある。何故そんなに無理してまでsaiの碁を打とうとする?」
「何故って……?」
 ヒカルの口唇がぷつりと音を立てた。乾いた肉を噛み締めていたので、口を開いたはずみに切れてしまったらしい。
 でも、痛みを感じる余裕がない……


 ――saiと、もう一度――


 ヒカルは一瞬俯いて目を閉じ、すぐに開いて顎を上げた。
「佐為の碁を待ってる人たちがいる。だから」
「だからキミがsaiになるというのか?」
「……そうだよ」
 ヒカルが肯定すると、アキラが一瞬はっとしたように瞬きし、すぐに苦々しい表情を浮かべてヒカルを見据える。
「……まさか、それで父と打ちたいと言いだしたのか」
「……」
 ヒカルが口を噤むと、アキラの目に怒りの火が燃え上がった。
「では、父のせいでキミが窶れたということか?」
「塔矢!」
 行き過ぎたアキラの言葉を咎めようとヒカルは声を荒くした。
「違う、先生が何か言ったんじゃない! 俺が勝手に佐為と打たせてあげたいって思ったんだ! それに、先生のためだけじゃない!」
「では他に誰が? 緒方さんか? その二人のために、キミはそんなにぼろぼろになってsaiの碁を打とうとしてるというのか? 馬鹿馬鹿しい!」
「バカバカしいだと!?」
 頭の天辺を目指して身体中の血が駆け上っていく。
 拳をきつく握り締めて、チカチカする目の奥の痛みを奥歯で噛み殺して、ヒカルは肩を掴むアキラの手を振り解いた。
「アイツは……、佐為の碁は……、碁打ちの夢なんだ……!」
 遥か千年の昔から、碁を愛し続けた魂が魅せた奇跡のような時間。
 彼の碁に触れた誰もが、あの素晴らしい碁の煌きが蘇るのを舞っている。佐為が消えて何年も経った今でも、その熱意は変わることなく――佐為の碁には、それだけの価値と、魅力があった。
「アイツの碁が好きで……、アイツと打ちたがってるヤツがたくさんいる……アイツの碁は、遺さなきゃなんねえんだ! 俺が! 俺にしかできねえんだよ!」
「そのためにキミの碁が消えるのか!? 何故saiなんかにキミをくれてやらなければならないッ!」
 血走った目を吊り上げて声を張り上げるアキラに、ヒカルは何度も首を横に振った。
(違う、塔矢! お前は知らないからそんなことが言えるんだ……!)
 佐為の碁がどれだけ夢を見せてくれたか。
 佐為の碁に魅かれた人がどれだけいるか。
 ……アキラもまた、佐為に魅かれた一人だというのに。
「俺の碁なんか……、俺なんか……!」
 瞬きするたびに、瞼の裏の炎のような赤が視界にちらついて眩暈がする。
 汗が冷えて寒いはずなのに、全身が脈打ってまるで血が沸騰したようだ――ヒカルは顔を歪め、やり場に困った拳で自分の胸を叩いた。

 ――強くなりたいなら、モノマネからは卒業するんだな……

(俺の碁に何の価値がある?)

 ――自分のものにもならない力を中途半端に振りかざしているようじゃ……

(誰にも負けない佐為に比べて、俺の力はこんなにちっぽけなのに)

 ――saiともう一度!

(塔矢……お前だって)

「お前だって……、お前だって、」
 眩暈の切れ間に警鐘が鳴り響く。
 それ以上言ってはいけないと身体が警告を出している。
 今まで考えないようにしてきた。口に出さないようにしてきた。
 それを言ってしまったら、本当に……自分の存在価値が、欠片もなくなってしまうような気がして……

 ――でも、もう止められない――

「お前だって、佐為と打ちたいだろう……!?」







ようやく溜まっていたものを爆発させられました。
ヒカルもいっぱいいっぱいです。