行き交う人の流れを楽しげに目で追い、今にも鼻歌を歌いだしそうな勢いで、六階建てデパートでアーケード状の入口を支える柱に凭れたヒカルは、着々と迫り来る約束の時刻を心待ちにしていた。 珍しく待ち合わせの三十分も前に到着した。する予定だった寝坊をしなかったせいか、二度寝の誘惑を振り切ったおかげか。 いつもきっちり約束の十分前に現れる恋人なら、もうまもなく姿が見えるはずだ。待たせてばかりだから、たまにはこういうのも新鮮だ、なんてヒカルははしゃぐ心を抑えられない。 ヒカルとアキラが付き合い始めて早五ヶ月が経過した。 小さなケンカは数知れずあるものの、基本的にはバカのつくカップルぶりでヒカルの日々は充実していた。 恋人としてだけではなく、勿論碁のライバルとしても特別な存在である。 ここしばらくの間、過去の対局を棋譜に残し始めていたヒカルは、そのことを今まで以上に意識するようになっていた。 佐為がいた頃の棋譜は、何かに守られているような温かみがあり、ヒカルにとって大切な一局ばかりだったということが今になって思い知らされる。 佐為は、自分に様々なことを教えてくれようとしていたのだ。今更ながら強烈に感じる事実に少し胸が熱くなったが、涙は零さなかった。めそめそしているヒマなんてない。 そして、アキラと打つようになってからの自分の棋譜は、ヒカルの想像以上に変化に富んでいた。 アキラの強さに引っ張られ、逆にヒカルらしさが浮き彫りになった気がする。低迷期の碁は見るに耐えなかったが、それでも反省の意味を込めて全て棋譜に起こした。闇雲な碁にはヒカルらしさが影を潜めている。ヒカルは、いつしか数多くの自分の棋譜から「らしさ」がどういうものかをぼんやり感じ取っていた。 社が、ヒカルとアキラの棋譜から変調を読み取ったと言っていたが、なるほどその言葉がよく頷ける。注意深く読みとることで打ち手のクセをここまで把握できるものかと、ヒカルはこれまで対局の勝ち負けばかりを気にして棋譜を手にしていた自分に舌打ちした。 強い棋士同士の棋譜を見ることは勿論、自分の棋譜を改めて見直すことも強さの向上に繋がることをヒカルは理解した。 今日は、そのことをアキラにも伝えたかった。パソコンで棋譜をつけるよう勧めてくれたのは、他ならぬアキラなのだから。 勿論、そのためだけに今日の約束を取り付けた訳ではない。どちらかというとそれはオマケであり、今日のメインはもっと別なものだった。 ふと、アキラを待つヒカルの目の前の交差点、信号待ちしているカブに跨っている男の姿にヒカルは首を向ける。 どうも見覚えのある男だ、とヒカルの脳が記憶の扉を開けたり閉めたりして、突然思い出したその名をヒカルは大声で叫んでいた。 「加賀!」 男は弾かれるように振り返る。ヘルメットの下でぎょろりとヒカルに向けられた目線は、間違いなく加賀鉄雄のものだった。 ヒカルは懐かしい顔を見つけ、思わず走り寄る。加賀もようやくヒカルと気づいたのか、カブを道路脇に寄せて飄々とした様子で「よう」と答えた。 ガードレールを挟んで、二人は向かい合う。 「すげー久しぶり、加賀だよな?」 「バーカ、こんないい男をどこの誰と間違えるってんだ」 加賀の言葉にヒカルは笑ったが、数年ぶりに会う加賀は確かにいい男になっていると頷いてしまう。 中学時代からかなりの身長だったというのに、あれから更に背が伸びて肩幅もがっしりとしたようだ。太い首にくっきり覗く喉仏がヒカルよりも雄々しく感じられて、嫉妬と羨望の眼差しを向けずにいられない。 「なんだなんだ、あんまりいい男なんで見蕩れたか?」 「変わんねぇなあ、加賀は」 「なんだその言い方は。まあ、お前も随分でっかくなったじゃねぇか」 言葉の割にぽんぽんと頭を叩く加賀の扱いが癪に障るが、しかし身長が伸びたのは事実なのでそのことについてはひっそりと喜ぶ。 何しろ、加賀とやり合っていた頃に比べたら二十センチは伸びたのだ。声だってそれなりに低くなったし、何より今はもう学生ではなく、プロ棋士として社会に出ている身だ。 (でも、どれもこれも塔矢には適わないんだよなあ) 身長も、声の低さも、棋士としての実力も、今一歩追いつけないことばかり。アキラは「そう簡単に追いつかせない」なんて軽い調子で言っているが、アキラのことだから本当は大真面目でそう思っているに違いない。 アキラが全力で走るなら、ヒカルもまた振り落とされないように後を追う。いつになったら追いつけるのか、相変わらずの関係はいつまで続くのだろう。 「頑張ってるみたいじゃねーか、進藤三段」 ふと、加賀がからかうような口調でそう言ったのを聞いて、ヒカルは少し目を大きくした。 「加賀、知ってたの?」 「まあな。頼んでないのに筒井のヤツがお前の情報寄越してくるんだよ。あいつ、今年だか去年だかのなんとか杯、会場まで行ったって言ってたぜ」 「北斗杯!? 筒井さんが!?」 加賀の口から出た懐かしい名前に、ヒカルの胸がじわりと暖かくなった。 ――筒井さん、俺のこと気にしてくれてたのかな。北斗杯、見に来てくれたなんて。ああ、いつ来てくれたんだろ。今年じゃないといいな。いや、去年でも負けたことに代わりないんだけど…… 「おいおい、俺を見つけた時より嬉しそうな顔しやがって」 「別に加賀見つけて嬉しかった訳じゃねぇもん」 「なんだと、このガキ」 「ガキじゃねぇって!」 言葉と裏腹に突っかかってくるヒカルを面白そうに見下ろす加賀には、やはりヒカルにない余裕がどことなく感じられる。 こいつは元々老けてたからな、とヒカルは自分を慰めた。 基本的に、自分は何処に行っても子供扱いされるのだ。 精神的に大人が多い棋士の世界で、あまり物を知らないヒカルは常に弟か子分のような位置に置かれているらしく、年下の越智でさえそう思っているようなフシがあって密かに歯噛みしている。 悪いことに、同い年として比較されるのがあのアキラなものだから、余計にヒカルの子供っぽさが目立つのだ。それでも、最近は前よりも落ち着いて来たねと言われることが少なくないとはいえ。 (アイツ、外面ばっかりいいからなあ。黙ってりゃ確かに十六歳っぽくは見えねぇけど、俺と二人でイチャイチャしてる時なんてもう、鼻の下伸びまくって……) 「しかし、お前がホントにプロになるとはねえ。念願の塔矢アキラのライバルになれてよかったじゃねぇか」 妄想がエスカレートしかけていたヒカルの耳に、まさにその妄想の相手であるアキラの名前が飛び込んできて、思春期の青年の心臓が情けなく縮み上がる。 加賀がそんなヒカルを訝しげに見ていたが、やがて何かに目を留めてお、と声をあげた。 「噂をすれば。貴公子のお出ましだ」 「え?」 加賀の視線に合わせてヒカルも顔を上げると、まさにアキラが先ほどヒカルが凭れていた柱に近づこうとしているところだった。 道路脇に寄ったヒカルには気づいていないようだ。軽くきょろきょろと辺りを見渡し、まだヒカルが来ていないと判断したのだろう、柱に添うように真っ直ぐ立って腕の時計を確認している。 「やっぱりいけ好かない野郎だな、アイツは」 ヒカルは思わずとうや、と呼びかけた声を引っ込める。 ――そういえば、加賀って塔矢のこと嫌いなんだっけ。 行き難くなってしまった。困ったヒカルは、早々に加賀との会話を切り上げることを選択した。久しぶりに会った旧友(先輩という意識はヒカルにはなかった)だが、大事な恋人を待ちぼうけさせるわけにはいかない。 「あ、じゃ、じゃあ、引き止めてゴメン」 別れの挨拶をにおわせているというのに、加賀は気づいていないのか、目を細めてヒカルを待つアキラを見ている。 じれったくなったヒカルは、強引にバイバイと手を振ってしまおうかと身構えかかって、ふいに加賀が吹いた口笛に目を丸くした。 「しっかし、アイツは別格だな。ストイックだこと」 「ストイック?」 「禁欲的、って意味だよ」 にやりと笑う加賀に、ヒカルは思わず珍妙に顔を顰めてしまう。 ヒカルが知るアキラにとってこれ以上似合わない言葉もあるまい。何しろ関西まで行ってセックスの仕方を勉強してくるような男だ。社もさぞかし苦労したに違いない。 「女なんか微塵も知りませんってツラしてやがる。恋人は囲碁ですって真顔で言いそうなヤツだな」 「そ、そうかなあ……」 まさかその恋人が自分ですなんて言えないが、加賀のアキラに対する評価は少なからずヒカルを驚かせた。 「汚れてないっちゅうか、血の通ってないロボットっちゅうか」 「うーん……」 「お前とは正反対だな」 「えっ?」 ふいうちの切り返しに、ヒカルの声が引っくり返ってしまった。 加賀はニヤニヤと高い目線からヒカルを見下ろしている。 「ど、どういう意味だよ、それ」 「そのまんまの意味だよ。お前みたいにガツガツしてねえって言ってんだ」 「が、ガツガツ!? 俺が!?」 頭にカッと血が昇ったのが分かった。 加賀はそんな慌てふためくヒカルの様子に満足そうに笑って、「お前、盛りのついた犬みたいな顔してるぜ」と追い討ちをかけた。 「さ、サカリ……!?」 「いやあ若いねえ、青いねえ」 カカカと高笑いを残し、それじゃあなと再びヒカルの頭をぽんと叩いた加賀は、ヘルメットを深く被り直してカブに跨って去っていく。 ヒカルはすぐにはショックから立ち直れなかった。 ――なんで、俺が盛ってる犬で、アイツが禁欲的なワケ? 何度も繰り返すが、身長も伸びて声も低くなった。周りからは随分大人びたと最近富に言われる。それでもアキラには一歩及ばないが、一歩だ、一歩なのだ。自分ではそう思っているのだ。 それが正反対とは何事だ。そんなにアキラが落ち着いて見えるというのだろうか。それはアキラのイメージが先行しているだけで、決して自分が繁殖期の犬みたいにガッついているわけではないと思うのだ。 そもそも、アキラが禁欲的というのが納得いかない。 セックスの壁を一段階越えたアキラは、隙さえあればかなりの頻度で肌と肌とのスキンシップを求めてくる。それにヒカルも乗っかってしまうのが悪いのかもしれないが、少なくとも仕掛けてくるのはいつもアキラだ。年中盛りがついてるのはあの男ではないか。 それなのに、周囲からはつらっとすまして見えるのだから腹が立つ。あの胸がどれだけ熱いか知らないくせに。あの瞳がどんなふうにヒカルを見るか知らないくせに。 「進藤?」 ぽんと背中に置かれた手の感触に、まさしくヒカルは飛び上がった。 振り向くと、驚きで目を点にしているアキラが手を置いたままの格好で固まっている。 「と、と、塔矢、お、驚かすなよ」 「ああ、ごめん……キミ、こんなところで何やってるんだ?」 ガードレールに向かって一人で顰めっ面をしているヒカルは、思ったよりも目立つ存在だったらしい。些細なことでも嫉妬するアキラに、加賀と一緒のところを見られてなくてよかったと安堵しつつも、どこか煮え切らない気持ちでヒカルはアキラと向き合った。 「そろそろ時間だよ。行こうか」 「お、おお。」 いつもと変わらない柔らかい笑顔は、確かに大人びて見える。 ――ストイックだこと。 しかし、これだけは素直に同意できない。早い話が、面白くない。アキラがストイックというのもそうだが、自分ばかりがガツガツしているなんてあまりに悔しい。 ヒカルは歩く道すがら、ショーウィンドウに映る自分を睨んだ。何がアキラと違うのか分からない。普段通りのヒカルの目に、他人にしか見えない情欲の炎でも揺らめいているというのだろうか。 アキラこそ、箍が外れたその瞳の中に獣を飼っているくせに―― ヒカルのプライドがじりじりと焦げ始める。 |
何故か突然加賀です。書きたかっただけ。
加賀がヒカルをガツガツしてると思ったのは、
デート(?)前で無意識に浮かれポンチ(……)になっていたヒカルの
ウキウキっぷりが分かりやすかったからと思われます。